夜に沈む


名有りのモブが出てきます(実在の人物から名前をお借りしていますがまったく関連はありません)。




 来客を告げる執事の声。着飾った紳士淑女の談笑。楽団の紡ぐ優美な音色。大広間の中にはランプのためだけではない明るさが満ちていた。

「だからね、わたくし思うのよ。そういうのは小説の世界だけだって」

 伯爵家の夜会に招かれた名前は友人の言葉に耳を傾ける。友人──フローレンス・パジェットはレモネードを片手に熱弁している。議題は昨今流行りの駆け落ちなるものについてだ。
 しかし伯爵令嬢の彼女は反対派の一人らしい。あり得ない、と首を振って、名前に同意を求める。

「だって考えてみてちょうだい。使用人になんの話をするっていうの?確かに彼らはわたくしたちの知らないことを知っているわ。プディングの作り方だとか掃除の仕方だとかをね。でも彼らにカドリールは踊れないし、気の利いた言葉の一つも言えやしないのよ」

 名前は否定しなかった。「そうね、その通りだわ」──だからきっと私は本来この場にいるべきではないのだろう。そう、名前は微笑みの下で思った。使用人だった方が余程自然に生きることができたかもしれない。その方が、幸せだったのかも。
 でも名前が内心を口に出すことはなかった。何もかもが仮定の話だ。そしてそんなものには意味がない。実際労働者階級に生まれたとしてもやはり違うしがらみに囚われていたろう。人間というのは自分にはないものに強く焦がれる質だから。

「あなたならわかってくれると思ったわ」

 フローレンスは名前の短い返答にも満足げに顎を引いた。
 高潔さと無邪気さを持ち合わせているのが彼女の美点だと名前は考える。そういうところが好ましい。古くから続く伯爵家だというのを抜きにしても名前は彼女のことが好きだった。

「話が合わないってことはつまり退屈ってことでしょう?退屈は恋とは一番遠いものじゃないかしら?グレトナ・グリーンまで何キロあるか知ってる?──五百よ、五百!そんな長いこと退屈してたらわたくし、途中で飽いちゃうわ」

「それだけじゃないわ、フローレンス。今はスコットランドに三週間以上住まなくっちゃあ認められないのよ」

「ならなおのこと熱も冷めるわね!」

 フローレンスは笑った。それは淑女らしく控えめで、弁えたものだった。彼女の肌は白く、瞳と同じエメラルドのドレスは朗らかな気質を表していた。彼女には専用に仕立てられたドレス以外身に纏うつもりはなかったし、そういった人生を想像したこともなかったろう。
 フローレンスはそれでいいのだわ、と名前は思った。彼女にとっての幸福の形。──ならば私はどうだろう?
 私はあの屋敷が好きだった。イングランドの北東部にあるカントリー・ハウス。広大な領地と庭園。澄んだ空気と伸び伸びと生きる動物たち。馬や猟犬の世話をする日々。沢山のことを教えてくれた調教師の兄弟。そうしたものをこよなく愛した。
 けれど同じ心でまったく別のものを望んでいることも名前は理解していた。穏やかな日々を望むのと同じだけ、名前は貴族としての務めも果たしたいと思っていた。侯爵家の一人娘として領地とそこに住む人々を守っていきたい。ただ地代収入を上げるだけでなく──叶うのなら、政治家と同じように。

 でもお母様は──貴族なんかじゃなかったら──もっと穏やかな死を迎えられたんじゃないかしら?

「どうしたの、名前?」

「いえ、だいぶ人も増えてきたと思っただけよ」

「そうね。さすがだわ、顔が広いのね。わたくしなんか知らない方が大勢」

 会話が逸れたところで辺りをそれとなく見渡す。
 落ち着いたクリーム色の壁紙に磨き抜かれた床。夜も更け、会場は三分の一ほど埋まってきていた。主催者である伯爵や給仕係の召使も忙しそうにしている。名前の父親も挨拶に回っており娘へ意識がいっていない。
 その事実に正直なところホッとした。父にとって都合のいい青年など紹介されても困るだけ、むしろ断るのに苦心するくらいである。だがこれで暫くはまだフローレンスとのお喋りを楽しめそうだ。
 名前は周囲の独身貴族から送られる意味ありげな視線に気づかないフリをした。

 ──けれど。

「あら、ミスター・ブランドーと目が合ってしまったわ」

 呟いたフローレンスに、名前は「そうね」と答えた。答えながら、人垣の奥にある青の瞳に微笑む。
 目が合ってしまったなら仕方がない。他人の視線ならやり過ごすこともできようが、ディエゴのは別だった。受け流すより早くその視線を捕らえられ、名前は歩み寄るディエゴに体を向けた。

「こんばんは、レイディ・名字にレイディ・パジェット」

 訛りのない美しい発音だ。家庭教師ガヴァネス が褒めていたのを思い出す。とても飲み込みの早い子です──賞賛を、幼い頃の名前は自分のことのように喜んだ。
 「こんばんは、ミスター・ブランドー」名前はフローレンスと共に儀礼的な挨拶をした。それから彼の隣に立つもう一人の青年に目を向けた。

