ミスタの妹になる]


 通りに面したバール、その外に置かれたテーブル席に見知った顔を見つける。白と黒、そのコントラストが印象的な少女。彼女は席に着いて、本を広げていた。その肩口からは黒髪が一筋、はらりと垂れている。対照的に、膚は日差しを知らないのではと心配になるほど白い。お陰でその細さは際立ち、纏っているコートすらサイズがあっていないように見える。
 もっと栄養を取るべきだ。真剣にそう思いながら、ぼくは彼女の名前を呼ぶ。何を食べさせたらいいだろう?彼女──名前はパッと顔を上げる。

「フーゴ、」

 硬質な印象の眸がほどける。柔らかく、穏やかに。薄紅色の唇が綻び、ひっそりと笑みを形作る。その控えめな親愛表現が、だからこそ特別に思われて──ぼくはどうしようもなく嬉しくなった。

「中で待っててくれてよかったのに」

「でも、……ここの方がすぐ会えるから」

「会える?」

「うん、……あなたに」

 名前は白い息を吐いてはにかんだ。
 「そう、ですか」対するぼくはといえば継ぎ穂を失い、目をさ迷わす。「それは、よかった」何がよかった、だ!言うべきこと、言いたいことは他にある。彼女が向けてくれる純粋な感情に報いたい。彼女が与えてくれたのと同じだけのものを返したい。
 そう思っているのに、ぼくの口は凍えきったまま。頬の熱さとは反対に、ぎこちない笑みを浮かべることしかできなかった。

「あの、飲み物……貰ってくるね」

「あ、いえ、自分で買ってきますから」

「いいよ、私もおかわり欲しいから。フーゴは席取っておいて」

 名前は本を抱えて立ち上がる。
 「あなたはカフェ・コッレットでいい?」ぼくは咄嗟に頷いてしまった。彼女が覚えていてくれたことに驚いて。それから面映ゆい喜びが沸き上がって、でもその頃にはもう彼女はカウンターに向かっていた。
 午前十時。微妙な時間帯の店内には遅い朝食を食べに来た人や休暇中の学生なんかが疎らにいた。彼らの目にもぼくたちがそういう風に映っているんだろう。何となく気恥ずかしくなって、ぼくは幾つか年上らしい男女から目を逸らした。

「お待たせ、飲み物だけでよかった?」

「ええ、ありがとうございます」

 お金を渡すと、「そんなのいいのに」と眉を下げられる。が、ここは折れるわけにはいかない。ぼくが無理矢理握らせると、名前も渋々受け取ってくれた。
 名前はカプチーノにしたらしい。甘いものが好きなんだろう。珍しいものでもないのに、美味しそうに飲むのが見ていて心地がよかった。

「早速読んでくれてるんですね、それ」

「ん?……あぁ、」

 テーブルに置かれた本。その表紙に書かれているのは『桯史』の文字。ぼくがクリスマスに贈った本に違いなかった。
 名前は「うん、」と小さく頷き、背表紙をなぞった。壊れ物に触れるかのような手つきで。頬を緩ませて、目を伏せた。

「面白いよ、難しいけど。あなたは?」

「ぼくも楽しく読ませてもらってます」

「よかった。もう買っちゃった後じゃないかって気になってたから」

 図ったわけでもないのにぼくらは二人して贈り物に本を選んだ。ぼくは岳珂の『桯史』を、名前は谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を。クリスマスに相応しいかは最後まで悩んだが、そう考えていたのは名前も同じだったらしい。
 けどぼくには勉強の助けになるものが一番だと思ったし、名前は名前でぼくが以前原書で読みたいと溢したのを記憶していた。

