ブチャラティ√【ナターレの夜】のあと、もしもナランチャにも想われていたら。
ナターレが終わり、エピファニアの迫る下町。その中央通りは人も多ければ露天商も多い。身を捩らなければ通り抜けられないほどの通りは、すっかり混沌の様相を呈している。
「……っ」
そんな中、小さな声が上がる。瞬間、隣で傾ぐ体をナランチャが抱き留めたのはほぼ反射的なものだ。気づいたら手が伸びていた。そんな自分を、褒めてやりたい気持ちになる。「ありがとう」と、ホッとした顔で名前が言うものだから、なおさら。
「ごめんなさい、気をつけて歩いてたつもりなんだけど」
石畳には昼過ぎまで降った雨がまだ残っている。名前は足を滑らせたのだ。気恥ずかしそうに笑う名前を見て、『女の子は大変だ』とナランチャは思う。
この国の多くの女性と同じで、名前もまたヒールの高い靴を履いていた。それが当たり前で、自然なことだから、平然と歩ける女性はすごい。尊敬に値する。
そう思ったから、ナランチャは「オレの方こそごめん」と眉を下げる。
「歩くの速かったよな。気づいてやれなくてごめん」
「ちっ、違うわ!ナランチャのせいなんかじゃ……」
すると名前は慌てた様子で両手を否定の形に振る。「私がどんくさいのがいけないのよ」そう名前は言うが、ナランチャとしては納得がいかない。しかしここで食い下がったとして、果たしてどうなるだろうか?
「それじゃあ……」ナランチャは暫し考え、それから名前の手を引いた。
「手、握らせて?そうすれば歩幅も合うし、名前が転びそうになってもオレが絶対守るから」
──ちょっと、カッコつけすぎたかも。
言ってから、照れ臭さを感じる。同時に、『でも仕方ないだろ』とも思う。
そう、仕方ないことだ。だって、こうしなきゃまたいつ名前が足を滑らすかわからない。例え小さな傷だったとしても、自分の目の前で名前にむざむざ怪我を負わせたくはなかった。だから、仕方ない。
そんなことを言い訳がましく考えるのはどうしてか。……そこまで思考を巡らすことはなく、ナランチャはマフラーに顔を埋めた。
なんとなく、名前の顔が見れない。繋いだ左手ばかりがいやに意識され、汗ばんでいるようにさえ思う。吐く息は白く、風は膚を刺すほど冷たいというのに。
無心で歩を進めていると、後方で小さな笑みの音が溢れた。
「もォ〜……笑うなって……。オレだって結構恥ずかしいんだから」
「そうだったの?でも格好よかったわ」
「……からかってる?」
「まさか。本気よ」
視線をやると、真剣な目とかち合う。冴え冴えとした、紫の瞳。だけど少し、灰色がかっている。フーゴや自分のとも違う色合いだと、この世で何人が知っているだろう?
……ブチャラティは、知ってるのかな。
でもそれはほんの一瞬のこと。名前が相好を崩すと、釣られてナランチャも笑った。
「絶対ウソ。だって笑ってるじゃん」
「嘘じゃないわ。嬉しくて、つい笑っちゃっただけ」
「ホントかなぁ〜?」
こんな、なんてことないやり取りが、今は楽しくてしょうがない。アバッキオやミスタと過ごす時間も好きだけど、でも今この瞬間、笑顔の名前を見て感じるものをいったいなんと表現したらいいだろう?
ここが世界の始まりであり、終わりであるような錯覚。溢れる充足感の理由も、それが指し示す答えも、ナランチャにはわからなかった。わかるのは、この時間がずっと続けばいいのにという穏やかな願いだけ。
「おおっ、ナランチャじゃねぇか!」
──しかし、そういう時に限って、事は思い通りに運ばない。
気安い、或いは馴れ馴れしいとも言える声。呼びかけたのは、家電を取り扱う物売りだった。この辺りではしょっちゅう見かける顔だ。とはいえ自治体からの許可を取っているわけじゃないから、警官に摘発されたらおしまいである。そんな男が、いったい何の用だというのか。
手招かれ、訝しみつつも歩み寄る。そして物売りの指し示す方へと視線を落とし、そこでようやく呼びかけの理由を理解した。
「ラジカセ?」
「そうそう!確かアンタ、欲しがってたろ?」
首を捻る名前に答えてから、物売りはナランチャに訊ねる。
「そうだけど……」確かに彼の言う通り。ブチャラティの家にあるのを見かけて、今度買おうかなとは思っていた。目の前の物売りにそんな話をしたかまでは覚えていないが、欲しがっていたのに違いはない。
「こいつは中古だけどよ……、ほら、まだ新品同然、ちゃんと動くのは確認済みだぜ?」
「うーん……」
値段を聞けば、破格の代物。今の所持金でも払える金額に、ナランチャの心は揺れる。だが、踏ん切りがつくところまではいかない。
「でもよぉ……、そー言って、いつもみたいにガラクタ押しつけるつもりなんじゃねぇの?」
「まさかッ!ブチャラティの顔潰すようなこと、オレたちがするかよ!」
「ホントかぁ?信用ねぇなぁ……」
疑いの目を向けるのは、こういうのが物売りたちのいつもの手だからだ。お買い得だとか何とか言って、不良品を売りつけたり、商品をガラクタと入れ替えて渡したりする。それを非難するつもりはないが、やられて喜ぶような趣味もナランチャにはない。
しかし物売りの言うことが正しければ、これは掘り出し物だ。ナランチャは腕組みし、眉を寄せる。さて、どうしたものか……。
「気になるならじっくり見せてもらえばいいんじゃない?ねぇ、それくらいはいいでしょう?」
悩んでいると、それまで静かに成り行きを見守っていた名前が口を開く。前半はナランチャに、残りは物売りに向けて。言うと、露天商の男は「もちろん!」と商売用の笑顔を張りつける。なんとも胡散臭いものだ。
