咲き誇るために


 重厚な扉を開け、室内に体を滑り込ます。
 イングランド北東部に建てられたカントリー・ハウスのひとつ。侯爵夫人の寝室からは広大な庭園が一望できた。見晴らしのいい丘や澄んだ湖、馬たちの暮らす厩舎ステイブルに深く繁る緑の森、そして──その先の馬車道に至るまで。何もかもが手に入りそうな錯覚がそこにはあった。
 だから──だろうか。部屋の主は寝台の上で身動ぎひとつしなかった。物音には気づいているだろうに振り返りもしない。ずっと黙ったまま、大きな窓の向こうに顔を向けていた。
 名前は「お母さま、」と声をかけた。お母さま、名前です──そう言っても、彼女は答えない。名前の声は届かない。

「…………っ」

 名前は唇を引き結んだ。心臓がきゅっと縮こまる感覚があった。掌がじっとりと汗ばんでいるような気がした。それでも名前はもう一度「お母さま、」と呼び掛けた。

「お父様はロンドンに戻られました。でもすぐに帰ってきてくださるそうよ」

 母は名前を見ない。眼差しは遠く、馳せられたまま。
 お母さまは何を見てらっしゃるのかしら、と名前は思った。名前にはロンドンに向かう箱馬車を見つけることはできなかった。
 でも侯爵夫人には見えているのかもしれない。自分の元から去っていく夫の姿が。
 名前は唇を噛み締めた。悴んだ指先が痛い。部屋の中は温かいはずなのに名前には酷く寒々しく思われた。
 名前は息を吸い込んだ。相手は血の繋がった家族だというのに、二人の間にはいつだって緊張感があった。けれど強ばりからは目を逸らして、名前は言葉を続ける。夢うつつに生きる母を見つめて。

「次の休暇にはわたくしも連れていってくださると仰ってたわ。わたくしはまだ宮廷には拝謁を賜っていないからちょっと気が早いことだけど……でも皆さまにご挨拶しようって。それに褒めてくださったの、わたくしの乗馬の腕……男の子だったらきっと素晴らしい騎手になったろうって──」

「名前、」

 そこで初めて夫人は口を開いた。娘を呼ぶその声は掠れ、温かみはない。
 それは吐息じみた囁きだった。でも名前はびくりと肩を震わした。目は見開かれ、未だ己を見ない母親を凝視していた。

「席を外してちょうだい、……ひとりになりたいのよ」

「……はい、お母さま」

 名前は頭を垂れ、退室した。極力音をたてないよう注意を払い、息を殺して。
 扉を閉める直前に見えたのは啜り泣く母の姿だった。最後まで名前の視線とは交わらなかった。侯爵夫人が思うのはいつだって夫のことだけだった。

「…………」

 名前は扉の前で息をついた。そして両親のことについて思いを巡らした。クリスマスが終わると逃げるようにロンドンへ帰っていった父と、それを見送りもしないくせ未練だけは残す母を。──他に愛人を作る父と、娘に一瞥すらくれない母について考えた。
 けれどどんなに考えたってどうすればいいのかなんてちっとも思いつきやしなかった。わかるのはすべてがもう手遅れなのだということだけだった。





 応接間ドローイングルームに繋がる温室コンサヴァトリー、多角形のガラス天井からは穏やかな午後の日差しが差し込んでいた。外では冷たい風が吹き荒んでいるなどとは到底思えない。手入れの行き届いた庭園にはツル薔薇やハーブを中心とした様々な植物が思い思いに体を伸ばしている。

「……ふう、」

 名前は鋏を手に膝をついた。
 十二月は古い枝を剪定する季節なのだ。別に名前の仕事ではないが幼い頃から使用人にせがんで譲ってもらってきた。だから今さら誰も不思議に思わない。母が見たら大いに嘆くことだろうが、彼女が部屋から出ることの方が騒ぎになるだろう。だから名前は一人きり、思う存分無心になることができた。

