それは呪い


名有りのオリキャラが出てきます。実際の人物から名前をお借りしていますが一切関係ありません。





 ロンドンにおける名字家の屋敷タウンハウスはピカデリーとオックスフォード・ストリートの間、メイフェア地区にあった。
 その屋敷の一番日当たりのいい部屋で名前は朝を迎える。天蓋キャノピーつきのベッドから身を起こし、メイドからガウンを受け取る。それを羽織って、バルコニーのドアを開けた。いつものように。

「今日もロンドンは曇り空ね。いつものことだけど……でも気が滅入るわ」

 呟くと、黒髪のメイドが紅茶を入れながら答える。

「それではおやめになりますか?」

「あら、何か予定があったかしら」

「本日はロトン・ロウへ、エドワード・ウッドさまからのお誘いのご予定がございます」

 淡々と今日の予定を読み上げるメイドからティーカップを受け取り、紅茶を口に含む。
 エドワード・ウッド、伯爵家に生まれた青年だ。家格は些か劣るが博識で、それに真面目な印象を受けた。だから名前も誘いを受けたのだ。
 でも「そうだったわね」と答える声は自分でも驚くほど気のないものだった。そう、例えるなら下世話なゴシップを聞かされた時のように。答えてしまってから、沈黙するメイドに気づく。表情が変わらないのが彼女の常ではあったが、その目は微かに曇っていた。

「嫌なわけじゃないわ、無理もしてない。大丈夫よ」

 一介のメイドが主の決定に逆らうなどできるはずもない。それはこの冷静なメイドにとっても例外ではなく、何事か言いたげな顔のまま、しかし「はい」と顎を引いた。
 よくできたメイドだ──名前は自分より一回りほど年上の彼女が好きだった。彼女の父もまた名字家に仕える使用人であり、父娘ともども名前の世話をしてきた。名前にとって、実の両親よりも二人と過ごした記憶の方が多いくらいだ。
 だからそんな彼女たちのためにも名前は『相応しい』結婚をしなくてはならない。相応しい──それは階級であり教養であり容姿である──男性との結婚。覚悟はとうにできている。覚悟を決めて、社交期シーズンを迎えた。

 そのつもり、だったのに──

「ねぇ、今日の日刊新聞タイムズを見せてもらえる?」

 ──懐かしい夢を見てしまったせいだ。

 無意識のうちに思い浮かべてしまった青年の横顔。それを振り払うため、名前はメイドへ笑みを向けた。
 通常、女性がゴシップ誌以外を読むのは眉をひそめられる行為だ。でも名前にとっては毎朝の習慣のひとつで、メイドもまた慣れた様子で名前に新聞を渡した。
 その上何もかも見透かしてるって目で「そしてこちらが今週の警察官報ポリス・ガゼットです」と犯罪の記録が掲載される新聞まで用意してくれていた。

「ありがとう。さすがね、あなたは」

「いいえ、当然のことです」

 名前は空になったティーカップを置き、紙面にざっと目を通した。
 国を襲う不況、欧州各国との対立……重苦しい話題ばかりだ。警察官報も同様、九月に起きた殺人事件の被害者すらまだはっきりとしたことはわかっていないし、切り裂きジャック事件は未解決のまま海外にまで知れ渡ってしまっている。
 名前は嘆息し、頬に落ちる髪を耳にかけた。

「お父さまはどうお考えなのかしら」

「……名前さま、」

 独り言に答えたのは窘める響きだった。
 名前は顔を上げて微笑んだ。「大丈夫よ、」装うことには慣れている。ドレスを纏うのと同じだ。今は絹のナイトドレス、濁りのない白色、そこにあるのはほんの僅かな隔たりである。

「大丈夫、……わたくしは名字家を背負っているんですもの」

 でも父の意見を聞いてみたいと思ったのは事実だった。

 お父さまはどのように考えているのかしら?お父さまは、──ディエゴは。

 でももう幼馴染みとは気軽に会うこともできない。タウンハウスでだって、カントリーハウスでだって。あの懐かしい城に帰ったって、彼はもういないのだ。

「支度をするわ、用意をお願い」

「かしこまりました」

 名前はメイドに続いて、寝室と続き部屋スイートになっている更衣室ドレッシング・ルームへ向かう。
 その途中、鏡に映る自分の姿に一瞥をくれた。丸く大きな瞳に流れるがままの髪。その飾り気のない顔が幼い頃の自分と重なった。重なり、一瞬だけ時間が巻き戻る錯覚を覚えた。野原を駆ける子供たちの影さえ見えたのだ。ささやかであったけれど尊い──忘れがたいほど愛おしい記憶が。

「名前さま?」

「──いいえ、今行くわ」

 名前は髪を後ろへ払った。
 更衣室には他に二人のメイドが待っていた。名前の前にはなめらかな天鵞絨ビロードのアフタヌーン・ドレスがあった。
 名前は前を向いた。鏡の中の自分を真っ直ぐ見据えた。名字家の娘、侯爵家の未来を担うもの。それが『わたくし』なのだと唇を引き結んだ。





