ミスタの妹になる�[


 図書館にやって来た名前の鼻は寒さで赤くなっていた。
 ぼくは「カフェでも飲みますか?」と笑った。然り気無さを装って。
 でも内心では少しの緊張があった。二人で美術館や文具店に行ったことはある。けれどそれには理由があった。引き換え今回はどうだろう?以前とは違ってチケットも壊れたペンもない。尤もらしい理由といったら忍び寄る灰色の季節くらいなもの。それだって図書館の完成された設備の前には無力だ。
 ぼくの手のひらは汗ばんでいた。室温の高さがいやに気にかかった。
 名前はマフラーを解く手を止めた。「名案」そう言って笑う彼女に安堵する。彼女が寒がりでよかった。別に冬が好きってわけじゃないけど、でもちょっとだけ好きになれそうな気がした。

「もうすっかりナターレ目前って感じだね」

 図書館を出てバールを目指す。その最中、通りがかった広場には屋台が並んでいた。プレゼービオのためのミニチュア、パネトーネやヌガーなどのお菓子。華やいだ広場を眺め、名前は白い息を吐く。
 「そりゃあ十二月ですからね」答えながら、ぼくは隣を歩く彼女の横顔を盗み見た。白く滑らかな輪郭線、マフラーに埋もれる艶やかな髪、それから長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳なんかを見ていた。
 それからぼくは彼女の家族のことを考えた。名前とミスタ、二人の両親のことを。名前がナターレの日を一緒に過ごす人たちのことを考えた。ごく当たり前の平凡な家庭の姿を思い描いた。

「こういうの、見てるだけでもわくわくするね」

「見てるだけでいいんですか?」

「うん、今年はもういいかな」

 名前はマフラーを口許まで引き上げた。
 その後ろでは真昼にも関わらず点灯されたイルミネーションがちかちか瞬いていた。サンタやトナカイの描かれた鮮やかな看板が青空に浮かんでいた。広場に作られたスケートリンクでは大人も子供も楽しげに笑い合っていた。

「だってどんなに立派な飾りつけをしたって、豪華なごちそうを用意したって……兄さんは帰ってこないもの」

 なのに名前が浮かべたのはどこか寂しげな微笑だった。
 名前はプレゼービオもパネトーネも欲していなかった。憧憬と諦念の横たわる瞳。それはエッシャーの絵を見るのと同じ眼差しだった。

「だから今年のナターレはあんまり楽しめそうにない」

 そこで名前は冗談っぽく肩を竦めた。
 でも少しも笑えなかった。 酷い思い込みに羞恥がのし掛かった。
 とんだ思い違いだ。どうしてそう決めつけていたんだろう。まるで名前を平穏の象徴みたいに、なんて。……ぼくはミスタがこの組織に入団した理由も知っているのに。
 容易に想像のつくことだった。平凡な家庭。だからこそあのような事件の後は深い傷が残る。ぼくは知っていた。いやというほど知っていた。父の罵声、母の啜り泣き、好奇の目、軽蔑の言葉、いやというほど知っているのに、今の今まで考えもしなかった。
 そんな後悔に急き立てられ、ぼくは咄嗟に「……それなら、」と口走っていた。

「ん?」

「い、いえ、……なんでもないです」

 小首を傾げる名前、そのまっさらな視線、凪いだ瞳。ぼくは口ごもり、曖昧に笑んだ。
 ぼくはなんてことを言おうとしたのだろう。──それならぼくと、なんて。
 ぼくらはただの友達だ。ただの友達で、家族じゃない。ぼくはミスタにはなれない。代わりにだってなれやしない。そんなぼくとなんかより血の繋がった家族と過ごす方がずっとまともだ。
 ぼくらの足は広場を通り過ぎていった。別にそこらにあるバールに入ってもよかったけれど、でもなんとなく気まずさを感じた。
 ぼくは目を落とし、木の葉の舞う石畳を眺めた。錆びた葉っぱは乾いた音を立てていた。からから、からから。それは空虚で、がらんどうだった。ぼくの骨もきっとこんな音を立てるんだろうなと思った。空虚で、がらんどう。同じようなことを以前にも考えたことがあった。あれはそう、確か実家を出て日々転々としていた頃のことだった。

「……ナターレの日、」

 ぼくらの間に生まれた空白を埋めるようにして名前は言葉を紡いだ。そっと窺うように、或いは一語一語慎重に。囁きは煙る朝靄で、揺れる燭火で、梢のささめきだった。

「少しでいいの、フーゴの時間を分けてほしい」

 名前はぼくを見上げていた。ぼくは名前を見下ろしていた。彼女の澄んだ眸の中にはぼくがいて、ぼくのそれもまた彼女だけを映しているのだろう。
 ぼくには彼女の些細な仕草さえも認めることができた。瞬きのたびに睫毛が弾く光も、引き結ばれた唇が緊張のために僅かに震えているのも、寒さから蝋人形の肌に刷かれた朱が薔薇色の彩りになっているのも。何もかも、どんな小さなものまでもがひどく鮮明に見えた。