 どのくらいそうしていただろう。

「──誰?」

 黙々と作業に没頭していた名前だったが、その耳は敏感に空気の揺れを拾い上げた。それが温室の扉を開ける軋みであるのだと察し、腰を上げる。そしてスカートの皺を伸ばしていると、中央にある噴水の向こうから影が差した。

「侯爵夫人に献上するなら薔薇なんぞよりキャラウェイでも摘んだ方が余程ためになるんじゃあないか?」

「ディエゴ、」

 姿を現したのは名前の幼馴染みだった。
 ディエゴ・ブランドー。その美貌はギリシャ神話の彫刻かと一瞬見紛うほど。
 名前より二つ年上の彼は普通なら寄宿学校パブリック・スクールに通うものだ。確かにディエゴは労働者階級出身だが、彼が望みさえすれば侯爵は惜しみ無い援助をしただろう。何せ侯爵はディエゴのことを実の子のようにさえ思っているのだから。
 けれどディエゴは十三歳の時点で既に騎手の道を歩んでいたし、家庭教師ガヴァネスにいくら褒めそやされようと学校に通いたいと言い出すこともなかった。彼ならばあのイートン校ですら優秀な成績を修められたろうに。
 そう思うと、名前は彼を羨まずにはいられなかった。

「お母さまのご病気は身体的なものよ、ディエゴ。キャラウェイじゃ治らないわ、お心は悪くないんだもの」

 そんな感情を押し殺し、名前は努めて冷静に言葉を紡ぐ。
 「それよりカモミールの方が適しているでしょう」──なんて白々しい台詞だろう!言いながら、名前は自嘲した。
 こんなのは意味のないことだ。いくら取り繕ったって隠しおおせることではない。まして相手はあのディエゴだ。聡明で心の機微に敏感な彼には何もかもを暴かれているのだと名前は察していた。
 それでも決して言葉にできないことがある。肯定できない台詞がある。そのひとつが母に関することで、侯爵夫人が病弱なのは公然の事実だが、まさか彼女が酷い癇癪持ちなどとは誰も考えすらしないだろう。そう、この屋敷の外の誰にだって。
 だから明確な言葉にはできない。ディエゴの台詞を容認することはできない。キャラウェイ──ヒステリーに効くというセリ科のその植物が侯爵夫人に必要などとは口が裂けても言えなかった。
 それはカントリー・ハウスにいるのが気心知れた使用人たちだけであっても、だ。皆名前の思いを汲み取って、そのように振る舞ってくれている。その優しさを無にしたくないという思いも名前にはあった。
 しかし否定の語を聞いたディエゴは「ふうん?」と口角を持ち上げた。

「それは失礼した。オレは何かとんでもない思い違いをしていたらしいな」

「ええ、珍しいことにね」

「ああ、悪かった」

 ちっともそんなこと思っていないのは皮肉っぽい笑みを見れば明らかだった。名前の抵抗を無駄なものと嘲り、愉しんでいるようでさえあった。
 そんな時のディエゴからは嫌な感じが伝わってくる。彼と共に馬を駆るのは好きだったけれど、でも言葉を交わしていて安らぎを覚えることはない。かつての彼ら──調教師の家の兄弟たちに抱いたような親愛の情は、いつしかディエゴからは感じにくくなっていた。

「それよりディエゴ、私に話しかけるのはよした方がいいわ。どこでお母さまの耳に入るかわからないもの」

 名前はついと視線を流した。向けた先には冬咲きのクレマチスがあって、その無垢なる白に心は安らいだ。
 しかしそれも束の間のこと。ディエゴが「もっと正直に話したらいい」と笑いを含んだ囁きを落としたことで名前の心は嫌な音を立てた。

「平民上がりのジョッキーが侯爵家の一人娘に馴れ馴れしくしてるって告げ口された夫人がバカみたいな癇癪を起こすってな」

「ディエゴッ!」

 思わず叫んでいた。叫んでから、名前はハッと口を押さえ、目を伏せた。

「……ごめんなさい、大声を出して」

 感情を露にするなんてはしたないことだ。淑女はいつだって落ち着きを失ってはならない。激情に流されかけた名前だったが、我に返った今、あるのは後悔と羞恥ばかりだった。
 「でもね、ディエゴ、」名前は胸元で両手を握り締めた。

