ナランチャの遺体を保存したい
名無しのモブ視点。
原作直後、ナランチャの遺体の時間を巻き戻し続ける主人公。ジョルノエンド。
あれは十年近く昔のことか。当時の私は作家という職について暫く経ち、どうにもこうにも壁というものを感じていた、そんな頃合いであった。気晴らしに、慰めに。それからささやかな期待を胸に、私はイタリアという地を踏んだ。今という場所から飛び出せば何か変わるのではないか。そこまでいかずとも良い題材に巡り会えるのではなかろうか。そんな目論見の元、私は一人きままな小旅行に出た。
異国はやはり異国。何もかもが我が国とは異なる。人々の気質や習慣、あらゆるものが私に鮮やかな感情を生み出させてくれた。そう、あの不可思議な少年少女との出会いも、また。
その日私は列車に乗っていた。はて、どこへ向かうのだったか。今ではもう仔細までは思い出せぬが、それはイタリアを縦断する列車であった。
その車中でのことだ。私はひとりの少女に心惹かれた。とはいえそれは思い焦がれるといった沸き立つ感情の類いではない。だが目を奪われたというのに相違はない。私には最初それがどういったわけかわからなかったが、ともかくひとりの少女から視線を逸らすことができなかった。
通路を挟んでのことだったが、少女は私の隣の座席に座っていた。燃えるような金の髪に、濡れたように煙る紫の瞳。そしてこの辺りでは珍しく、青ざめて見えるほどに白い膚が印象的な娘だった。
少女の横顔を盗み見ながら、私はふとアメリカの作家のことを思い出していた。エドガー・アラン・ポー。彼にとっての永遠の女性。美しく、けれど病がちな乙女を。思い重ねてしまってから、私はそれが少女の瞳に落ちる深い影のためであるのだと諒解した。ポーの描く女性にあるような死の気配が、少女の纏う空気からも滲み出ているのだった。
作家の性か。それとも人間の醜い本能ゆえか。私は少女に深い関心を抱いた。しかし生来の内気者であった私には娘へ声をかける術も言葉も持ち合わせてはいなかった。
衝動的に立ち上がりかけた私だが、理性的な部分がそうした事実を全身に突きつけた。結果思い止まり、椅子の上で腰を浮かせるなんとも不格好な体勢で固まった。幸いなのは私の座った四人がけの座席、そこに他の客がいなかった点だろう。後ろの者が何を思ったかは知らない。恥ずかしくってとても振り向けやしなかった。それほどに内気も内気。そんな私であったから、少女と目が合った途端に頬が熱を持った。
私が立てたのはほんの小さな衣擦れであり、座席の軋み、空気の振動であった。そのはずだが、少女は弾かれたように顔を上げた。伏し目がちだった眼がはっきりと開かれ、不審極まる私をじいっと見つめた。
「どうかなさったの」
少女の紅い唇が動く。真珠のような歯の間から溢れ出たのは──なんということだろう、我が国の言葉ではないか!それが私とはまったく見目の異なる娘の口から飛び出たものだから私はもう驚いて驚いて、阿呆のようにあんぐりと口を開けてしまった。
「君、日本語が……」
「ええ、まあ」
少女は些事といった風で事も無げに曖昧な頷きをみせた。心ここにあらず。そう形容するのが今にして思うと適切だったのだろう。
彼女のことを慮るならそこで引くのが恐らく最善だった。だが私は少女が口を聞いてくれたこと、そして操る言語がらしからぬもの、しかし私にとって馴染み深いものであることを無邪気に喜び、気を大きくさせた。
「嬉しいな」私はぎこちなく笑い、「向かいに座っても?」と訊ねた。……あぁ、思い返すだけで顔が熱くなる。だがその思い切りがなければこうして筆を執ることもなかったろう。作家という職業を考えればこの時私は素晴らしい選択をしたのだった。
少女はまた「ええ」とぼうとした顔で答えた。私を見ているようで見ていない。そのように思われたが、好奇心には勝てなかった。許しを得た私は少女の向かいに腰を下ろした。
「……失礼、お連れ様がいらっしゃったんですね」
そこで初めて私は少女の右隣に人が座っているのに気づいた。私は額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら少女の顔を窺い見た。少女はすぐには返事をしなかった。数度瞬いた後に、やはり「ええ」と答えたのだった。
綻びかけた薔薇ほどに美しい少女の傍らにあったのは同じ年頃の少年だった。少年がそれまで無言だったのは眠っていたからだった。彼は少女の肩に凭れるようにして座り、安らかに目を瞑っていた。
私は咎められないのをいいことに少年の顔をもつぶさに観察した。長く房のような睫毛、繊細な鼻梁、柔らかさを残した輪郭、艶やかな黒髪、そうしたものを私は感嘆の息を堪えながら眺めた。
