アバッキオの妹になるZ


 鏡の中はいつも平和だ。
 それは善意も悪意も存在しないからだと思う。つまり人間っていうのは百害あって一利なし。どうせ一人で生きて一人で死んでいくんだ。他人なんか必要ない。極論を言えば人間は生まれたこと自体が間違いだろう。オレだって生まれたくて生まれたんじゃない。どうせ死に向かっていくだけの生なのだ。反出生主義を掲げさせてもらおう。ショーペンハウアーは偉大だ。
 などと思いながら、オレは鏡の世界の鏡を覗き込んだ。世は小春日和。穏やかな日差しの元、人々は笑顔で往来を歩いている。まったく、バカみたいに。
 でもそんなヤツらだってオレがちょっと手を加えればコロリと死んじまうんだ。なのにみんなそんなことチラリとも考えちゃいない。呑気な顔たちがオレの前を通過していく。
 この中の誰もスタンドのことなんて知らないんだ。オレとはまったく違う世界を生きている人々。そんなヤツらをオレは一息で殺せる。そう考えると少しだけ胸がすく思いがした。
 オレは、オレたちはこんな平和ボケした連中とは違う。

 ──そう思っていたのに。

「ジョルノはまたチョコレートとピスタチオですか?」

 見知った顔があった。通りを行き交う人の波。その中から、聞き覚えのある声が響いた。
 オレは目を凝らした。鏡の向こうの世界をじいっと見つめた。そしてそこにある顔が見間違いなんかじゃないのを確認した。そこらのカップルみたいに浮かれ調子の女、それがうちのチームの新入りと同一人物であるのをオレはしっかりと確認したのだ。
 新入りは名前といった。やたらと快活で、若さゆえの喜びに溢れた小娘だった。自分の可能性を信じて疑わないっていう無邪気な面構えをしていた。
 そしてそいつは世話係のホルマジオに向けるのと同じくらいの親しみを込めて、どこの馬の骨とも知れないガキへと熱心に話しかけていた。

「はい。君は?」

「私は……そうですね、ではこのリモーネ・サルヴィアをひとつ」

「一段でいいんですか?」

「いいんです。今は節制中ですから」

 二人はジェラートを選んでいるらしかった。店の前に立つ横顔をオレは見ることができた。別に見たくて見ているわけじゃない。ただ新入りがバカな真似を仕出かさないかと思っただけだ。オレたちに不利益を齎さないか、重要なのはそれだけだった。
 しかしオレの危惧に反して名前が見せるものといえばマヌケ面ばかり。気の抜けた笑顔を浮かべてジョルノとかいう子供と連れ添い歩く。まったく、幸せそうなことで。

「ねぇ名前、一口食べてみたくはないですか?」

「それ、いつも言ってくれますけど、……あなたが頼むのって毎度毎度チョコとピスタチオじゃないですか」

「店によってちょっとずつ味が違うもんですよ。ほら、試してみませんか?」

「そう言って〜……、私のを味見したいだけでしょう?」

「バレましたか」

 ……オレはなんでこんなものを見させられているんだろうか。
 いや、こいつらにその気がないのはわかる。オレが勝手に覗き見ているだけなんだってことくらい理解してる。でも苛立ちが込み上げるのはどうしようもない。
 何故って?
 ……さぁ、どうしてだろうな?
 ともかくオレには我慢ならなかった。オレと同じチームのヤツが、オレたちとは違う世界の人間みたいに呑気な顔をしているのが見ていられなかった。たぶんそれは対象が名前でなくてもおんなじだった。例えばホルマジオやプロシュートだったとしてもオレは唾を吐いていただろう。バカげてるって。
 名前はスプーンで掬い取ったジェラートを連れの男の唇へと運んでいった。男は大人しく口を開け、味わい、にっこり笑った。そして名前がしたのと同じことを彼女にもしてやった。その後で名前が浮かべたのもやっぱり男とおんなじ顔だった。僅かの翳りもなく、この世には幸福だけが残るのだと信じきっていた。

 だからオレは、彼女に呼び出しの電話を入れた。

「も〜、イルーゾォ先輩ったらなんですか突然に……。そういう話は事前に言っておいてくださいよ」

 果たして名前はすぐに電話に出た。オレは彼女に仕事だとだけ伝えた。それで十分だった。名前は男に別れを告げて、オレの指定した場所に駆けつけた。
 名前はオレを見つけると、きゅうっと眦を吊り上げた。そうすると先刻までのバカ面が嘘みたいだった。黙っていたなら磨き抜かれた氷くらいに鋭く冷ややかに感じられたろう。そう考えると少しだけ残念に思う。でも気安い口調がアンバランスでそれはそれで悪くなかった。名前のその顔を見ただけで胸がすくのを感じた。