「これはあなたのためでもあるの。私のことであなたに責が及ぶなんて嫌なのよ」

 名前に言えるのは曖昧な言葉だけだった。
 でもそれできっとディエゴには伝わるだろう。実際彼は「責?」と肩眉を上げたが、続く言葉は疑問ではなかった。彼は「そんなこと」と笑い飛ばしたのだ。

「今さらだろう?奥方さまがオレを嫌ってるのなんかは」

 ディエゴは嫌みったらしく『奥方さま』などと仰々しい呼び方をした。しかしそこには侮蔑の響きもあって、名前は居たたまれなさに一歩足を引いた。

「そんなこと、」

「あるだろう?否定させないぜ、こればっかりはな」

「……ごめんなさい、あなたには肩身の狭い思いをさせてしまっているわね」

 でも仕方のないことなのよ、と名前は内心で言い訳をした。お母さまがディエゴを嫌う──いや、あの様子は憎んでいるとすらいってもいい──その理由が、私にはわかるのだ、と。
 名前は上目でディエゴを窺い見た。どんな角度からでも彼の容姿は素晴らしく美しかった。荒っぽさの中にも気品の高さが見え隠れして、そういうところもお父さまに似ているわ、と名前は思った。
 目が覚めるような金の髪や鋭い光を持った翡翠の瞳、それらを見るたびに名前はまことしやかに囁かれている噂を思い出してしまう。

 ディエゴ・ブランドーは名字家の庶子ではないのか──?

「いいさ、仕方のないことだ」

 見透かしたみたいにディエゴは肩を竦めた。

「しょせんオレは平民の出だ。生粋の貴族さまから反感を持たれるのは当然至極ってワケだ」

「それは違うわ、ディエゴ」

 ディエゴの声に諦念の色はない。それでも名前は否定せずにはいられなかった。何より、無謀な夢を抱く己を肯定するために。

「あなたの言う通り生まれは変えられないわ。でも本当に必要なのは心持ちだと思うの。例え一代で財をなした人であっても──気高い心を持っていれば、やがて尊敬を集められるようになるでしょう」

 そしてそれを成せるのはディエゴのような人だと名前は思うのだ。向上心が高く野心に満ち、けれど己を理解している──そんなディエゴだからこそ名前は羨ましいと思う。彼のようになれたら、と。誇り高く貪欲に夢を追い求められたら。そう願わずにはいられなかった。

「……ふん、」

 真っ直ぐに見つめていると、今度はディエゴの方が根負けしたように目を逸らした。そして傍らに咲いていたクレマチスを一輪摘み取った。

「何して、」

 名前が言い切るよりも早く。
 つかつかと歩み寄ったディエゴは手を伸ばし、名前の髪に触れた。──いや、正確には違う。離れていく手はもうクレマチスの花を持っていない。
 名前は耳の上に微かな重みを感じていた。そしてそれが甘やかな香りを放っていることも。

「なら名前、君にお付き合いいただこうかな。社交界でご令嬢を貴族らしくたぶらかすために」

「あら、私に練習台になれと?」

「そういうことだ。頼むぜ?オレが尊敬を集められるように」

「……仕方ないわね」

 名前は微笑んで、差し出された手を取った。
 ディエゴ・ブランドー。彼は幼馴染みであったが、名前には未だにわからないことだらけだ。棘のある言葉を発したかと思えば、こうして親しげな冗談さえ口にする時もある。名前には彼の本当の望みさえわからなかった。
 しかしそれでも突き放すことはできないだろう。親しい友人であったジョースター家がアメリカに帰ってしまった今、名前に遠慮なく話しかけてくるのはディエゴくらいになってしまった。だからきっと自分からディエゴの手を離すことはできないだろう。
 その確信だけはあって、名前はなんともいえない気持ちになった。