ミスタの妹になるZ


 文具店の中は紙やインク、革の匂いで満ちていた。ドアを開けた、その途端に迫り来る匂いは図書館のそれに似ている。だからぼくはこういう店が嫌いではなかったし、名前も恐らく同じであったのだろう。その証拠に彼女は「いい匂い」と小さな鼻をひくつかせていた。

「なんか…不思議だけど、落ち着く匂いだよね」

「わかります、古書店とかもいいですよね」

「うん。図書館も古書店も……どっちも好き」

 そう言って、名前ははにかんだ。何か大切なものを抱き締めるみたいな……そんな語調だった。そしてそんな彼女の物言いにぼくは安らぎを覚えた。名前が古本のくすぶった匂いに感じるのと同じものを、彼女はぼくに与えてくれた。

「……っ、ええっと、ペン、そうだ、新しいペンが欲しいんですよね」

「…?うん、そう。気に入ってたんだけど壊れちゃって」

 ぼくの様子にほんの少し怪訝そうな顔をしたが、名前はすぐに視線を離し、店内を見回した。
 ぼくと名前は名実ともに友人となった。彼女はぼくを友と呼び、ぼくはそれを受け入れた。ほんの一週間前のことだ。ぼくたちは二人きりでエッシャーの展覧会を見に行った。
 だからといってぼくらの間に大きな変化はない。最初の頃よりは落ち着いてきたとはいえ名前の話し方が訥々としたものであるのに変わりはないし、笑顔も接し方も距離感も控えめなままだった。
 でも二週間前までだったらこうして二人で文具店を訪れることもなかったろう。ぼくらの関係は図書館で完結していた。それ以下はないけれどそれ以上も決して存在しなかった。ぼくたちは無言のうちに諒解していた。
 それを一週間前に破ったのはぼくの方だった。

「いいのが見つかるといいんですが」

「その心配はない、と思う。フーゴが紹介してくれた店だし」

「……まぁ、品揃えは悪くないと思いますよ。そりゃ本場ミラノには劣るかもしれませんが」

 あの日のことを思い出すと未だに胸がざわつく。どうしてだろう?それを考えることすらぼくにはできなかった。深く考えてはいけない、そんな気がしてならなかった。
 ぼくは咳払いをして、名前と同じように店内に視線を走らせた。
 今日も名前とはいつも通り図書館で待ち合わせていた。ぼくらは『精神障害の診断と統計についてのマニュアル』を間に、例えば恐怖症にかかった人間はそれ以前と以後とで同一なのか、恐怖症による行動についても人は責任を持たなければならないのか議論を交わしていた。
 そして一旦の休憩を挟んだ時、世間話の流れで彼女が今新しいペンを必要としていることを知った。知って、ぼくは些かの緊張で喉を鳴らし、素知らぬ顔でこの文具店を紹介したのだった。『よければ案内しますよ』とまで言い添えて。

「あなたはもっと自信を持つべき。少しは傲ってもいいのに」

「そんなの初めて言われましたよ。ていうかそれを言うなら名前もでしょ。お互い様です」

 名前の額を人差し指で軽く小突く。そんなささやかな接触にも緊張感があった。ぼくは細心の注意を払って、しかしそれをチラリとも見せないよう振る舞った。
 友人としての適切な距離感がぼくにはよくわからなかった。たぶんこれが一番近いのだろう、そう思って、ナランチャにするのを思い出していた。でもナランチャに対するよりずっと慎重で、意味もなくドキドキした。
 名前は「いたっ」と反射的に両目を瞑った。でも再び目を開けた時、その眸には不思議な輝きがあった。朝焼けにも似ていた。「私もそんなの初めて言われた」名前は信頼のこもった目でぼくを見上げていた。

「そ、そうだ!これなんかどうです?可愛いんじゃないですか?」

 ぼくは目を逸らし、台の上に置かれたペンを指差した。無性に気恥ずかしかった。だからよく見もせずに目に留まったそれを名前に勧めた。
 名前は身を屈め、「うーん…」と唸った。まじまじと商品を見つめ、それからぼくを見やる。

「こういうの好きなの?」

「……いや、別に」

「だよね。……うん、あなたの趣味ではなさそう」

 それはインクとセットになったペンだった。鮮やかな赤色をしたペン。それだけならごくありふれたものだったけれど、インクの瓶の方は珍しい形をしていた。蓋の部分に木でできた人形がくっついているのだ。

「これ、ピノキオ?」

「でしょうね、鼻が長いし」

 それは余りに少女趣味、というか子供向けと言うべきか。デザインの良し悪しではなく、単純にぼくが勧めるには少々不釣り合いな代物だった。
 ぼくは慌てて「女性はこういうのが好きかと思って、」と言い繕った。適当に考えているんだと誤解されたくはなかった。事実話題を逸らすためではあったが、名前に失望されたくはなかった。
 幸いなことに彼女が引っ掛かりを覚えることはなかったらしい。名前は「確かに可愛いけど」と肩を竦め、「でも私が持つのはちょっと恥ずかしいかな」と眉を下げた。

