ミスタ√【後日談】


完結後、数年後設定。付き合ってる。





 クリスマスの買い出しに行こうと言い出したのは名前の方からだった。だが今の彼女は心ここにあらずといった風だ。食料品店の中、天井近くまで積み上げられたパネトーネをぼんやりと見上げている。

「いくつ買う?ひとつ?ふたつ?」

「そうね……」

 ミスタが問いかけても上の空。華やかな箱をひとつ手に取ってはぼんやりと眺めるだけ。視線は確かに手元へ向けられている。だがどこか遠くへ馳せられた目はパネトーネを映しているようには見えなかった。

「どうしたんだよ」

 ミスタは名前の顔を覗き込んだ。
 出会ったばかりの頃より丸みの取れた輪郭。淑女らしく結い上げられた髪には一分の隙もなく、平静を保っている。事実彼女の瞳は揺らいでいなかった。風ひとつなく、波ひとつない。冷静で、過ぎるほどに凪いでいた。早朝の底冷えする空気のようで、ぼんやりとした眼差しだけが蜃気楼に似ていた。
 「具合でも悪いのか?」そう訊ねながら、しかし実際のところミスタには見当がついていた。気づかないほど鈍感ではなかったし、単刀直入に訊ねられるほど鈍くもなかった。

「具合?」

 名前はぼうっと呟いた。「ううん、そんなことないわ」彼女は「気にしないで」と笑った。小さく、──ぎこちなく。
 そこには隠しきれない動揺があった。気にしないでと言うにしては余りに不自然すぎた。そしてミスタには心当たりがあった。彼女が動揺するに至った理由が。
 「……」ミスタは何事か言いかけ、躊躇った。訊ねるには細心の注意が必要だった。言葉は選ばなくてはならなかった。
 悩んだ末に、ミスタは「怒ってるのか?」と聞いた。聞いて、それから後悔した。
 名前はぴくりと指先を震わした。パネトーネを戻す手を一度止め、でもそっと山の中に埋没させた。

「まさか」

 否定に波打つ髪はどこか色褪せて見える。髪も、膚も、唇も──瞳も。熱を失い、青ざめ、萎れていく。そしてミスタを見上げる目には軽い失望があった。

「違うわ、怒ってなんかない。あなたへは、なにも」

 それは特別期待などしていないと言うのと同じじゃないか、とミスタは思う。
 思って、苛立って、でも踏み止まった。悪いのは名前じゃない。強いて言うなら彼女と出会う前の自分自身だ、とミスタは内心で自嘲した。

「悪かった」

 何を言っても言い訳に聞こえるだろう。事実そうだ。過去は変えられない。考えなしに行動していた青臭い青年時代を後になって悔やんだとしたって。

「……あなたが謝ることなんかないわ」

 名前は目を瞬かせた。それから困ったように眉を下げた。ようやく焦点が結んだ。でもちっとも安心できなかった。
 「あなたは悪くない」それは己に言い聞かせるような調子だった。少なくともミスタにはそう思われた。当人の名前はどうだろう?彼女は気づいているのだろうか?

「ごめんなさい、私が気にしすぎただけなのに」

 名前は過去形で言った。そしてミスタ自身もあれは過去だと思っている。女の子と遊び歩いた夜。楽しくも愚かしい日々。火遊びに深い理由などなかった。息をするのと同じだった。そう思っていたのは名前と出会う前のことだ。今はすっぱり足を洗っている。だからすべてが背後に過ぎ去った話である。
 でも名前にとっては違う。彼女は敬虔な教徒で、貞淑な女だった。だからこそ今はっきりと先刻の出来事を過去として話した。
 ミスタの過去を知る女。会ったのは偶然だ。声をかけてきたのだって女の方からだった。声をかけられても名前が出てこないくらいだ。お陰で隙が生まれた。ミスタが記憶を手繰っている間に女はつまらない──とても下世話な話を始めた。隣に名前がいるのに気づいていながら、だ。
 名前は何も言わなかった。笑って、言葉を返して、そして別れた。別れてから、表情が失われた。女を見送る名前の目にはなんの感情も浮かんでいなかった。怒りも悲しみもそこにはなかった。

「……それを言うならお前だって悪くない」

 いっそのことわかりやすく嫉妬してくれた方がよかった。その方がずっと簡単に赦しを求められた。
 でも名前は怒らなかったし悲しまなかった。ミスタを責める言葉はひとつもなかった。ミスタがそう言った後も、小さく笑って首を振った。いいえ、と。

「そうじゃないのよ、そういう話じゃない」

「じゃあなんだって言うんだ?」

 名前は目を伏せた。「そうね、」呟き、彼女は何処か遠くへ思いを馳せた。客席から舞台を見上げるみたいな、でもそれよりずっと不思議な力があった。彼女の目は何もかもを見透かしていた。