 伯爵家の舞踏会は夜の八時に始まった。そしてその一部が終わる頃──つまりは既婚者たちの退場する十一時頃──名前は今夜のパートナーであるエドワード・ウッドと共に図書室を訪れていた。

「やはりわたくしは『赤き死の仮面』が印象的ですわ。何て言うのかしら、美しいのに恐ろしくて、嫌な感覚があるのに抗いがたい……ただの恐怖小説で終わらないのが魅力なのではないかしら」

「わかります。視覚的、聴覚的に鋭く訴えかけてくる文章、そしてテンポよく畳み掛けてくる作り……最高傑作のひとつだとわたしも思いますよ」

「光栄だわ、エドワードさまと同じ意見だなんて」

 名前はくつろいだ笑みを浮かべた。エドワードは秀才と名高く、近く下院議員になるのではと噂されるほどの男である。いずれは父と同じ貴族院に属することになるであろう。
 名前が尊敬の眼差しを向けると、エドワードは照れ臭そうに俯いた。まるで少年のようだ。気取らないところも好ましい。伝統ある伯爵家の一員であるし、彼ならば侯爵も認めるだろう。事実彼とロトン・ロウを
散歩しても何も言わなかったし、今夜の舞踏会のためにと新しいドレスだけでなく下着ペチコートから作らせたくらいだ。

「わたしこそ嬉しいです、レイディ・名字──あなたがわたしのつまらない話をこんなにも熱心に聞いてくれるなんて……」

「まぁ、ご自分を卑下なさるのはよくないわ。わたくしこそ──淑女らしくないと顔を顰められる覚悟をしておりましたのに」

 女が文字の多い小説を読むだけで『いかがなものか』と言われる世の中、目を輝かせてくれるエドワードはどんなに心が広いのだろう!

 名前は心から安堵し、打ち明けてよかったと息を吐いた。本当のことなんて絶対誰にも話せっこない、そう思っていた。小説のことだって、新聞のことだって、──政治のことだって。
 名前は胸元で手を握った。胸がさざめくのは緊張のためだけだろうか?

「わたくし、他にもお話ししたいことが沢山ありますの」

「……ぼくもです」

 室内にあるのは最低限の灯りだけだ。多くの者が広間サルーンか或いはテーブルの用意された庭にいることだろう。楽団の音色が微かに聴こえるが、それもどこか遠い世界のもの。そして書斎には二人分の息遣いしかなかった。
 窓の向こうで雲が流れた。青白い月光が差し込み、強張った青年貴族の表情が露になった。熱っぽい瞳が名前に近づいた。名前には彼の双眸しか目に入らなかった。それなのに名前は目を閉じることができなかった。

 ──わたくしはこの方と結婚するのだわ。

 唐突にそんな確信を抱く。
 この人を夫として迎えたならきっと幸福な日々が待っているのだろう。ロンドンと領地を行き来する生活。政治家として精力的に働く夫を支える妻。そして近い将来伝統ある貴族の血を引く子供を産み、育て、やがてはその子が父の爵位を継ぐ。そんな貴族としての責務もわたくしには容易く果たすことができるのだ、と。
 
 ──そうだわ、わたくしならそれが叶えられる。父の望みも母の願いもわたくしは叶えてあげられる。

 なんの感慨もなく名前はそう思った。思ってから、心が急速に冷えていくのを感じた。

 あぁ、それはなんと退屈な生活だろう──

「……ごめんなさい。わたくし、まだこういうことは、」

 名前はそっと目を伏せ、僅かに顔を俯かせた。
 震える声は意図したものではない。だからエドワードもすっかり信じきって、申し訳なさそうに眉を下げた。

「いいえ、こちらこそ性急すぎました。すみません、どうも空気にあてられたようです」

 途端、胸に沸き上がるのは罪悪感。彼が善良であればあるほど名前の胸は痛む。欲にまみれた己が醜く思えてならない。
 でもどうしたって考えてしまう。今この時も心の片隅には幼馴染みの彼がいる。目の前ではにかむ青年ではなく、冷ややかな笑みを寄越す『彼』のことを思ってしまう。
 『彼』だったらこんな気の利かない台詞は選ばない。『あなたに酔っているせいだ』とかなんとか言って、女をいい気分にさせるはずだ。そう、『彼』──ディエゴなら。

「そろそろ広間に戻りましょうか」

「ええ、そうですわね」

 差し出された手を取り、名前は立ち上がる。

「どうかなさいましたか?」

「いえ、……」

 刹那、視線を感じて振り返る。が、目を凝らしても闇に浮かび上がるものはない。気のせいだったか、と居並ぶ書棚に背を向け、名前は努めて穏やかな微笑を浮かべた。

「なんでもありませんわ、エドワードさま」

 一瞬黄金色が視界の隅で揺れた気がしたけれど、それだってきっと未練に過ぎないだろう。
 過去の幻影を振り払い、名前は眩しい照明の元に歩みを進めた。

 ──ディエゴ・ブランドーの妻が亡くなったという報が紙面に踊ったのは、それからおよそ四ヶ月後のことである。