「兄さんには笑われたよ。可愛いげがないって」

「プレゼントに可愛げって必要なんですか?」

「わからない。私もこの意見には賛同しかねると思ってたところ」

「同意です。ものってのはやっぱり必要か否か、実用的かどうかが一番重要ですよ」

 名前は「そうだよね」と笑って、カップを傾けた。小さな手はやっぱり爪まで小作りだ。海岸に埋まってる貝殻みたいだなとぼんやりと思う。

「フーゴはどうして日本語の勉強までしてるの?」

「仕事の一環ですよ。ほら、最近観光客も増えてるから。母国語がわかった方がいざって時迅速に対応できるし」

「そっか、……えらいね」

「いえ、そんな」

 名前の飾らない称賛に、ぼくはコーヒーへと逃げる。カップに手をかけ、ごくりと嚥下。そうするとアルコールが胃を焼いてぼくに冷静さを取り戻してくれる。
 すると遠ざかっていた景色も正しく配置につき、周りのことに目がいった。つまりは他のテーブルにつく人々のことを。眺め渡し──ふと、一人の男と目が合う。

「…………?」

 ぼくは眉根を寄せた。なんだか嫌な感じだ。男はすぐに目を逸らしたけど、意識がこちらに向いたままなのは何となく伝わってきた。いったい連れの女と何を耳打ちし合っているんだか。
 そういえば、男の方はどこか見覚えがあるような──

「どうかした?」

「いえ、」

 問いかけに答えながら、ぼくは耳をそばたてる。拾い上げた言葉、ぼくの名前、それがただの聞き間違えなのかどうか。
 ぼくは男たちを窺い見る。男が口を開く。ぼくは意識を集中させる。男が口端を上げる。
 そしてぼくは──息を呑んだ。

「そうだよ、絶対にやつだ。教授を百科事典でメッタ打ちにした──パンナコッタ・フーゴだよ」

 男の言葉が脳内で反響する。教授を百科事典でメッタ打ちにした──あぁ、そうさ、その通りだ!ぼくがやつを殴った!殴ってやったんだ、この手で!
 思い出す。鮮やかに甦る。記憶。床に倒れ伏した教授。頭は血にまみれている。壁にも血飛沫が舞っている。ぼくは教授を殴っている。教授は動かない。ぼくの手が教授を打ち据える。やっぱり教授は動かない。ぼくの手から百科事典が滑り落ちる。教授の体が跳ねる。それでもなおぼくの手は止まらない。意識からは離れたところでぼくは動いている。ぼくの怒りは収まらない。ぼくは拳を振り下ろす。何度も、何度も。そして教授は──

「……出よう、フーゴ」

 静かな声が落ちる。ぼくの周りに景色が戻ってくる。コーヒーの匂い、カップの触れ合う音、それから──ぼくを見つめる名前の真っ直ぐな瞳。それらを認識し、ぼくはようやく呼吸の仕方を思い出した。

「ですが、」

「いいから。ここを出よう」

 名前は有無を言わせぬ強い語調で言い切って、ぼくの手を掴んだ。
 そのまま引っ張られ、ぼくは名前の後に続いてバールを出る。去り際、流れていく景色の中に目を丸くする男女の姿があった。彼らはぼくらを──ぼくと名前を見て、また何やら言い合っていた。でも内容まではわからなかった。
 名前は通りを足早に抜けていく。ぼくはその手に引き摺られて歩いている。広場や教会がぼくらの後方に消えていく。名前は振り返らない。振り返らないまま、口を開く。

「私は、あなたが優しい人だって知ってる」

 名前が足を止める。どこかの広場の前、彼女は足を止め、ぼくを見た。

「知ってるよ、あなたが優しいこと。ううん、それしか知らないってだけかも。たぶんきっとそう。でも私にはそれで十分、十分な理由になるの」

 落ち着いた声音だった。激情とはほど遠く、言うなれば凪。鈍色の空のもと、眸だけが明るく澄み渡っている。その眩しさに呑まれかけ、けれどぼくは後ろめたさから目を伏せた。

