フーゴとフーゴセカンドU


 今にして思えばその日は始めから胸騒ぎがあったように思う。
 その日は夕刻から雨が降っていた。私はいつもより早くリストランテを出て帰路についた。それは店の主の気遣いだった。私は有り難く受け入れ、石畳の街を足早に過ぎていった。
 私の家は教会のすぐ側にあるアパートメントだった。私は階段を上がり、最上階にある自室を目指した。

「フーゴ……?」

 けれどその手前、目前で私の足は止まった。
 私の家の前にはドアに凭れる人影があった。金の髪に緑のスーツ。私が知るのとは異なる色合いであったけれど、それでも私にはわかった。例え彼が膝を抱え、その中に顔を埋めていたのだとしても。明確な理由はなくとも私にはわかった。わかってしまったから、考えるより早くその名が唇から零れ落ちていた。
 彼はのろのろと顔を上げた。金糸は雨粒できらきらと輝いていた。深い水を湛えた瞳は凪の海だった。滑らかな輪郭は闇夜に白々と浮かび上がっていた。そのすべてが幻想的で、夢みたいで、驚くよりも先に私の目は奪われていた。
 それは繊細な細工物だった。それか一夜のうちに枯れ果てる花。刹那の美がそこにはあった。触れたら壊れてしまいそうだった。
 そう思い、ようやっと私はハッと我に返った。

「ど、どうしたの……?ずぶ濡れじゃない、あなたらしくもない……」

 私は慌てて駆け寄り、膝をついた。スカートが水を吸ってしまうのは重くなってから気づいた。でも構いやしないわと思い直し、私はハンカチで彼の頬を拭った。
 でも全然ダメだった。そんな布切れ一枚じゃ彼を救えなかった。すぐに濡れそぼり、使い物にならなくなった。

「…………」

 その間も彼は無言だった。というより私の存在を認識しているのかも怪しかった。
 ぼうとした目。それは宙を漂い、彼の指先ひとつとっても神経が通っているようには思えなかった。そのくらいに作り物めいていて、私は少しだけ怖くなった。私の知っているフーゴじゃない気がした。特別な理由はなかったけれど、なんとなく。

「やっぱりダメ。ねぇフーゴ、うちにいらっしゃいよ。せめてシャワーを浴びて体を温めなくちゃ。それから服は……そうね、お隣さんから借りようかしら。確かあなたくらいのお子さんがいたと思うから……」

 私は彼の手を取った。……びっくりするくらい冷たかった。一足早い冬が来たみたいだった。芯から凍えきっていた。私は寒気がして、思わず彼の首筋に指を押し当てた。
 そこは反対に鋭く熱を持っていた。脈動が皮膚越しに伝わってきた。生きているからこその熱だった。熱で、鼓動だった。
 私はちょっとだけ胸を撫で下ろし、「フーゴ、」ともう一度呼び掛けた。フーゴ、ねぇ、フーゴ、

「私のこと、わかる?」

 両頬に手を添え、上からじいっと見つめる。
 すると、それまで沈黙を保っていた瞳がさざめいた。見開かれ、焦点を結んだ。小さな波は広がり、やがて膚へ、唇へ。

「名前……?」

 それは掠れた声だった。でも私が知るのと同じ高さの声だった。高すぎず低すぎない、心地のいい音色だった。そしてそれは私に深い安堵を齎した。

「そう、そうよ。私よ、ここは私の家、……わかる?」

「名前の家……」

 彼はぼんやりと呟いた。呟き、そしてその瞳の水面はみるみるうちにせり上がった。せり上がり、弾け、零れ落ちた。
 何もかもがゆっくり見えた。ゆっくり、はっきり見ることができた。でも私には止められなかった。静かに涙を流す彼を私はただ呆然と見下ろした。

「名前、ぼくは、ぼくは……」

 わけがわからなかった。何が何だか理解できなかった。フーゴが泣いている。私にわかるのはそれだけだった。後のことはなんにもわからなかったから、私は咄嗟に彼を抱き締めていた。

「大丈夫、大丈夫よ」

 何が大丈夫だと言うのだろう?自分自身、何が起こっているのかさっぱり見当もつかないのに。
 そんな冷静な私を頭の片隅に置き去りにして私はフーゴを抱き締めた。大粒の真珠みたいな涙を溢す彼が見ていられなくて、私は彼を胸に抱き竦めた。きつく、強く。雨音が彼に聴こえないように。雨音に彼が連れ去られないように。
 抱き締めることしか、その時の私にはできなかった。