「仲が大変よろしいんですね」
私がそう言ったのは少女たちの手が固く握られていたからだ。いや、正確に言うなら少女の手が少年のそれを、と言うべきか。些細な違いだが、それはとても重要な点であった。
言ってから、私はまた頬を赤らめた。「すみません、」すぐに謝るのは悪い癖だ。そう言うことで安心感を得ている。私は続けて弁明のように己が作家という職を称していることを告白した。まったく、そんなものは免罪符になりやしないのに。
「そう、」
案の定少女には通用しなかった。彼女はぼんやりと相槌を打ち、少年の柔らかそうな黒髪にそっと頬を寄せた。互いに寄りかかり、支え合う様はひとつの絵画のようだった。或いは比翼の鳥といったところか。
「ええ、ですから、そのう……」
私は言葉に詰まり、まごまごと口を開閉させた。有り難くも作家という職をいただいている身の上。であるのに肝心な時にうまい言葉が浮かばないのだから、やはり私はその程度の男だったのだろう。当時は今にもまして未熟者であった。
私はそれでも座席を立とうとはしなかった。少女の声音は素っ気なかったが、明確な拒絶はなかった。それをいいことに私は居心地の悪さを味わいながらもその場に留まり続けたのだ。
少女は暫くの間沈黙を守った。身動ぎひとつしない少年に頬を擦り寄せ、唇をおののかせた。かと思えば引き結び、難しい顔で思索に耽る。少女の目にはその齢に相応しくない深い懊悩が刻まれていた。
そうして不意に。少女は唇を開いたかと思うと、だしぬけにこう問うた。
「作家先生ならご存知かしら」
言い置いてから。
「ねぇ先生、人はいつから人と見なされなくなるのかしら」
少女は私を真っ直ぐに見つめた。澄み渡る朝のような眼であった。しかしそうしながらも少女が見ているのは私ではない、私の向こうにいる誰かを見ているようだった。
少女は続けた。「世の中には認知科学というものもあるのでしょう?」ぽつりぽつりと言葉が私たちの間に落ちる。が、私にそれを掴むことはできない。呆気に取られた私は言葉が落ちるに任せるしかなかった。
「例えば人以外の動物はやっぱり人とは違うのだわ。どうしてってそれは『死』を理解していないからよ。苦しんでる顔だってほんの機械的な反応に過ぎない。そう言ったのは誰だったかしら。カントだったかしら。わからないわ、よく思い出せないけど、でもそういう話だったでしょう?」
私は先刻までの少女のように曖昧な笑みを刷いた。その傍らで私の頭は目まぐるしく思考していた。彼女が何を言いたいのか。何を言わんとしているのか。そうしたことを考えていた。
「それから、ええっと、そう、ワイゼンバウムだったかしら。コンピュータのプログラムっていうのはまるっきりの無機物をも知性を持った者のように見せられるって、そういうのは簡単なことだって、そう言ったのよね?」
「え、ええ……」
彼女の言うワイゼンバウムとはアメリカの研究者を指すのだろう。ジョセフ・ワイゼンバウム。コンピュータの能力と人間の理性。コンピュータに権利を与えることになったなら、幾つかの動物はどうなるのだろう。その境界はどこに引かれるのだろう。
少女はなおも言葉を止めなかった。「脳死ってあるでしょう?それから植物状態、」少女の声音は次第に熱が帯びていった。青ざめた頬が興奮に火照っていた。
「機能が停止していたらもう人ではないのよね?そう見なされるのなら、それなら停止していなかったら──永遠にそのままなら──それは生きていると言えるのかしら」
対照的に、少年は相も変わらず瞼を下ろしていた。とてもとても深い眠りに落ちているらしかった。まるで反応がなかった。蝋人形のようだ、とだしぬけに私はそう考えた。蝋人形のようだ。生きているようなのに生きていない。唐突にそのように思われて、私は「まさか」と思わず呟いていた。まさか──彼は、
「生きているわ、」
それを見透かしたかのように。少女は冷たく鋭く言い放つと、私の手を掴んだ。容貌に見合わぬ強さで引き寄せ、私のそれを少年の腕に触れさせた。
「ね?……あたたかいでしょう?」
果たしてその肌は少女の言う通りであった。微かな脈さえ感じられそうなほどだった。少年の身体は機能を失ってはいなかった。
そうなのだ、少年の身体は確かに『生きていた』。『生きている』、だがしかし、少年は目覚めない。言葉を発することも、瞼を開けることも、少女の手を握り返すことも、──恐らくは永遠にないのだ。
「しかし、」
私は素早く手を引く。少女は追いかけてはこなかった。怯えからその右手を押さえる私を感情の籠らぬ目で見つめた。
「しかし、彼は思考していない」
「思考していない動物だって生きているわ」
「反応だってないじゃないか」