「たぶん、将来のことを」

 ──恐らくは遠い未来のことさえも。

 名前は僅かに口角を持ち上げた。泣き笑ってるように見えた。でもそれは間違いで、視線を上げた彼女の目に涙の跡はなかった。

「これから先のことを考えたの。これから先の、私のことを」

 「あなたは悪くないのよ」ともう一度名前は言った。念を押すように、それだけがミスタに残るように。

「私が……これからの私がいけないの」

「これから?」

「そう、これからのこと」

 名前は続けた。「これからもこういうことがあるかもしれない」その時に平静でいられる自信がない。平静でいなくてはならない、──そのことに耐えられそうにない、と。

「狭量だってわかってる。付き合う前のことだもの。それにあなたを好きになった時点でこうなることは予想していたわ」

 それでもダメだった、と名前は笑った。今度こそ本当にその目は揺れていた。抑えきれない悲しみがあった。そしてそれはミスタに向けられていた。
 名前はもう一度「ごめんなさいね」と言った。

「ごめんなさい、私、自分が思っている以上に嫉妬深かったみたい」

 その取り繕った微笑を見て──限界だ、と思った。

「……予定変更だ」

 ミスタは名前の手を取った。手首を掴み、元来た道を戻った。
 「どうしたの」狼狽えた声が後ろから響く。名前の声だ。頼りない、でもどこまでも澄んだ声。そこに涙の一滴でも混ざってはいけないとミスタは思う。そうなったら自分で自分が許せなくなる。

「指輪を見に行こう。一先ず今日はそれくらいだな。ドレスはまた明日にでも考えようぜ。あぁ、けど会場の確保が先だな。いいリストランテが空いてりゃいいが……ま、無理ならジョルノに頼めばいいか」

 矢継ぎ早に言った。振り向くことはしなかった。名前がどんな顔をしているのか、少しだけ怖くもあった。ほんの少しでも否定されたら生きていけないとさえ思った。
 でも名前は逃げなかった。掴まれた手を振りほどこうとはしなかった。「それは、」言いかけ、名前は言葉を呑み込んだ。──何もかも諒解したのだ。それをミスタも理解した。掌がいやに熱く、汗ばむほどだった。

「そうすりゃあ少しは安心できるだろ」

 店を出ると冷ややかな風が頬を打った。だが今はむしろちょうどいいくらいだ。嘯き、そこでようやくミスタは足を止めた。足を止め、名前に向き直った。でも繋いだ手は離さずにいた。
 名前はミスタを見上げていた。大きく見開かれた紫の瞳が日に透けていた。張られた水の膜がキラキラと光を反射していた。どんな教会のステンドグラスよりもきれいだ、とミスタは思った。

「……オレも、その方が安心だ」

 名前の頬に左の手をやる。冷えきった肌。それを温めるのは自分以外の何者でも許しがたいと思う。そう、何も嫉妬するのは名前だけではないのだ。ミスタだって、いや生粋のイタリア人であるミスタの方こそ、激情は名前よりもずっと熱いものだった。……名前の前では露にしないだけで。
 でも正直に言うと、名前はくしゃりと顔を歪めた。「よかった、」もっと早くに言えばよかった。それはミスタも思ったことであった。もっと早くに伝えていれば、今日のように彼女を傷つけることもなかったろうに。

「悪かった。……言わなくて」

 謝ると、今度は突き返されなかった。
 名前は柔らかく笑んで、「そうね」とミスタの手に頬を擦り寄せた。

「そればっかりはあなたも悪いわ」

 冗談めかした物言いで名前はミスタを責めた。だが悪い気はしなかった。むしろホッとしたと言ってもいい。もっと我が儘を言ってくれてもいいくらいだ。
 そう言うと、名前はくすくすと笑った。

「大丈夫よ、これからいっぱい我が儘を言うもの。……式の準備ってそういうものでしょう?」

「……そういう我が儘は大歓迎だ」

 よく晴れた日だった。空は凍えたように青く、どこまでも澄み渡っていた。
 名前は食料品店を背に立っていた。格式高いリストランテでも美しい景色で有名な場所でもない。辺りには古ぼけた建物が立ち並び、洗濯物が揺れている。
 そんな日常の最中だった。でも今日という日を生涯忘れることはないだろうとミスタは思った。抱き締めた体の熱も、跳ねる笑い声も、触れた唇の柔らかさも、いとおしげに細められた目も。何もかもを覚えておこうとミスタは思った。






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お誕生日おめでとうございました!
同じく結婚をテーマにさせていただきました。