「けどさ、名前は用、ないだろ?付き合わせるの悪いし……」
街には夕刻が迫り、伸びる影も色濃い。あとはもう家に帰るだけという段で、無理に名前の時間を奪うのは本意ではなかった。
けれど名前は「気にすることないわ」と笑い、通りに並ぶ店のひとつを指差した。
「決まったら教えて。それまで買い物してるから」
「いいの?」
「ええ。元々用事はあったし、ね?」
お値打ちだというラジカセも気になるし、かといって名前を待たせて悩むのも気が引ける。ならば名前には名前の用事を済ませてもらうのが最善だろう。店内なら危険もないだろうし、とナランチャは思う。ちなみに、名前を一人で帰す案は元よりなかった。
「じゃあ……ごめん、待ってて」
──この手を離すのだけは、なんだか惜しいことをしたような気になるけど。
一抹の寂しさを片隅に押しやり、ナランチャは手を振る。名前が向かったのは惣菜店。店主の人柄の良さはナランチャも知っているから、安心して件のラジカセに向き直る。
「どうする?一曲かけてみるか?」
「そうだなぁ……、とりあえずちょっと開けてみてもいい?」
「おお、好きにしな」
鷹揚に頷く店主を横目に、ラジカセに触れてみる。どうやら大きな傷はなさそうだ。外観に問題は見受けられない。勧められるまま再生ボタンを押してみても、音楽は無事に流れ出す。疑いすぎただけ、だろうか。
「うーん……」
「なんだい、まだ気になることでも?」
試してみる価値はある、と思う。普通に考えれば、たぶん、きっと。
なのに決定的な一言が切り出せないのは、足元が覚束ないせいだ。理由のない浮遊感。落ち着かず、思考が冷静に働かない。気づけば意識は道の先、名前の向かった場所へと飛んでいた。
「……悪い、今日はやめとくわ」
「明日も残ってるかはわからんぞ?」
「うん、でもいいや」
ナランチャは笑って、名前の後を追った。
時間にしてどれくらいだろう。五分か、十分か。恐らくはその程度だろうけど、でももっと経っているように感じられる。そんなナランチャの空っぽの掌を、すきま風が抜けていった。……温もりが恋しいのは、きっと寒さのせいだけじゃない。
「名前──、」
そんなことを思いながら、惣菜店のガラス扉に手をかけた。
その時目に飛び込んだもの──刹那に駆け抜けた衝撃と、残された空虚を、言葉にするなら何と言うだろう。
詩人なら素晴らしく適切な語を選べたかもしれない。ただナランチャにわかるのは、微かな悲しみ、そして漠たる荒野に身を投げ出されたかのような感覚だけだった。
「…………っ」
名前はひとりじゃなかった。隣にはナランチャもよく知る人がいた。涼やかな目元を和らげて微笑む人、──ブチャラティが、一緒だった。
たまたま、ブチャラティも同じ店を訪ったのだろうか。それ自体は別におかしなことじゃない。この街はブチャラティの庭みたいなものだ。だから別に、珍しくもなんともない。
でも、とナランチャは思う。でも、これは偶然なんかじゃない。もっと大きな流れ──そう、運命とでもいうのだろうか、そんなものが二人を取り巻いているように思われた。いま、この瞬間。寛いだ様子で語り合う二人の距離の近さは、物理的なものだけじゃない。太陽の黄金と、夜の闇。二人は、元より一対のようだった。
いつからだろう。いつから、二人の距離はこんなに縮まったのだろう。思えばナターレの夜、その後から空気が変わった気がする。打ち解けたというより、もっと先の──
「どうして……」
ナランチャは舌を噛んだ。
ブチャラティのことも名前ことも、大好きだ。二人が仲良くなってくれて嬉しい。最初の頃のブチャラティには疑念があったし、名前もまた警戒心を完全には取っ払えていなかった。当時を知っているから、なおさら今は『よかった』と思う。純粋に、祝福できる。
そのはず、なのに──
「あっ、ナランチャ!」
視線に気づいた名前が顔を綻ばす。ブチャラティも軽く手を挙げる。二人はごく自然体だ。
……なのに、オレだけが噛み合わない。上手く笑えない。焦って、頭が真っ白で、自分自身がイヤになる。
「どうした、ナランチャ?」
「ああ、ウン……驚いてさ」
「そうだな、偶然だ」
そうそう、すごいぐうぜん。だから驚いて、……驚いただけなんだ。どうしてここに、なんて、──今はブチャラティに会いたくなかった、なんて。オレがそんなの、思うはずがないんだ。
「……あのさっ!オレ、ちょっと用事ができちゃったんだよね。だから……」
「あら、そうだったの?ごめんなさい、引き留めちゃったわね」
用事なんてないよ、そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。
そう言いたかった。
……なのに、言えなかった。
ナランチャは「うん」と曖昧に頷き、二人に手を振った。背を向け、ガラス戸を開け、少し歩いてから、全速力で駆け出した。一刻も早く二人の元から離れたかった。
「っ、はぁ……っ」
でもどこまでいってもついて回った。親しげな二人。笑い合う、名前とブチャラティ。大切な人。大好きで、愛しい二人が、今はたまらなく憎らしかった。そしてそう思う自分が、何より悲しくて、苦しかった。
通りの突き当たりまで走って、ナランチャは立ち止まった。あんなに輝いて見えた世界も、今は赤茶け、空漠とした砂漠のようにも思われた。
「どうして……」
しかし呟きに答える声も、救いの手もなく、ナランチャは唇を噛み締めるしかなかった。