アバッキオの妹になる[
指先が掠める。それだけで堪らずオレは短い悲鳴を上げた。
「あ〜…、コブになってますね。これは酷い」
オレの後頭部を眺めながら言うのは新入りの名前だ。オレの唯一の後輩。そのくせ悲鳴を上げるオレをほったらかしにして、しみじみとした声を洩らす。
「コブなんてもんじゃない」オレは涙目で名前を振り仰いだ。
「絶対血ィ出てるだろ!もっとよく見ろよォ〜!」
「だから血なんて出てませんってば。ほらじっとして!」
後輩なのに。オレよりずっと年下なのに。なのに名前は母や姉みたいな口をきく。
こんなの間違ってる。頭ではそう思ってる。名前の言うことなんか無視すればいいんだ。
でもぴしゃりと言われてオレは押し黙った。何も言えなかった。名前が言うのは正しいことだった。打ち付けた頭は相変わらずズキズキと痛むけれど、それ以上酷くなることもなかった。
オレは名前から目を逸らし、改めて辺りを見回した。
それはほとんど廃墟だった。剥き出しのままのコンクリート。窓だってない。ビニールが申し訳程度に被さっているだけ。もちろん家具だって存在してなかった。建築途中で放棄されたアパートメントの一室、そこにオレたちはいた。オレと名前、それから今晩の標的は。
「なぁ……ソイツ、まだ気絶してんのか?」
オレは床に転がされたままの男を指差した。
ソイツは頭から麻袋を被せられていた。両腕は背中で縛られているし、足にだってロープが巻かれている。視覚も聴覚も何もかもが奪われた男。オレはその男をできる限り視界に入れないようにした。
でも目を背けることもできなかった。そうした瞬間に男は襲いかかってくる。そんな気がしてならなかったからだ。
「ああ、」けれど名前は少しも気にした様子がない。たった今思い出したみたいな声を上げて、つかつかと男に歩み寄った。
「お、おいおい……」
かと思うとしゃがみ込んで麻袋の前に手を翳す。そして振り返り、「大丈夫ですよ」と指で丸を作った。
「まだ眠ってます、心配ないですよ」
「そ、そっか……」
オレはホッと胸を撫で下ろし、しかしすぐにハッと我に返る。
「べっ、別にビビってるわけじゃあないからなッ!いいか!わかってるよなッ!?」
戻ってきた名前はオレの隣に腰を下ろしていた。オレより年下の、唯一の後輩。なのにオレより先に殺人の経験をした女は、オレの視線に気づくとにっこり笑った。
「わかってますよ、ペッシ先輩。センパイは慎重なだけですよね、ええ、わかっていますとも」
窓代わりのビニールの隙間からは月明かりが微かに差し込んでいた。辺りはすっかり静まり返り、部屋には二人分の呼吸しかなかった。世界にはオレたちの二人しかいないみたいだった。先輩のくせに人の一人も殺したことのないオレと、新入りのくせに涼しい顔で人を殺すことのできる名前、その二人しか。
「……オレのこと、バカにしてんだろ」
そんな風に静けさだけがあったせいだ。オレの口が勝手を働いたのは。
オレ自身思いもがけない呟きは静寂の中に広がっていった。オレは俯いたままだった。隣では身動ぐ気配があった。オレは冷たい床をじっと見つめた。睨みつけると言ってもよかった。
名前は「そんなことないですよ」と言った。優等生の物言いだった。学校もロクに通えなかった、そんなオレを嘲笑っているかのようだった。
「ウソだ。あんただってオレのこと腰抜けだって思ってるんだ」
惨めだった。死にたくなるほど惨めな気分だった。なのにオレにはこの女を殺すことすらできないのだ。腰抜けだ。そう思っているのはこいつだけじゃない。オレが一番そう思っている。オレは腰抜けのマンモーニなんだって。
「今日だってとんだヘマをやらかした。オレはあそこで……し、死んでたっておかしくなかったんだ」
死。
その単語を口にするだけで怖気が背筋を駆け抜ける。心臓が氷に浸されたみたいな恐怖。突きつけられた銃口。オレにはその細部までも思い出すことができた。
今晩の仕事は組織に隠れて麻薬を捌いている売人を拘束することだった。オレと名前、二人では初めての仕事だった。兄貴は単独で別の売人を始末しに行っていた。オレたちは情報を聞き出すために生きたまま売人を拘束しなくちゃならなかった。
オレはオレのスタンドで部屋の外から標的を捕らえようとした。とても安全な策だった。相手はスタンド使いじゃなかったし怖れる必要はなかった。何より兄貴の信頼を損なうわけにはいかなかった。
