ミスタの妹になる\
行きつけのバールは意識しないと見落としてしまいそうなほど小さく、奥まった場所にあった。そんなところであるから店主も客も普通とは少し違う。店主は接客業にしては愛想がないし、やって来る客も用件を済ませるだけ。余計なことはお互いしない。無礼というほど冷たくはないが、淡白な静寂が店内には流れていた。
だからぼくはこの店を選んだ。名前に紹介するに相応しい場所。ぼくたちには活気だとか騒々しさだとかは必要ない。図書館に流れる、あの静けさ。馴れ合いの存在しない、付かず離れずの関係。それはこの日も変わらず、狭い店内に入ると名前はそっと息を吐いた。
「いいところだね、静かだし」
室内いっぱいに伸びたカウンター。その後ろを通るには人一人がやっと。そこを抜け、ぼくたちは奥にあるテーブル席に座った。それから名前は上記の呟きを洩らしたのだ。
彼女の目は色の剥げた壁に向けられていた。無造作に貼られているのは写真や絵画だった。たぶん絵はがきの一面だろう。どこか異国の風景や美しい人物画、そうしたものが何の規則性もなく並べられていた。そしてそれらを好ましいものを見る目で名前は眺めた。
「でしょう?」
ぼくは店主でも何でもない。でも気に入ってくれたらしい彼女の反応にホッと胸を撫で下ろす。彼女の示すもの、そのすべてが気にかかった。
名前はチョコラータ・カルダを選んだ。ぼくはカフェ・コッレットにした。名前は一口飲んで、「おいしい」と呟いた。
店内はコーヒー独特の深みのある匂いで満ちていた。他にあるのは豆を挽く音や蒸気の音、食器の触れ合う音、そして客同士による密やかな声だった。ここには外とは違うゆったりとした空気が流れていた。
「そうだ、」
半分ほど飲んだところで、名前はふと何かを思い出した様子で声を洩らした。
「私、フーゴに言おうと思ってたことがあって」
「ぼくに?」
「うん、大したことじゃないんだけど……」
そう言われると、逆に身構えてしまう。
ぼくは「なんだろう」と笑ったけれど、内心はどきどきしていた。彼女の様子からして悪いことではない、と思う。でもぬか喜びになるのも怖かったから、努めて何も考えないようにした。
──いや、ぬか喜びってなんだよ。
「この間、先生に褒められたの。最近よく頑張ってるって。成績も上がったし、前より積極的になったって」
自問自答するぼくを置き去りに、名前は口を開く。「ほんとに大したことじゃないから」と言い置いて。
ぼくはそろりと目を上げて彼女の顔を窺った。
手持ち無沙汰にカップの縁をなぞる指先。震える睫毛と内気に伏せられた目。
「それで『何かあったの?』って聞かれたから……私、考えて。でも理由なんてひとつしかなかった」
けれど初めて会った時よりその口ぶりはずっと滑らかだった。氷のようだ、なんて思ったのは間違いだった。彼女は無感動なんかじゃない。無機質な硝子細工なんかじゃない。
「ありがとう、フーゴ。あなたのおかげ。あなたが教えてくれたの、私に。だから変われたんだ」
だって、こんなにきれいに笑えるんだから。
「そんな、ぼくが教えたのはそんな大それたことじゃないですよ」
名前の笑い方はいつだって控えめだ。唇に含ませたのはあえかな笑み。それすらも瞬きほどで溶けた。でも一瞬の華やぎは彼女の硬質な印象を退けた。蕾のように固い唇が薄紅の花となって開いた。そんな風にすらぼくには思えてならなかった。
──対するぼくはどうなのだろう?
ぼくは彼女の与えてくれた評価に適した人間だろうか?
