アバッキオ√【結婚の話】


大団円√数年後。





 彼の姿なら例えどんな人混みの中であっても見つけ出せるだろう。彼──レオーネ・アバッキオのことなら。
 そう名前が思うのは何も惚れた欲目ばかりではない。透き通る銀の髪は多分に人の目を惹いたし、整った容貌は氷の彫刻を思わせた。雑誌を読む、ただそれだけであるのに、彼の周りには厳かなまでの静けさが広がっていた。
 だから名前は声をかけるのを躊躇ってしまう。待ち合わせに指定したカフェ。彼に早く会いたいとここまで石畳の街を駆けてきたはずなのに、その神聖な姿を一目見た途端に足が止まった。自分の一声で彼の纏う空気が硝子のように砕け散ってしまうのだ。それが惜しい、と名前は思った。

「……来てたなら早く声かけろよ」

 でもアバッキオにはすぐ気づかれてしまった。常日頃から警戒心の強い彼のことだ。気配に聡いのも当然。けれど残念だと思ってしまうのも人の性。
 ぶっきらぼうな声によって霧散した静謐な幻影。彼の美しい横顔を記憶に刻みながら名前は彼の前に座った。

「ごめんなさい、遅れて」

「いや、オレが早く着いただけだ」

「……それならいいけど」

 そうは言うが、アバッキオはいつもいつも名前の先を行く。名前が彼より先に待ち合わせ場所に着くことはなかったし、かといって彼がそれを特別に思う様子もなかった。いつも何てことない顔をして、それで「気にするな」と笑うのだ。

 ──そういうところがズルいのだと彼はわかっているのだろうか。

 名前は内心で口を尖らせた。敵わないなぁってそのたびに思わされる。思わされるたびに悔しくて、でもやっぱり好きだからしょうがない。次こそは勝ってみせると改めて誓いを立てる。
 その間にもアバッキオは店員を呼びつけ、名前の分の注文を頼む。一杯のカフェとスフォリアテッラ。どうして名前のその日の気分がわかるのかは甚だ疑問ではあるが彼がその手のことを外した試しはない。流れるような手腕に、またも名前は敗北感を味わわされる。

「もうっ、そういうとこ本当に卑怯!」

「はぁ?」

 そこまで名前のことを理解しているくせ、非難の声には心底『わからない』といった風に片眉を持ち上げる。何もかも自覚なしにやっているというのだ、この男は。
 とんだ女泣かせね、と名前は思う。無自覚っていうのが一番たちが悪い。いったいどれほどの人を勘違いさせてきたのかしら、と。考え、名前は溜め息を吐きたくなった。
 これから先もやきもきしなきゃならないなんて本当に憂鬱。でも好きになっちゃったんだからしょうがない。恋愛とはそういうものなのだ、きっと。

「それよりいったい何を読んでたの?」

 運ばれてきたカフェに砂糖を注ぎながら名前は何とはなしに訊ねる。彼のことだから音楽とか車だとかその手の雑誌であろう。最新の流行というのに疎い名前であったが、彼から聞かされる話ならどんなものだって興味深かった。
 そのくらいに気安く訊ねたものだから、「これだ」と彼がわざわざ雑誌のページを広げたのには目を瞬かせられた。しかもそれが予想とは違う華やかな写真の踊る誌面であったものだから、名前は雑誌とアバッキオとを交互に見やる羽目となる。

「え、ーっと、」

「なんだ、あんまり惹かれるもんはなかったか。これなんか上品な作りで悪くないと思ったんだがな」

「うん?……うん、そうね。ええ、落ち着いた感じで素敵だと思うわ」

 答えるが、それはほぼ反射のようなもの。名前の頭は未だ驚きで満ち、およそ正常とはいいがたい。心なしか楽しげに誌面を指す彼に釣られる形での返答である。
 が、アバッキオは戸惑う名前に気づかない。「そうか、」と僅かに口許を緩め、「他には……」とページを捲る。

「これもデザインはシンプルだが生地は高級のシルクらしい。こっちはゴールドの刺繍がお前らしいんじゃないか?」

 が、行けども行けども誌面で繰り広げられるのは優雅な形をしたドレスの写真であり、彼の持つその雑誌がウェディングドレスの専門誌であるのは自明の白であった。
 彼はそれを着る張本人よりもずっと熱心にドレスの吟味をしていたのだ。名前が来るのを待っている時間、ずっと。その間ですら名前のことを考えていてくれたのだ。

