ミスタ√【自宅デート】


完結後設定。
二人が観てる映画はパルプフィクションです。





 朝目覚めて一番に感じるのは頬に当たるシーツと外気の冷たさだった。
 冬は嫌いだ、とミスタは夢うつつに思う。だってこんなにも起きるのが億劫だ。クリスマスや正月の賑わいは好きだが、一日中重たい曇り空だということもままあることで、それだけで憂鬱な気持ちにさせられる。だからちょっとくらい怠惰に過ごしたって神様もお許しになるだろう。

 ──けれどミスタの恋人は神様ほど寛容じゃない。

「おはようミスタ!カフェが入ったわよ、さぁ起きて起きて!」

 寝室に入ってきた名前の声は溌剌そのもの。空模様が灰色なことなんてちっとも気にしちゃいない。眩しくて、心地いい。
 ミスタは喉の奥で唸った。「今日は閉店だ、閉店」ひらりと手だけ布団から出して、籠城を決め込む。すると名前は予想通り「もー!」と不満の声を上げ、ベッドに近づいた。

「ほんっとうに寝起きが悪いんだから!」

 きっと名前は頬を膨らませているんだろう。布団の中でミスタは口角を上げた。澄ました顔をしている名前は格別に美しいが、子供っぽく感情を露にしている方が好きだった。
 ミスタには見なくてもわかった。名前が次にどんな行動を取るか、なんて。手に取るようにわかっていたから、息を潜めて待った。名前がベッドの脇に立ち、布団に手をかけるのを。それを捲り上げようと力を入れるのを。

「きゃ…っ」

 その一瞬、生まれた隙を待ってミスタは素早く名前の手首を掴んだ。
 あとはあっという間だった。ミスタは名前の上にいて、名前はベッドに転がっていた。手首は掌で簡単に押さえつけられるほど細く、ぱちりと瞬く両目は何が起こったかわからないといった風だった。ミスタの恋人はあまりに無防備だったのだ。
 だからつまり──仕方のないことなのだ、と誰にともなく言い訳した。

「何なの、抵抗ばっかりして。そんなに元気ならベッドから出られるんじゃあなくて?」

「やだよ、さみーもん」

「可愛く言ってもダメ、…って、ちょっと、」

 首筋に鼻先を擦り付けると少しだけ甘い匂いがした。
 名前の体は温かかった。抱き締めているだけで充足感を覚えた。なのにつれない名前は「もう!」とミスタの額を指で弾いた。

「せっかく淹れたコーヒーが冷めちゃう!」

「オレとコーヒーどっちが大事なんだよ」

「私の淹れたコーヒーを粗末にするような人はキライ」

「……なるほどね」

 そう来ますか。
 諦めて拘束を解くと、名前はあっさりベッドを抜け出した。その横顔にはなんの未練も残っていない。それが悲しいやら寂しいやらでミスタは溜め息を吐く。

 ──すると。

「いつまでそうしてるの、寝坊助さん」

 さらりと落ちた髪が鼻先を掠める。甘い香りが俄に立ち上る。柔らかな温もりが、頬に触れる。
 ミスタは目を瞬かせた。未だベッドに座り込むのとは対照的に、名前はもう踵を返している。目で追いかけてもきれいに結い上げられた眩しい項しか見えない。まるで先刻感じたものが夢だったとでも言うみたいに。

「早く来てくれないとホントに冷めちゃうわよ」

 ドアに手をかけ、名前は振り返る。ミスタの頬に触れたばかりの唇が悪戯っぽく弧を描く。その紅色が目に焼きついて、離れない。

「あー……」

 軽やかな足音が駆けていく。それを横目にミスタは天を仰ぐ。

「敵わねえなぁ……」

 先に惚れた方が負けとはよく言ったものだ。
 痛感し、ミスタも寝室を出る。恋人の後を追って。





 居間に足を踏み入れると、途端に銃声が耳を貫いた。

「オイオイ、朝からまぁ物騒なもんを」

 とはいえそれはフィクションの話。テレビから流れる音であって、現実のものではない。だが朝食のお供に適しているかといえば甚だ疑問。
 まぁそれは一般的に考えればという話であり、ミスタ個人としては自分が好きなものを恋人も同じように好んでいることが仄かな喜びを掻き立てた。

「だって何回観ても面白いんだもの」

「お前って顔に似合わねー趣味してるよな」

「ん?それってどういう意味?」

 カップにコーヒーを注ぎながら首を傾げる名前。その表情はまさしくいたいけな少女といったところ。とろりとした金糸が揺れ、冷えた印象を与える瞳に甘みを添える。大人びているようで子供のように無邪気、相反するものが反発することなく内在している。
 ミスタは笑った。「褒めてるんだよ」本当に、心からそう思う。