「眠っているだけよ」
少女は少年の身体を抱き締めた。物言わぬ骸を。どういう仕組みかはわからぬが、死蝋の如き少年を。縋るような手つきで抱き締め、唇を噛み締めた。
私は彼らの身体から微かな鉄錆の臭いを感じ取った。そう、乾いた血の臭いを。命の残り香を。生命の残滓を。
それは私の胸に途方もない切なさを、哀しみを巻き起こしていった。私には彼らがとても愛おしいものに映った。愛おしく、美しい。何よりも輝かしいものとして映ったのだ。そう、ポーにとってのヴァージニアのように。私は運命と出会ったのだ。
「……やっと見つけた」
その声は通路から降ってきた。
驚いた私はパッと顔を上げ、声の主を凝視した。
声は少年のものだった。とはいっても少女の腕の中の少年から発せられたものではない。年頃は同じほどだが、ひどく聡明かつ慈愛に満ちた翠の目をした男だった。
彼は少女に手を差し伸べた。まるで私のことなど目に入らぬという様子であった。彼にとって少女がとても大切な存在なのだと部外者たる私にも如実に伝わってきた。
なのに肝心の少女は理解しない。怯えたように少年を抱く手を強め、頑是なく首を振った。
「いやよ、いや。私、離れないわ。離したくない。だって離したら……私が手を離したら……そしたら彼は、」
少女はその先を言いたくないらしかった。言葉を呑み、また「いや」と繰り返した。
少女を探していたらしい彼はそんな彼女にも呆れることなく付き合った。主張を一頻り聞き、その上で少女を優しく否定した。「いけません」、と。
「一緒に故郷に帰りましょう、彼の夢を叶えるために」
「でも私、私、……できないわ。だってこのまま時が流れてしまったら人は朽ちてしまうのよ?私が、私のせいで、私なら避けられるのに、なのにみすみすそうしろと言うの?」
少女は両手で顔を覆った。「私は彼の骨なんて見たくなかった」私が見たかったのはそんなものじゃなかった。彼女は消えそうな声でそう言った。
しかしそれでも彼は怯まない。「名前、」優しく少女の名らしきものを囁き、その肩を抱いた。その胸にある少年ごと。
「誰も君を責めません。ぼくもみんなも、……彼も。時間の流れるがまま、朽ちていったとしても、誰も君を責めたりなんかはしませんよ」
彼の手が少女の頭を撫でる。と、途端に少女からは啜り泣きが洩れ出した。堪えきれなかった、そんな具合で少女は金髪の少年の身体に縋りついた。
彼は少女を抱き締めたまま窮屈な座席に腰を下ろした。それを合図に私は席を立った。私は自身が役者にでもなった気分だった。私の役目は終わったのだ。少年に一瞥をくれられ、いかな愚鈍とはいえそう察しがついた。
以後のことは私の預かり知らぬところである。少女は無事黒髪の少年を埋葬することができたのだろうか。立ち直ることができたのだろうか。それとも永遠に焦がれ続けるのだろうか。
帰国した私は取り憑かれたようにして執筆に没頭した。私は幻想小説、怪奇小説の類いを幾つか発表した。私の描く少女はいつも病的に美しく、そして皆一様に無垢で愛情深かった。そう指摘され、私は曖昧に頷くことしかできなかった。やはり『憑かれた』というのが正しいのだろう。たぶん恐らくきっと、私はこの先もそういった少女を飽くこともなく書き続ける。そんな予感があった。
そしてその始まりをこうして形に表したのは再びイタリアの地を踏んだためである。
およそ十年ぶり。ナポリの街は様変わりしていた。列車も以前より速度を増し、故に思い出の少女など探す宛もなかった。
だが私は『憑かれた』男だ。例え彼女にその意思はなくとも。運命とはそういうものである。
「…………」
私は列車に乗り込もうとしている一組の男女を見つめた。二人とも燃えるように鮮やかな金の髪をしていた。娘の目は澄んだ紫の色で、青年の方は柔らかな若草色だった。
……そう、覚えのある色合いである。
「あら、この子ったら随分嬉しそうな顔で眠っているわ。そんなにあなたの腕が心地いいのかしら……。ねぇ、ジョルノ?」
「おや、……ふふ、焼きもちですか」
「そうね、私はどっちに妬いたらいいのかしら。あなたと手も繋げなくて私、すっごく寂しいわ」
「大丈夫ですよ、遠慮なく抱き着いてくれても。二人分くらい平気ですから」
「まぁ、頼もしい」
年若い二人は子供を抱きながら言葉を交わしていた。二人の顔には温かな微笑が浮かんでいた。切なさも哀しみも存在しない。幸福だけがそこにはあった。
それを私は心から祝福した。二人が本当に思い出の彼らなのか。はっきりとしたことはわからないが、そうであったらいいと思った。切なさも哀しみも物語の中で十分だ。物語の外で、彼らには幸せになってほしい。
そうであることを祈るしか部外者たる私にはできなかった。