「……っ」

 名前は嬉しいんだか気恥ずかしいんだかよくわからない熱に襲われた。気を取られていたお陰でカフェには溶けきらないほどの砂糖が降り積もっているが、そんなのは最早些末ごと。名前は熱くなった頬を押さえ、呻いた。
 明らかに挙動不審。であったから、アバッキオは「どうした?」と眉をひそめる。心配してるって表情だ。でも顔を覆った名前には指の隙間から「なんでもない……」と答えることしかできない。自分は近い将来に彼の妻となるのだ。この美しい人の花嫁になるのだ。その実感が込み上げ、今さらながら目眩がしそうだった。

「でも、あの、……これ、貸衣装用じゃあないみたいだけど……?」

 なんとかして平静を取り戻さなくては。
 そう考えた名前は視線をよろよろとさ迷わせ、やがて誌面に書かれた数字の大きさに困惑した。
 これは……とてもレンタル用の金額ではない。
 しかしアバッキオには「何言ってんだ」とむしろ逆に訝しまれた。

「借りるわけないだろ?なんたって一生に一度の晴れ舞台だ。主役にそんなみすぼらしい格好させられない」

「私は別に気にしないけど……」

 イタリアの血を引いているとはいえ名前は長い時間を日本で過ごしてきた。だからウェディングドレスはレンタルするものだし、イタリアではオーダーメイドも珍しくないというのがいまいちピンとこなかった。確かに名前だって式の日を楽しみにはしているが、だからってその日限りの衣装にそこまで固執してはいなかった。
 だがそんな名前の考えはアバッキオの「オレが気にする」という一言によって一蹴された。

「例えその日限りのだったとしてもお前にはお前のためだけの最高のドレスを着てほしい」

 ……そこまで言われて折れない女はいないだろう。

「わかった。でも私、どれがいいかなんてよくわからないわ」

 名前は大人しく顎を引き、甘すぎるカフェを一口飲んだ。
 それから改めて誌面を眺めるが、どれもこれも目を惹くものがあって一番となると難しい。それに自分が着るとなるとなおのことわからない。人のことであったら──例えば彼のスーツを見繕うのであったら──まだ多少は考えを持つことができたのだが。

「……ならオレが決める。それでいいか?」

 アバッキオはやれやれといった風に息を吐いた。「普通ならもっとあれこれ注文をつけるもんだぞ」……それはこの国ならではの考えだろう。
 結婚式に並々ならぬ情熱を持っているのがイタリア人だ。そんな環境で育っていたなら名前だって色々な要望を持っていたかもしれない。決して名前が特別無関心なわけではないのだ。ただ自分のことよりは彼の着るスーツの方に興味がいっているだけで。
 ──彼がスーツを着たならそれはもう見事なまでの清廉なる美を表すことだろう。教会の生み出す厳粛な空気。差し込むほの白い光の中、浮かび上がるその姿。祭壇に立つ彼のことを想像し、ただそれだけなのに名前の頬は緩んだ。

「いいわ、それで。あなたに任せる」

「要望もないのか?」

 訊ねられ、名前は少しだけ考え込む。でもすぐに「ううん」と首を振り、真剣な目をした彼を見つめた。

「だって……よく考えたら私、あなたのためだけの花嫁だもの。あなたがいいと思うドレスを着るのが一番だわ」

 言ってから、羞恥が込み上げて名前ははにかんだ。
 そんな名前に、今度はアバッキオが呆気にとられる。何を言われたのかわからないって顔。でもみるみるうちに目許に赤みが広がって、それが自分でもわかったのか、彼は「そうかよ」と目を泳がせた。

「ならいっそド派手なのにしてみるか。紫とか」

「それ、あなたが好きな色ってだけじゃない」

 「まぁ別にいいけどね」と名前は笑う。別になんだっていい。彼が自分のことを想って、悩んで、決めてくれたものなら。どんなドレスだって──きっと素敵な思い出になる。
 そんなことを考えながら、名前は来るべき日に思いを馳せた。その時隣にいる彼のことを想うと、頬が緩むのを抑えられそうになかった。