 そのうちに平静を取り戻した彼はやっぱり私の知るフーゴと少しも変わらなくて、でもそれでも『フーゴ』とは違うのだと彼は私に語ってくれた。

「たぶんスタンド攻撃によるものでしょう。……攻撃と言っていいのかは微妙なところですが」

 シャワーを浴び、隣人の服を着たフーゴは、ベッドに腰掛ける私のすぐ隣に身を寄せた。その間には僅かの隙間すらなくて、そういうところだけは『らしくないな』と思った。
 でもそれも仕方のないことだろう。一番不安なのは彼だ。だから私は何を指摘することもなく彼の言葉に耳を傾けた。

「無意識に発現したものか、……でないとこうしてなんの変化もなくほったらかしにされる理由がわかりません」

 彼は自分のことを『パンナコッタ・フーゴ』の抑圧された一側面と語った。

 ──だからか、彼が私の知るフーゴより感情的なのは。

 そう思い、私は切ないような愛おしいような不思議な感覚に陥った。さっきまで十分すぎるほど抱き締めていたのに、またそうしてやりたいという欲求がぐつぐつと湧き出てきた。抱き締めて、思いきり頭を撫でてやりたい。そう思ったのを堪え、私は続きを促した。
 「ぼくには自分がなんのためにここにいるのかがわかります」先刻までの動揺が嘘のようにフーゴは冷静だった。

「ぼくは『彼』の願いを叶えなくちゃならない。逆を言えばそれさえ叶えばぼくの役目は終わりということです」

 とても客観的に、自分こそが偽物なのだと判じた。

「願い、って……?」

 私はそろりと訊ねた。聞いてしまうのが怖かった。より正確に言うなら、目の前の彼が自分の命なんてどうだっていいみたいに投げやりに言うのが私には怖かったのだ。
 彼は私のすぐ隣に座っていた。触れ合う肩や掠める吐息には熱が灯っていた。偽者だと断じた彼はとても温かかった。私には彼らの違いがわからなかった。私と今目の前にいる彼にだって何の隔たりもないように思われた。
 私の問いにフーゴはびくりと肩を震わせた。

「それ、は」

 私には彼の淡い色の睫毛が揺れているのすら見てとれた。それほどに私たちは近く、「……わかりません」なのに懊悩に喘ぐ瞳は深い拒絶を孕んでいた。

「すみません、結局なんの解決策も浮かばなくて」

「ううん、いいのよ」

 私には『事の発端であるスタンド使いを見つけ出す』などという提案はできなかった。そう言いかけて、けれど何も言えなかった。
 もしもスタンド使いを見つけ出したとして。この不可思議な能力を解除させたとして。──そしたら目の前の彼はどうなるのだろう?
 もちろんそのままというわけにはいかないはずだ。『パンナコッタ・フーゴ』はこの世でひとりきり。それが世界のあるべき姿だ。わかってる。こんなのは正常じゃない。正さなくてはならない。わかってる。わかってる、けれど。
 私には彼のことを否定することなんてとてもできやしなかった。

「とりあえずうちにいればいいわ。そんなすぐに何とかしなきゃいけないってほど切羽詰まってるわけじゃないんでしょう?ならゆっくり考えましょうよ」

 私は殊更明るく言って、彼の手を握った。
 彼は「いいんですか」と笑った。うっそりとした笑みだった。

 いいんですか、──ぼくは『偽者』なのに。

 そう言外に言っていた。笑みは自嘲のそれと似ていた。冷たく、痛々しい笑みだった。
 だから私は「もちろんよ」と何にも気づいてないって風で笑い飛ばした。この時はそれが最善だと思った。私は彼のことも守りたかった。傷つけたくなかった。私には本物も偽者もわからなかった。

「……ありがとうございます」

 フーゴはぎこちなく笑みの形を変えた。とても頼りなげで、まるで迷子の子供みたいだった。いや、事実そうなのだろう。大人びて見えるけれど、彼はまだ少年といっていい年齢だった。
 気がつくと私は彼を抱き締めていた。

「……なんですか、もう、」

 最初フーゴは驚いた様子で身を固くした。でもゆるゆると力を抜き、やがて『仕方ないなぁ』とでも言いたげに息を吐いた。私の突然の行動に呆れた、そんな感じだった。
 でも私は体を離すことができなかった。
 フーゴを抱き締めながら、私はドアの前に座り込んでいた彼の姿を思い出していた。
 彼は何を思ってここまでやって来たのだろう。自覚した時、本物の『フーゴ』を目にした時、どれほどの痛みを感じたのだろう。どんな思いで、私の帰りを待ったのだろう。
 ──想像だけで堪らなくなった。
 私は私を頼ってくれた彼を守らなくてはならないと思い直した。だってそうではなければあまりに悲しすぎる。彼には私しかいないのだ。ならばその思いに応えなくてはならないだろう。
 そう考える私はなんと短慮で浅はかだったのだろう。
 それでも私には他の道なんて考えつかなかったのだ。