「悪かったよ。でもお前のスタンドはほら……情報を引き出すのに向いてるだろ?」

 最近組織の縄張り内で許可なく薬物を売買している連中がいるらしい。そいつらの情報を探り、可能なら大元まで始末する。それがオレたちに下された最新の命令で、情報収集には向いているだろうとオレが先陣を切ることになったのはまぁ予想通りのことだ。オレやホルマジオが裏から、表からはプロシュートやペッシが調べを進める。そういうのがいつものやり方だった。
 そしてオレは今回の相棒に名前を選んだ。これは最初から予定していたことだ。別に苛立ちに任せて尤もらしいことを言っているだけじゃない。ちょっと予定より時期を早めただけだ。元から名前となら上手くやれるとオレは思っていた。
 そして単純な名前は「というより拷問向きだと思いますが……」と言いながらも決してオレに逆らおうとはしない。

「まぁでも先輩に評価してもらえるのは嬉しいことです。頑張りますね!」

 そんな殊勝なことを言って、力こぶを作ってみせた。

「それで…ターゲットまでは先輩が連れていってくれるんですよね?」

 オレが『許可』した今、名前もまた鏡の中の住人だ。善意も悪意も存在しない、真実の平穏。その世界にあってなお、名前の目は生き生きと輝いている。信頼の横たわる眼差し。信頼と尊敬と憧憬。オレの世界には存在しなかったもの。
 オレの周りにあったのは古い絵画や彫刻、書物だった。物心ついた時分からそうだった。オレの青春は夢想に費やされた。夢想はやがて現実となり、今ではこうして生活の一部となった。オレにとって死に絶えたような静寂こそが安寧だった。

「あぁ。けど迷子になったら容赦なく置いてくからな。それにその後のことは関知しない。だからオレを頼りにするなよ」

 だからオレは目を逸らし、名前から距離を取った。ごく自然に、然り気無さを装って。しかし突き放した物言いのお陰で名前は悟ったろう。もしもそこまで鈍感だったらこんな世界じゃやっていけない。だからきっと名前も諒解したはずだ。
 その証拠に彼女は目を見開き──

「なっ、なんという……!いやしかし『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』とも言いますからね……。それが先輩の愛というなら私だって乗り越えてみせます!」

「ばっ、バカ言うなッ!だ、誰が、ぁっ、愛だ!」

 ……言ったことといえばまったくの予想外。驚き、嘆き、かと思えば力強く胸を叩いて、にいっと口角を上げる。その眸に怯んだ様子は見られない。むしろ一層輝きを増したようにすら思える。
 バカな。まったくもって理解不能。いったいぜんたいどんな思考回路をしているんだ。どっかでバグってるんじゃないのか?

「オレはただめんどくせぇから置いてくって言ってんだよ!!」

「大丈夫、わかってますよ!」

「全っ然わかってねぇだろ!」

 鏡の中ならば平和だと思っていた。オレが『許可』したものだけが存在する世界。オレにはこの世界さえあればよかった。この世界ではオレが唯一絶対の主で、この世界でなら誰もオレに逆らうことはなかった。

「わかってます!先輩のわかりにくい愛は私がしっかり受け止めましたから!」

「だから違うって言ってるだろッ!?」

 なのにオレが名前という存在を『許可』してしまったばっかりに、オレの平穏は乱されようとしていた。いや、もう手遅れだ。名前はオレの能力を知っているのにちっとも気にしない。バカだから忘れてるのか?そう疑ってしまうほどに名前は呑気で、怒鳴るオレを笑って受け流した。
 それに腹が立たないはずがない。オレは苛々と歩みを早め、宣言通りにしてやろうと思った。それで泣いて縋ってくればいいんだ、名前なんて。

「待ってくださいよ〜!まったく、歩幅の違いってものをよく考えてください!」

 なのに名前は全然諦めない。拗ねたような顔をしながら、それでもオレの後を追っかけてきた。

 ──だから、まぁ、しょうがないのだ。

「置いてくって言ったろ?」

「だからって急に早足にならないでください、びっくりします!走るなら走るって言ってくださいね。そしたら私も全速力で追いかけますから」

「まったく……」

 名前は笑った。そこにはなんの翳りもなかった。外の世界に向けるのと変わらない笑顔で名前はオレを見た。オレもつられて口許を緩めた。でも鏡は見なかった。見ないようにしたから、この時オレは笑うことができたのだ。