「……けど、彼の言ったのは嘘じゃないんです」

 それを告げるには傷を負う覚悟が必要だった。彼女には知られたくなかった。ずっと、ずっと。──嘘を吐いていたのは他でもない、このぼくの方だったのだ。
 でも告白してしまうと何もかもがどうでもよくなった。どうせ過去は変えられない。人間の本質だって同じだ。ぼくはぼくで、他の何者にもなれやしない。
 それを実感し、ぼくは口角をつり上げた。

「本当なんですよ、何もかも。……ぼくは、優しくなんかない」

 吐き捨てる。と、ひやりとしたものが臓腑を焼いた。体の内側、芯の辺りが締めつけられるようだ。わけもなく泣きたくなる。そんな自分がおかしくて笑えた。

「フーゴは優しいよ」

 でも名前は笑わなかった。真剣なまま、目を逸らすこともなく。ぼくの手を握って、噛み締めるように言う。

「だって私は優しいあなたしか知らない、見たことない」

「それは隠してただけで、」

「でもだからって優しいのが嘘になるわけじゃないよ」

 ぼくの言葉を遮り、名前は続けた。

「あなたが私にくれたもの、それまで嘘にしないでほしい。それに……」
 
 風が吹く。雲が流れ、日が差し込む。周囲は俄に明るくなり、名前の膚も白々と焼かれる。憂いを帯びた陰影は晴れ、凛と佇む少女の姿が浮かび上がる。
 そして彼女は──微笑んだ。

「もしも本当のあなたがもっと怖い人だって言うなら。……その時にまた考えるよ。私も痛いのは嫌だし、別にそれからだって嫌いになるのは遅くないでしょ?」

 その笑みは灯火を抱く聖人だった。少なくともぼくにはそう思われた。かつて現れたという聖人の像に似ていると。ぼくには世界が色づいていくのさえ見ることができたのだ。
 ぼくは口を開いた。でも零れ出るのは意味をなさない溜め息だけだった。吐息といってもいい。ぼくには言うべきことが見つからなかった。ただ泣きたくなる理由だけはわかった。
 ぼくは名前の手を握った。今日初めて握り返した。ぼくより一回りも小さくて、か弱かった。折れてしまいそうなほど細くて、なのに彼女はぼくに応えてくれた。強く握り返してくれた。
 ぼくは「名前、」と囁いた。彼女の名前を呼んだ。彼女に何を言いたいのかまではまだわからない。でも次に言うべきこと、言わねばならないことは決まってた。
 ──ありがとう、と。

「すきです」

 そう言おうとしたぼくの口は、まったく別の言葉を紡いでいた。

「ぼくは、あなたのことが好きなんだ」

 口にして、ようやく得心がいった。

 ──あぁ、なんだ、そういうことだったのか。

 彼女の言葉に一喜一憂するのも、彼女の前では取り繕うのに必死だったのも、何もかもそれで説明がつく。

 ──ぼくは、名前が好きだ。

 ぼくにとっての彼女が特別な意味を持つように、ぼくもまた彼女の特別になりたいと思う。
 理解すると、途端に視界が開けた。ぼくは驚きに目を見開いている名前に笑みかけた。清々しい気持ちだった。ぼくはやっと自分というものを見つけられたのだと思った。
 名前は言葉を失っていた。無理もない。ぼくの行動はあまりに唐突だった。そのことに気づき、羞恥が頬までかけ上る。
 ぼくはもう一度呼びかけた。「名前、」と。声をかけると、名前はびくりと肩を揺らした。過剰なほどの反応を示し、そして──ぐしゃりと顔を歪めた。

「……ごめん、」

 最初彼女が何を言ったのかわからなかった。ぼくは固まったまま、名前を見つめた。名前はもうぼくを見ていなかった。彼女は目を落とし、「ごめんなさい」と繰り返した。

「ごめんなさい、フーゴ、ごめんなさい」

 そんなつもりじゃなかったのに──。
 そう言った名前の方がぼくよりずっと泣きそうな顔をしていた。