a piece of cake


 ジョセフの案内の元宿泊することになったホテルは、名前が生まれるより昔からこの地に立っているらしい。オーチャード・ロードの端、緑豊かな高台の上に聳える三つの棟。それが今宵の宿、シャングリラ・ホテルである。
 アンと共に1010号室へと入った名前は、清潔に整えられた空気を思いきり吸い込み「んー!」と伸びをした。

「綺麗なところね。久しぶりにゆっくり眠れそう」

 香港では休む間もなく乗船したし、船は船で爆発させられる始末。海上では殆どが漂流生活であったからベッドで眠るのは何日ぶりのことになるだろう。
 本当に散々な目に遭った。こんなのはもう懲り懲りだ。若干トラウマになりつつある。そう肩を竦めると、アンは「たしかに」と頷いた。でも疲れている様子はない。芯が強いというか肝が据わっているというか。名前の年上としての威厳が問われるところである。

「もうここから動きたくない……」

 が、そんな思考はすぐさま吹き飛んだ。ふかふかのベッド、そこに腰かけただけで体から力が抜けていく。目を閉じたら今すぐにでも眠ってしまいそうだ。
 アンには「年寄りみたい」と笑われる始末。でもベッドの甘い誘惑には勝てそうにない。

「でもこんなに広くなくてもよかったのに」

 アンは「二人で一つのベッドを使っても十分なくらいよ」と続けて、名前の隣にぽすんと腰を下ろした。そして実際彼女の言う通り。二人並んだってまだ十分なスペースが残っていた。

「でもほら、それは私たちだからね。承太郎たちはこのくらいおっきくないと困っちゃうでしょ」

「そっかぁ……」

 これが安宿だったら承太郎やジョセフは体を丸めて眠ることになったろう。アヴドゥルやポルナレフだって鍛え上げられた立派な肉体の持ち主だ。そんな彼らが子供みたいに眠る様を想像して、名前はひとり笑みを噛み殺す。

 ……可愛い、なんて。

 承太郎に知られたら苦い顔をされるに違いない。だからこれは名前だけの空想である。
 空想に浸る様はさぞかし滑稽、不審極まりない表情だったろう。

「…………」

「…?どうしたの、アン」

「ウン……」

 でもここに指摘する人間はいなかった。唯一の同居人であるアンはなんだか物思いに沈んだ様子。歯切れ悪く答え、彼女は手持ちぶさたに髪を弄る。
 それから「あのさぁ」と躊躇いがちに口を開いて訊ねたことといえば。

「名前ってさぁ…ジョジョとどーいう関係なの?」

 そう言ったアンの瞳の真剣なこと!
 「どうって…」何が?と咄嗟に聞き返しかけた名前も思わず言葉を飲み込む。それくらいにひたむきな眼差し。受け止め、名前もまた思考に沈む。
 空条承太郎。お隣さんで、物心ついた時からの幼馴染み。幼い時の名前が唯一スタンドの存在について打ち明けられた相手であり、その能力で治療するのは彼の傷だけだった。今まではずっとそうだった。欠かすことのできない存在で、当たり前のように隣にいてくれた。それが名前にとっての承太郎だった。

 ──だから、答えなんて最初から決まってる。

「つ、付き合ってる、とか……」

「まさか。それは承太郎が可哀想」

 名前は笑って、肩を竦めた。「よくて妹ってとこね」たぶん承太郎からしたらそんな感じだろう。鬱陶しいけど突き放すほどじゃない。友達以上ホリィ未満、といったところか。
 そう答えると、アンは「そ、そうなんだ」と躓きがちに顎を引いた。

「そっかそっか…。いや、そんな感じはしてたんだ。よかっ、…いや!別に喜んでるわけじゃあないけど!」

「う、うん……?」

 しどろもどろの物言い。頷いたかと思えば首を横に振ったり。それは動揺を示す仕草であり、アンの声に滲むのは焦りと喜びである。しかし今の会話のどこに喜ぶ要素があったのだろう。
 『まさか』ふと思い浮かぶのはとある想像。まさか、アンは──

「じゃあさ!名前はどんな人が好きなの?」

 しかし答えに辿り着くことはなかった。もう少し考えたならきっと思い至ることができたろう。でも思考は突然の問いかけによってあえなく霧散してしまった。
 「好き?」名前は目を瞬かせる。「私が?」繰り返しても、アンから返されるのは肯定の頷きだけ。向けられるのは好奇心に満ちた眼差しで、名前は戸惑いを隠せなかった。
 別に難しいことを聞かれたわけじゃない。日本にいる時だってそういう話は友達と山ほど交わしてきた。規則に厳しい女学校ではあったが、興味がないと切り捨てられるほど大人でもなかった。

「うーん……」

 でも改めて聞かれると答えに悩む。どんな、と言われてもアンにわかるような例え話が思いつかない。学校でなら流行りの歌手だとか俳優だとかを挙げればよかった。しかし今二人の間に共通するものといえば片手で足りるくらいしかないだろう。

「やっぱり優しくて思いやりがあって紳士的で……でも芯の強い尊敬できる人、かしら」

 結局名前に言えるのはそんな具体性に欠ける答えだけ。眉を下げて笑むと、アンは「ガキっぽい」と笑った。
 年寄りみたいと言われたかと思えばこれだ。散々な言われようである。だが名前自身ちょっと夢見がちが過ぎるかしらとは思っていたので否定はできない。

「けどそれに一番近いっていったら花京院さんじゃない?」

「ん?……うん、そうね……、そうかもしれない」

 アンに指摘されて初めて気づく。

 ……確かに。

 優しくて紳士的かつ芯の強い人。
 名前はぼんやりとこれまでのことを思い出した。彼に手を貸してもらったこと。飛行機での冷静な戦いぶり。披露される豊富な知識。彼と共に見上げた星空。その時の輝きと隣にあった横顔、瞳の清々しさを思い出した。思い出して、なんだか落ち着かなくなった。

「どうしたの?」

「え!?う、ううん、なんでもない……」

 怪訝そうに顔を覗き込まれ、慌てて手を振る。暑いような寒いような変な感覚だ。
 名前は平静を装って、「でも花京院くんじゃあ高嶺が過ぎるわ」と続けた。

「だってほら、彼ってとっても綺麗でしょう?見目だけじゃあなくって……咲き染めの薔薇って感じ。『お前は六月にぱっと咲いた赤い薔薇だ。見事に奏でられた甘い音楽だ』……って。だからね、私じゃ勿体なさ過ぎるわ」

 スコットランドの詩を引用するが、アンにはいまいちピンとこなかったらしい。彼女が寄越したのは「ふうん?」という気のない返事。「よくわかんない」というのが答えのすべてであった。

「そういうアンはどうなの?」

「えっ?」

「だから、どういう人が好みかって聞いてるの!」

 同じ質問を返したのは意趣返しも含めてである。名前を子供っぽいと評してくれたアン。そんな彼女がいったいどんな答えを返してくれるものかと名前は身を乗り出した。
 「どういうって……」しかしアンが見せたのは名前が思った以上の変化。

「やっぱり強くてカッコよくて頼りがいがあって……」

 両の手に押さえられた頬はそれでもなお火照りを隠しおおせていない。紡がれる言葉は名前よりよほど夢見がち。甘ったるく、零れたそばから溶け落ちそう。びっくりした名前には「そ、そう……」と曖昧に笑うことしかできなかった。