そんなわけがない、とぼくは否定した。彼女の向ける目があまりに真っ直ぐだったから、ぼくは思わず目を逸らしてしまった。ぼくには相応しくない、彼女のそれは過大評価にすぎない。変われたというならそれはきっと彼女自身の努力によるものだ。
──別に、ぼくじゃなくたって。
そんなのは今さら改めて考えるまでもないことだ。なのにぼくはひどく暗い気持ちに襲われた。
名前は暫し沈黙した。ぼくにはその沈黙が痛かった。ぼくは二人の間に流れる静寂を特別好んだけれど、でも今は居心地が悪く感じられた。
名前は躊躇いがちに口を開く。「あなたにとってはそうなのかも」……私には違う、と。呟いて、テーブルの上で指を組んだ。
「……私、本当は修道院に入るつもりだったの」
告白は穏やかで、波ひとつ立っていなかった。
お陰でぼくは拾いあぐね、「え、」と間の抜けた声を出してしまう。
モナステーロ、──モナステーロってなんだっけ?
その単語が示すものすら咄嗟には思い出せない。あぁそうだ、修道院だ、って後になって理解する。理解して、ぼくは名前を凝視した。
唐突な告白だった。なんの脈絡もない。少なくともぼくにとってはそうだ。一瞬頭が真っ白になって、でも彼女の言葉が過去形であるのに気づいてホッとした。安堵するくらい、彼女には修道女としての道が相応しいように思えた。
実際名前自身もそのように考えたのだろう。俗世間から離れ、奉仕に身をやつす。欲もなく内気な彼女にはそういった生き方の方が心安らかだったに違いない。
そう、静かに笑む名前を見て思った。
「両親は歓迎してくれた、信心深いから」
「でもそうなったら滅多なことじゃ会えなくなる。普通……」
彼女が挙げたのは規律の厳しい修道院の名だった。そこでは実の親族ですら余程のことがない限りない会うこともままならないと聞く。一般的に考えてなかなか歓迎しにくい進路だろう。
ぼくは親でもないし妹がいるわけでもないから想像するしかないが、『でも』と思う。ミスタなら──彼女の愛情深い兄なら──きっと引き留めたんではなかろうか。
「そうだね。兄さんは寂しがってくれたよ、すごく。私が申し訳ないなって思うくらい」
予想と違わず、彼女はちょっと困った風に笑みを変えた。
でも両親のことは話題に上らなかった。信心深いから、の一言で終えられた。それで十分だった。彼女の抱く兄への憧憬や自分への評価の低さ、そうしたものを鑑みれば彼女と両親の関係など想像に容易いことだった。
「けどやめた。……私、美術の勉強をしようと思うの」
「美術、」
「うん、」
名前は羞じらいを頬に滲ませた。指を所在なさげに弄り、でも決して俯くことはなかった。真っ直ぐひた向きに前を見据えていた。それはいつだったか見た額縁の中の世界へ向ける目に似た、でもそれよりもずっと力強い眼差しだった。
「諦めてた、最初から。私には無理だって、そんな才能なんかないって。でも……」
淡々と言葉を紡いでいた唇が、そっと笑みを形作る。
「あなたが、褒めてくれたから」
──だから、ありがとう。
そう言ってはにかむ名前をこれ以上否定することはできなかった。ぼくにはもう、どうしたって。
「……大袈裟ですよ」
ぼくの笑みはきっとぎこちないものだろう。名前みたいにはなれない。彼女みたいに剥き出しの言葉を口にすることはできない。
「でも、ありがとう。嬉しいよ、その…君の力に、なれたなら」
だからこんな台詞を吐くのですらぼくにはやっとだった。予定ではもっとあっさりと告げるつもりだったのに上手くいかない。つっかえてしまったのが恥ずかしくて、ぼくは目を泳がせる。
──けど、最後まで伝えなくては。
「それにぼくも……名前には感謝しているんです」
「感謝?フーゴが?」
「はい」
名前は心当たりがないと首を捻る。
そうだ、きっと彼女にはわかるまい。ぼくがどれだけこの静寂を心地いいと思っているかなんて。どれだけ失いがたいと思っているかなんて。──君の言葉ひとつひとつに一喜一憂してるかなんて。
知らなくていいとぼくは思う。そんなかっこ悪いこと、名前には知られたくない。ぼくは彼女にとって頼りがいのある友人でいたいのだ。その夢を壊してほしくなかった。何より、ぼく自身のために。