「ああ、紹介するよ。こちらはリチャード・バクスター。彼のとこの馬も出走してるもんだから、その縁でね」

「はじめまして、名字嬢にパジェット嬢」

 ゆったりと笑む青年の家名には覚えがあった。昨年のオークスにも出走していたはずだ。脳裏に浮かぶのは青毛の馬で、だからこそ名前は努力せずとも微笑むことができた。

「こうしてお話しするのは初めてですわね」

「ええ、でもあなたのことはオークスでお見かけしておりましたよ、レイディ・名字。ですからミスター・ブランドーにこうして頭を下げたのです。ご挨拶がしたくて」

 子爵家の長男はにっこりと笑った。それは軽薄で、どこか作り物めいたものだった。顔立ちは整っていたし、貴族階級特有の品はあったけれど、でも瞳の奥は笑っていなかった。
 観察者の目だ、と名前は思った。自分に相応しいか、或いは相応しくないかを選別する目。名前は「ご期待に添えていると良いのですけど」と笑みを深めた。
 私だって同じだ、と名前は内心で自嘲する。私も、フローレンスも。貴族は皆、自分に相応しい伴侶を探し求める。重要なのは愛情の有無ではない。属する世界が同じか否かだ。

「いやいや噂に違わぬ美しさだ。お会いできて光栄です。もちろんレイディ・パジェットも」

「あら、わたくしはついで?」

「いいえ、まさか。とんでもない」

 訊ねるフローレンスにリチャードは否定したが、彼が名前の方を気にしているのは明らかだった。保守的なパジェット家よりも競馬に熱心という共通点を持つ名字家の方が可能性があると踏んだのだろう。

 ──随分と正直だこと。

 ディエゴはそんなことなかったわ、と名前は一歩引いたところで愛想笑いを浮かべる男を見た。彼もまた向上心が高く野心家ではあったが、これほどあからさまではなかった。

「ダービーには来られるのですか?ご一緒できると嬉しいのですが」

「そうですわね、……」

 名前は自分でも驚くほどあっさりリチャードへの興味を失うのを感じた。
 野心のある人は嫌いではない。むしろわかりやすくていいとすら思う。上手くやっていけそうだ、とも。名前自身もまた分を弁えない望みを抱いているからそういった人の方が良いパートナーとなれるだろう。
 でもそれは内心の話で、言動にまで露にするものではない。そういう人はいずれ足元を掬われる。少なくとも名前はそう考えている。
 名前はディエゴの様子を窺った。彼もまた名前を見ていた。口許には穏やかな微笑が浮かんでいた。でもその目が意地悪く輝いているのを名前は見逃さなかった。

「ごめんなさい、ミスター・ブランドー。飲み物を取ってくださる?」

 名前は困り顔を作って、ディエゴを見上げた。それで十分だとわかっていた。
 ディエゴは目を眇めた。ほんの一瞬だけ。そしてすぐに「すまない、気づかなくて」と眉を下げ、ボーイからグラスを取った。

「シャンパンでいいな」

「ええ、ありがとう」

 交わる視線。グラスを寄越してくるディエゴを名前は鋭く睨めつける。対するディエゴは如才なく微笑み、無言の抗議を軽くいなした。
 けれど少しは悪いと思ったのか、それとも退屈しのぎに飽きたのか。ディエゴは名前を、そしてフローレンスを見て、「お二人はどんな話をしていたんだい」と話題を転じた。

「近頃の小説がいかに夢見がちかって話よ。あなた方は?」

「つまらない話さ。政治や経済や……そうそう、ミスター・バクスターは救貧法はもっと厳しいくらいがいいんじゃないかという考えだそうだよ」

「ディエゴ、よさないか」

 質問したのはフローレンスで、それに優しく答えたのはディエゴだった。しかしそんな彼をリチャードは制した。その眼差しは厳しく、ディエゴを見る目には軽蔑さえ滲んでいた。
 「女性の前で話すものではないよ」政治や経済なんかは男の領分だ。リチャードは遠い時代から受け継がれてきた台詞を訳知り顔で語った。フローレンスも否定しなかった。「わたくしにはわからないわ」と教えてくれたディエゴに肩を竦めてみせた。

「そうか、残念だな。最近じゃあユダヤ人が貴族院に入ったりもするからいずれは女性も、と思ったんだが」

「さすがにそれはないだろう」

 リチャードは笑った。女の仕事は社交や使用人の管理だけだと心から信じているらしかった。心底から『あり得ない』と言い切り、ディエゴのことを『バカなやつだ』と嘲笑っていた。所詮は平民上がりのジョッキー。常識すらも知らない成り上がりもの、と。