「フーゴならどんなのを選ぶ?」

「ぼく、ですか?」

「うん」

「そりゃ……使い勝手のいいやつ、ですかね」

 手に馴染む重さ、形のペン、乾きの早いインクがいい。書類作業が多いから疲れにくいっていうのも選ぶ上で重要になってくる。デザインについてはその後だ。よっぽど奇抜じゃなきゃいいし、機能性を重視すると自ずと落ち着いた見た目のペンを選ぶことになる。
 が、それはあくまでぼくの話だ。名前はまだ学生で、それに性別だって違う。いくら好みが似ているとはいってもそんなところまで一致しないだろう。
 ぼくは少し考えて、「これとか君に似合うんじゃないですか」と一本のペンを手に取った。今度こそ本当に名前のことを考えて。彼女らしく、かつ一般的に見て可愛らしいものを選択した。

「これ……本当にペン?」

 名前は首を捻るが無理もない。ぼくが選んだのはどこからどう見てもチューブ型の絵の具であったからだ。

「みたいですよ、ほら」

「わっ、……変わってるね」

 でもキャップを外すと中から出てきたのは銀色のペン先。それをぱちぱちと目を瞬かせて見つめる名前は感嘆の息を洩らす。とても純粋で、無邪気な反応だった。ぼくはそんな彼女を微笑ましく見つめた。こういう些細なことがいつもぼくの心を穏やかにさせてくれた。

「絵画に興味あるから……君は好きじゃないかと思ったんですが」

 そこで、はたと気づく。

「すみません、でもこれちょっと持ちにくそうですね。他の……」

 デザインばかり見ていたが、それじゃあこの絵の具を普段使いのペンに選ぶ理由にはならない。ぼく自身が言ったのだ。使い勝手が重要なんだって。
 ぼくは絵の具型のペンを元の場所に戻し、再度店内に目をやった。
 そうする傍ら、けれど名前は戻したはずのペンを手に取り、そっと口を開く。

「でも、フーゴはこれがいいと思った。……そうだよね?」

 名前は僅かに首を傾げた。ぼくを覗き込むような仕草だった。眼差しは真っ直ぐで、ぼくは縫い止められたかに思われた。ぼくには「……はい」と素直に頷く以外できなかった。
 すると名前は「うん、」と顎を引いて、満足げに口許を緩めた。

「じゃあこれにする」

「いえ気を遣わなくても……」

「遣ってない。私も気に入った、から……それだけ」

 それだけだよ、と名前はさっさとレジに向かってしまう。
 引き留めるべきか否か。悩むうちに彼女はぼくの脇をすり抜けて行く。しかしその途中で立ち止まり、彼女は振り返った。

「それにそのうち馴染むと思う。私、いっぱい使うから」

 そう言って。

「ありがとう、私のこと考えてくれて。嬉しい、そういうのが……私には、すごく、」

 名前は微笑んだ。明るい店内では頬の赤さがよく見えた。弾む声はぼくの耳朶を気持ちよく擽っていった。眸には穏やかな歓喜が横たわっていた。彼女の表すもの、そのすべてがぼくへ向けられていた。
 思い上がっていいのなら──ぼくへの愛情で。

「…ぁ、ぼっ、ぼくが払いますッ!ぼくが選んだんですから、ちゃんと、ぼくが責任を持って、」

「え、ええ?い、いいよ……そんな、気を遣わないで」

「遣ってません、だから大人しくぼくに払わせてください」

 先刻も同じようなやり取りをしたな、と思うが、それ以上にぼくは必死で名前を引き留めた。
 なんで今の今まで思い至らなかったんだろう?女の子相手にして財布も出さないなんてどうかしてる。いや、一般的に見てどうなんだ?名前は友達だ。ぼくらはそう認識している。ぼくらは友達だ。友達の、でも名前は女の子で……そんな彼女にぼくは何をしてあげられる?何をするのが正解なのだろう?

「だっ、ダメ……!そんなのしてもらったら、簡単に使えなくなっちゃう。あなたから、プレゼント、なんて……」

「プレ……ッ、い、いや、そういうんじゃあなくて、」

 プレゼント。そんなのは意識したことなかった。そんなつもりはなかった。ぼくはただ、適切な距離感を測りかねていただけだ。
 でも思いもがけない言葉にぼくは動揺してしまった。狼狽え、鑪を踏み、その間に名前は駆け出していった。

「だっ、大丈夫だから!買ってくるね!」

 そう言い置いて。会計をする名前の背中をぼくは呆然と眺めた。
 ──友達ってなんだろう?
 そんな子供みたいなことに頭を悩ませながら。