なのにオレはヘマをした。物音を立て、相手に気づかれた。それだけじゃない。ビビったオレはその場でひっくり返り、頭を打ち付けた。売人はわらってた。まさかこんな腰抜けが組織の追手なわけがないってわらった。オレは目の前が真っ暗になった。惨めで、どうしようもなく惨めで、なのにそれなのにオレの手は震えていた。スタンドの存在なんて頭からすっぽり抜け落ちていた。
売人は懐から銃を取り出すと、それをゆっくりとこちらに向けた。落ち着いた所作だった。撃鉄を起こす音がした。オレは目を瞑った。最期に考えるのは兄貴のことだった。失望した、そう吐き捨てる兄貴の姿を想像して泣きたくなった。
「お、オレのことなんかよォ〜…、ほっておけばよかったんだよォ〜〜」
でもオレは死ななかった。物音がして、オレの脇を鋭い風が吹き抜けた。慌てて目を開けたオレの後ろには、ついさっきまで悠然としていた売人が倒れていた。売人はすっかり目を回し、間の抜けた格好で気絶していた。そしてオレの前には売人の代わりに外を見張っていたはずの名前が立っていた。
名前が売人を蹴り飛ばしたのだ。遅れてオレは状況を把握した。名前は長い足を元に戻し、オレに手を差し伸べた。『大丈夫ですか、センパイ』そう言った彼女に、先程とは違う意味で泣きたくなった。安堵と羞恥、でも一番にあるのは悔しさだった。オレは消えたくなるような思いを抱えたまま、彼女に担がれてここまで逃げ延びた。
「オレは役立たずなんだ……、知ってるだろ?兄貴がオレをマンモーニだって言うの……その通りなんだよ……」
オレと売人、二人を抱えてここまで来た、だというのに名前は平気な顔をしていた。疲れなんか少しも感じられなかった。この部屋の存在だってオレも知らなかった。名前はメローネから聞いたと言っていた。兄貴も知っていると言った。オレは知らなかった。たぶん知らないのはオレだけだった。自覚すると、鼻の奥がツンと痛んだ。でも泣くのだけは御免だったからオレは膝を抱えて堪えた。
名前は黙っていた。黙ってオレの話を聞いていた。話を聞き終え、それからやっと名前は「そんなこと言わないでください」と言った。
「そんなこと言わないで。言ってしまったらあなた自身がその言葉に囚われてしまいます」
名前は膝の上にあるオレの手を取った。
「それに適材適所という言葉があります。世の中には向き不向きというものがあるんですよ、センパイ」
オレは顔を上げた。名前は笑っていなかった。予想を裏切り、真剣な目をしていた。とても真摯な目でオレを見つめていた。
「確かに私は喧嘩において負け知らずです。でもどうあがいたってあなたのスタンドは使えません。あなたみたいに外から標的を拘束したり、中の様子を探るなんてことはできない」
名前はオレの手を握った。痛いほどに強く、……何かを堪えるみたいに。
「私は羨ましい」名前は言った。自嘲しているのだろうかとオレは思った。辺りは暗く、近くにいるはずの名前の表情さえ判然としない。でもオレには彼女が悲しんでいるように思えた。……オレと同じで。
オレはふと『彼女は自分のスタンドをあまり気に入っていないんだろうか』と思った。悩みなんてなさそうな顔をしていても、そんな彼女にも誰かを羨むことがあるのだ。そしてそれはオレに対してだけじゃない。多くの他人のことを彼女もまた羨んで生きているのだ。そう悟った。
「……オレは、あんたのスタンドも結構いいと思う」
「えぇ〜、そうですか?」
信じられないって声。オレがやっとの思いで言った慰めの台詞を一蹴。そんなのは許しがたくて、オレは「そうだよ!」と食い下がる。
「だってよォ〜…あんたのは要するに悪人だけを痛めつける能力だろ?……カッコいいじゃねぇか」
言っているうちに気恥ずかしくなって、オレは目を泳がせた。
名前のスタンドは嘘発見機みたいなものだ。対象の嘘と真実を見抜く。真実を言ったならそれで終了。でも嘘を吐いたら対象は炎に巻かれて死ぬ。善人には通用しないスタンドだし戦闘には不向きだ。得意なのといったら拷問くらいで、でもそんなことを名前が気にしているとは思わなかった。いや、気にしているんじゃないかっていうのはオレの勝手な想像だけど。
でもたぶんそれで正解だった。最初こそ驚いた風だったけど、名前はすぐにくしゃりと笑った。
「……ありがとう、先輩」
そうすると年相応に見えた。オレより年下の、唯一の後輩。彼女を表す言葉を噛み締め、オレはなんだか無性に彼女の頭を撫でてやりたくなった。
オレを見ている時の兄貴もこんな気分なんだろうか。そう、ぼんやりと思った。