「──そうかしら」

 気づいたら名前はそう言っていた。

「アメリカでは女性にも参政権が与えられるようになったわ。だからこの国でだって女が政治を語る日がいつかは来るんじゃないかしら、……」

 言ってから、はたと我に返る。
 リチャードは名前を凝視していた。フローレンスは目を瞬かせていた。その後ろで、ディエゴだけが愉快そうに目を細めていた。

「……って、そういう話を以前お聞きしましたの」

「なんだ、驚いたよ」

「わたくしもよ、あなたが男の人のようなことを言うなんて、って」

 名前は努めて平静を繕った。ホッとした様子のリチャードとフローレンスに謝り、グラスに口をつけた。
 装うことは慣れていた。侯爵家の一人娘として、従順なだけの女として。そんなのは珍しいことではないはずなのに、今は否定するたびに惨めさが募った。
 なんてちっぽけなんだろう、と名前は思った。政治家のように、なんてバカみたい。ロマンス小説よりよっぽど夢見がちだ。本心すら伝えられないくせに世界を変えたいだなんて分不相応にもほどがある。最初から生きる世界が違ったのだ、と。
 笑顔の下で言い聞かせていると、視界に影が落ちた。

「……顔色が悪いな」

 覗き込むようにして名前を窺い見たのはディエゴだった。彼の厚みのある指が名前の頬にかかり、顔を上向かせた。手つきは優しかったけれど逆らうことのできない強引さがあった。

「夜風に当たった方がいいかもしれない、バルコニーへ出よう」

「それならわたしが、」

「いや、……歩けるな?名前、」

 名乗り出ようとしたリチャードの声は名前まで届かない。
 何もかもがディエゴの支配下にあった。気遣ったのも、提案したのも、手を差し伸べたのも、全部ディエゴだった。名前に逆らう術はなかった。

「ええ、……」

 不服げなリチャードの視線を感じる。ひそひそと耳打ちし合う女性の集まりが遠くに見える。
 名前は目を伏せ、ディエゴの腕に手を回した。ディエゴは何も言わなかった。彼は相変わらずの優雅さでもって名前を優しくエスコートした。

「ありがとう、助かったわ」

 バルコニーに出ると夜風が熱をさらっていった。いつの間にか感じていた目眩も次第に薄れていく。そうすると先刻までの醜態がまざまざと思い出され、名前はディエゴから手を離した。ディエゴはやっぱり何も言わなかった。一瞥をくれることさえも。

「人酔いしたんだろう。それともシャンパンのせいかもな」

「……そうね」

 バルコニーからは眼下に広がる庭園が見渡せた。この時期なら薔薇が豊かに花開いていることだろう。でも今はよく見えなかった。夜闇の中に目を凝らすと吸い込まれそうで、名前は小さく首を振った。
 「あなたの言う通り」声は震えていないだろうか。「今日は少し、暑いから」虚勢が、伝わってはいないだろうか。
 どうか気づかれませんようにと祈りながら、でもそれが無駄なことだと名前は知っていた。
 ディエゴにはなんだってわかってしまう。今だってそうだ。名前の感じた失意を彼は察している。察した上で、知らぬフリをしている。それが腹立たしい。情けなくて腹立たしくて、──そんな自分を知っているディエゴが、すこし、こわい。

「……あなたも、そう思うの」

 恐れているのに、なのに名前はまた衝動的に訊ねていた。

「女に政治なんかわかりっこないって、……あなたも、そう思う?」

 横顔が名前を見る。何を考えているのかわからない目。感情の籠らぬ目だ──彼はきっと、どんな人も愛さないだろう。そう直感した。その後で老婦人のことを考えて、名前は悲しくなった。なんとなく、結末がわかりかけてきた。いや、本当は最初からわかっていたのだ。目を逸らしていただけで、本当はわかっていた。
 私に優しくするのだって同じことだわ、と名前は思った。名字家、競馬界に力持つ家系。彼は名前に求婚しなかった。それが名前にはちょうどよかった。でもだからどうだというのだろう?
 彼は名前に求婚しなかった。でもそれは彼が名字家の後ろ楯を得るのに必要なことではなかったからというだけだ。別に名前自身を見ているわけではない。名前自身を選んだのでも選ばなかったのでもない。──ディエゴは、私のことなんか見ちゃいない。

「いいや?さっきも言ったがユダヤ人だって黒人だって政治家になるんだ、性別なんてさしたる問題じゃないとオレは思うぜ?」

「……そう」

 名前はディエゴに微笑んだ。
 氷のようなひとだ。彼のそばは寒くて凍えそうで、なのに思考さえも停滞して身動きがとれない。怖いのに離れがたくて、逃げたいのに触れてみたくなる。

「革新的ね、でも素敵な考えだと思うわ」

 ディエゴに肯定されて、ほっとしてしまったのが何よりの証拠だ。彼の言葉になんか意味はないのに。台本と同じで、適切な語を諳じているに過ぎないのに。なのにそれでもまだ彼がいてくれてよかったと思ってしまう。
 名前は夜空を見上げた。今夜も曇りだ。星もよく見えない。けれどそれでよかったと思う。お陰で頬の引き攣りも誤魔化せた。
 決して自分のものにはならない男の隣で、名前は広間に集まる人々に思いを馳せた。

 ──恋をしてみるのも悪くないかもしれない。初めは気が乗らないかもしれないけど、でももしかすると一緒にスコットランドまで逃げたくなるほど誰かを愛せるようになるかも。

 そうだったらいい。それが一番最善だ。

 ──だって絶対、彼を好きになっても報われることはないのだから。