「ふうん?」

 名前は疑わしげな声を洩らし、でもそれ以上の追及はしなかった。その代わりにソファに座ったミスタへとコーヒーの入ったカップを差し出す。

「グラツィエ、可愛いひとピッコラ

どういたしましてプレーゴ、愛しいひと」

 「でもコーヒーだけってのはやっぱり感心しないわ」と名前は頬を膨らます。「せめて目玉焼きとかハムとかくらいは食べないと」熱心に勧める名前はやっぱりこの国の人間らしくない。日本人の血がそうするのだろうか。でも彼女の思想はイギリス人かゲルマン系と似ている。
 そう考えると、今ここに名前がいることがなんだかすごく不思議なことのように思えてくる。ちょっとの掛け違いで出会うことすらなかったのではないだろうか。

「それかシリアルね、手っ取り早いしお腹にも溜まるし……ねぇミスタ?聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。努力するよ、名前が作ってくれるって言うんならな」

「それって本当?」

 覗き込まれ、咄嗟に目を逸らす。「まぁ、ウン……」今言ったのに嘘はない。嘘はないけど、吸い込まれそうに澄んだ目に見つめられると求愛の語も喉につっかえてしまう。

 そんなの、昔なら考えられなかったのに。

 曖昧にミスタが頷くと、名前はパッと顔を華やがせた。そしてその勢いのままにミスタの首に抱き着いてくる。

「なら頑張るわ!ちょっとずつ…でもいつかはきっと健康的な食生活に変えてみせる!」

「そりゃあまぁ心強いことで」

 擦り寄る名前を抱き寄せ、膝の間に座らせる。そうしても名前は抵抗しない。大人しく力を抜き、ミスタの腹に背を預ける。
 テレビの中では麻薬の売人の家から広々とした白い屋敷に場面が変わっていた。第二章、ギャングの主人公がボスの妻と食事に出掛けるところである。

「やっぱりミアってステキよね、憧れちゃうわ」

 そう呟いた名前の目は画面に釘付けである。もう何度となく観たであろうにも関わらず、だ。だからこそその台詞にも説得力があった。
 ミスタは視線を恋人から画面の中の女優へと移した。即ち、作中においてはボスの妻である女を。

「……お前もボスの嫁になりたかったのか?」

「バカね、そういうんじゃないわ」

 名前は笑った。そこに濁りはひとつもなかった。
 ミスタは「なんだ、違ったか」と答えた。別に本心から疑ったわけじゃない。でも少しだけホッとした。名前はジョルノを特別に思っている。ナランチャへのそれやミスタへのものとはまた違うが、彼女にとってジョルノという存在は何か特別な意味を持っていた。
 そしてそれはきっとジョルノにとっても同じだろう。二人には二人の間にだけ通じる何かがあった。少なくともミスタには感じ取ることのできる、何かが。

「ミアってほら、美人でしょう?無邪気で奔放で……」

「あー…、まぁな」

「でも憎めないのよね、不思議と目が離せない……。どんな無茶だって許してあげたくなっちゃう。そういうのってどうしてかしら?」

 名前は溜め息を吐いたらしかった。彼女の白い指がブロンドの毛先を弄っている。ミスタのとは全く違う、ジョルノのよりも淡い色の髪を。それを眺めやりながら、名前は嘆く。

「ああいう髪型って私似合わないのよね。あーあ、残念」

「そうか?」

「そうよ、きっとあなたもがっかりするわ」

 ミスタは改めて名前が憧れる人に目を向けた。飾り気のない白いシャツに黒のパンツ姿の女性。肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪と真っ赤な唇。どことなく憂いを帯びた眼差しは、かと思えば屈託なく笑ったりもする。そんな彼女は短い出演時間にも関わらず鮮烈な印象を視聴者に与えた。

「……結構似てるとこあると思うけどな」

 ポツリと呟くと、名前は「ホント!?」とミスタを振り仰ぐ。

「どのへん?どんなところが似てるって思うの?」

「んー……」

 腕の中の恋人は黒髪ではないし、口を開くと色っぽさより愛らしさが際立つ。

「危なっかしいところとか?」

「なにそれ!私そんなに無茶しないわよ!」

 でも不思議と目が離せないって点においては同じだとミスタは思うのだ。

「ねぇねぇミスタ、」

「ん?」

「それじゃあ私がやっぱりボスの妻がいいって言ったら、あなたどうする?」

 甘えるように見上げてくる恋人の頭を撫でてやる。そうしながらミスタは『もしも』に思いを馳せた。もしも自分の愛する女が自分の守るべきボスを天秤にかけるよう迫ったならば。

「……ジョルノに頭下げるっきゃないな、一日だけでいいからやらせてくれって」

 考えた末にそう答えると、名前は声を立てて笑った。

「想像するとあんまり格好いいとは言えないわね」

「仕方ねーだろ、オレはこのポジションが気に入ってるんだから」

「そうね、私もそう思う」

 名前は笑うのをやめ、ふと真面目な顔をつくる。そして首を伸ばし、紅い唇をミスタの頬へ。音を立てて触れ、離れ──瞳を蕩けさせた。

「でもそんなあなたが好き。私と同じものを大切にしてくれるあなたが」

「……オレもだよ」

 ミスタは答え、今度は頬ではなく唇に触れた。甘くて苦くて、でもクセになる感覚だった。