「ぼくの……?」

「うん」

「……どうして」

 そう問う自分の声もどこか遠い。聞き返すのは殆ど無意識。なのに続きを聞くのが怖くもあった。名前の唇が開くのをじっと見つめた。吐息の微かな振動にさえぼくの心臓は喉元までせり上がった。

「だってきっとひとりは寂しいから、……兄さん、意外とそういうとこあるし」

「……兄さん、」

「うん、だから友達のあなたが構ってくれたら嬉しいと思う」

 「兄さん、」ぼくはバカみたいに同じ言葉を繰り返した。兄さん、兄、──その単語でようやく思い至る。彼女の言いたいこと、ぼくに望んでいること。

「……そんな可愛い性格してますかね」

 思い浮かべた男は滑稽な空想をしたぼくを嘲笑うように口角を持ち上げた。まったく腹の立つ顔だ。八つ当たりだとわかっていてもその顔を殴りたくなった。
 でも名前は彼の妹で、本当に心から彼を慕っている。だからぼくは苛立ちを抑えて頬をひきつらせるに留めた。自分でもよく我慢したと思う。

「……可愛いかは、わからないけど」

 そんな葛藤など露知らず。名前はぽつりと呟き、目を伏せた。

「……私だったら嬉しい、から」

 その呟きは先刻の問いかけよりもずっとささやかなものだった。ともすると聞き逃してしまいそうなほどに。聞き違いじゃないかって思うほどに。
 名前は顔を上げなかった。歩みも止めないまま、視線を落としていた。ぼくのことなんか視界に入ってないんじゃないかってくらいだった。マフラーに顔の半分を埋め、名前はそれ以上を語ろうとはしなかった。
 それでもぼくにはわかった。名前だけを見ていたぼくにはわかってしまった。

 ──僅かに覗く彼女の頬が、赤く火照っているのを。

「そう、ですか」

 ぼくは言葉に詰まった。何か他に言うべきことがあったような気がしたけれど思いつかなかった。思いつかなくて、ぼくもまたマフラーを引き上げた。肌は茹だるようで、カフェなんかもう必要ないんじゃないかなって思った。思ったけど、口にはしなかった。ぼくも、名前も。

「…………」

 沈黙が落ちた。ぼくらはそっぽを向いたまま、でも決して足並みを乱すことはなかった。ぼくらは図ったような速さでゆっくりと歩いた。遠すぎも近すぎもない距離だった。それが精一杯だった。

「……あの、」

 思考は脈絡なく、とりとめのない単語が脳内を流れていった。そんな中を探り探り手を伸ばす。そうしなくてはならなかった。むず痒い沈黙がぼくにとっては劇薬だった。

「もうすぐ休暇、始まると思うんですけど」

「……?うん、そうだね」

 そこでやっと名前はぼくを見た。不思議そうに髪を揺らして。
 陽光を透かしたそれや澄んだ眸に瞬く光が、ぼくにはさやかな音を立てているようにさえ思われた。その音はたった今まで用意していた言葉さえも呑み込んだ。呑み込まれ、ぼくの思考は明滅した。

「そしたら、その、わざわざいつも同じ時間じゃなくたっていいわけじゃないですか。いや、今のが嫌ってわけじゃあないんですけど、」

「……うん、」

「だから、つまりだな……」

 ぼくは頭を掻いた。言語中枢がイカれちまったのか?そう疑うほど信じがたいことだ。話すことすらままならない。理論だてて語ることなどもっての他。肉体がぼくの手から離れていってしまったような感覚だ。
 当然苛立ちも込み上げた。──どうしてこのぼくが。そう思った。思ったけど、名前にじいっと見つめられるとダメだった。その深遠なる瞳に激情は溶かされていった。後に残されたのはぼくというちっぽけな『個』で、ぼくは視線を泳がせた。
 口を開いては躊躇うのを繰り返し、

「……ぼくも、友達のあなたと会えたら…う、嬉しい、……と、思う」

 そうしてからやっとの思いでぼくはそう告白をした。顔を見ることはできなかったし、語尾なんか消え入りそうなくらいだ。格好がつかない。し、穴があったら入りたい。

「……っ、うんっ、私も……っ!」

 でもそんな後悔も名前の笑顔を見ると吹き飛んだ。

「私、プレゼント用意する!だから、期待……は、あんまり、だけど……いっぱい考えるから!」

 名前の目は純粋そのものだった。どんなプレゼービオよりも清らかなもの。その輝きを前にして、辺りのイルミネーションは途端にくすんだ存在と化した。
 ぼくは笑った。「そんなに気負われるとこっちも緊張するな」そんなことを言って、なんでもない風を装って。心臓が安堵に溜め息を吐いているのなんか少しも悟られないように。
 それが功を奏してか、名前は「そうなの?」信じられない、と笑った。

「そういうの、慣れてそう」

「慣れてるって……それ褒められてる気がしませんね」

「余裕があるって言ってるの」

「……ないですよ、そんなの」

 ぼくは石畳に目を落とした。
 それはぼくたち二人の足音を鳴らしていた。ぼくと名前、二人分の足音を。乾いた音色は澄んだ空気の中を響き渡った。それは心地のいい音だった。啜り泣きのようだとはぼくにはもうどうしたって思えなかった。