Absent in the Spring


 イングランド北東部にある名字家のカントリー・ハウス。長閑な印象の強い屋敷だが、主である侯爵夫人が亡くなって以来ひっそりと静まり返っている。
 ディエゴはルネサンス風の屋敷を見上げた。昼間にも関わらず、窓には重たいカーテンが引かれている。喪に服しているのは人間だけではないのだ。死者の眠りを妨げぬよう、庭園に伸びる歩道には藁がしっかりと敷き詰められていた。

 ──生前の侯爵夫人こそが口喧しいたちであったのに。

 亡くなった今は嘘みたいに静かだ。夫人が散々ヒステリーを起こしていた過去も亡骸と一緒に埋葬されるのか、とディエゴはぼんやりと思う。
 死人に口なし。侯爵としては願ったりかなったりというわけだ。自分の疵ともなりかねない夫人を、侯爵は内心で疎ましく思っていた。だからこうして悲しみに暮れる様すら芝居がかって見えて、ディエゴは笑みを殺した。

 ──この家は、もう手遅れだ。

 名字家から引き出せるものは十分にいただいた。お陰でディエゴは男爵家の養子に迎え入れられたし、騎手としての道も保証されている。こうして屋敷を訪ったのも世間一般の常識に従っただけだ。やたらと死者に敬意を表したがるこの国の伝統をディエゴは馬鹿馬鹿しいと思っているが、しかし貴族社会でのし上がっていくためにはこれも必要なことだと理解していた。

 そうだ、だから深い意味なんてない──

 ディエゴは頭を振った。
 遺体への挨拶は済んだ。最低限の礼儀は果たした。これ以上やるべきこともない。
 けれどディエゴの足は自然と動いていた。慣れ親しんだ散歩道へ、そしてその先にある立派な廐舎ステイブルへと向かった。
 近づくにつれ鼻につくのは油と草と獣の臭い。そして耳が捉えるのは馬のいななき、従僕たちの声、それから──

「ふふ、今日はずいぶんと機嫌がいいのね」

 茂みを抜け、開ける視界。小さな館ほどの大きさもある廐舎の前には柵で囲われた芝生があって、その中には何頭かの馬が思い思いに過ごしていた。栗色に青毛に鹿毛……皆毛並みよく、陽の元では輝いて見えた。
 けれどディエゴの目を奪ったのはそのいずれでもなかった。

「あら、ディエゴ──」

 それは艶やかな黄金色──自分と同じ、しかし自分とは決して交じり合わない澄んだ色。聖女と讃えられる瞳がディエゴを射抜いた。

「やあ、名前。久しぶり」

 名字家の一人娘は伝統に従い、光沢のない黒のドレスを身に纏っていた。首元までしっかり詰まった絹の喪服。でもそうしていたって搨キろうたけた美貌を隠すことはできない。事実それまで彼女の隣にいた年若い従僕は、ディエゴの姿を認めると頬を染め、慌てて目を伏せた。
 末恐ろしい娘だとディエゴも思う。彼女はディエゴの二つ下、まだ社交界にも出ていない子どもだ。けれど既に他者を支配する術を知っている。
 そんな彼女だからこそ屈服させるに値するのだ。

「ご挨拶に来てくださったの?」

「ああ、世話になったからな」

「ありがとう、嬉しいわ」

 名前が一瞥をやると従僕たちは頭を下げて廐舎へと引き上げていった。
 残ったのはディエゴと彼女の愛馬である《隠者号ハーミット》だけだ。相変わらず見事な毛づや、体躯である。その首を撫でていた手を止め、名前はディエゴに微笑んだ。礼儀正しく気品に溢れた所作だった。その指先に至るまで貴族の血が染みついていた。
 ディエゴは柔和な笑みを浮かべた。

「しかし君も大変だな。これから……本格的に忙しくなるだろう?」

「そうね、きっと皆さんお忙しくなることでしょうね」

 名前は少し困ったように眉を下げる。
 名字家の子どもは名前しかいない。夫人が病弱だったから一人しか産むことが叶わなかったのだ。だが期待の元産まれたのは女で、夫人は酷く落胆したらしい。お陰で夫人が娘に目を向けることは殆どなく、死の床にあっても呼んだのは夫の名前だけだったと聞く。夫人にとっては自分の血を引く子どもが家を継ぐことだけが願いだったのだろう。
 だからこれから彼女の元には数多の求婚者たちが集うはずだ。客観的に見て彼女ほど好条件の令嬢はなかなかいない。血統、資産、教養、容姿──彼女が社交界の華として君臨するのはほぼ確実だ。

 その上もしも侯爵までもがこの世を去ったならば──

「だから私、ひとつ難題を出したの」

 名前は口許に人差し指を立てた。その持ち上げられた口角は悪戯っぽく、令嬢らしい気品は残したまま無邪気さを露にした。
 ディエゴは思考の海から上がり、侯爵令嬢に付き合ってやることにした。「難題?」そう首を傾げてみせると、それだけで名前は楽しそうに「ええ」と顎を引いた。

「ほら、知っての通り我が家とこの子たちは切っても切れない縁があるでしょう?『ですからわたくしも《隠者号》と仲良くしてくださる方じゃないと』って」

「……なるほど、それはなかなかの難題だ」

 《隠者号》──話題に上った栗毛の馬は知らん顔。荒い気性はなりを潜め、侯爵令嬢の頬を舐め回している。名前も名前でされるがまま。くすくすと笑って、馬に口づけをした。
 ずいぶん安い接吻だ、とディエゴは呆れた。乗馬は貴族の嗜みだが、普通はここまでしない。貴族の子息たちが挙って熱望する口づけが馬には安売りされているのがなんだかいやに面白く感じられた。

「だがそれなら──」

 ──それなら、オレは合格ってことか。

「どうかした?」

「……いや、婚期を逃しそうだと思ってな」

「ふふ、そんなことになったらとんだお笑い草ね」

 名前は肩を竦めた。その口ぶりはあくまで冗談、本当にそうなるわけがないと彼女は確信していた。彼女なら社交界に出て一年、或いは二年で相応しい相手を見つけることだろう。名前本人が望もうと望まざろうと──社会はそのようにできているのだ。

 でももし、もしもそれまでにオレが──

「それより気がかりはお母さまの方。……心配だわ、おひとりで寂しくしてらっしゃらないか」

「それは気にする必要ないだろ」

 物憂げに目を伏せる名前に素早く否定の語を吐いてしまって、それからディエゴは『しまった』と内心で顔を顰める。
 「どうして?」そう問い返す名前の目には曇りひとつない。
 別にこいつが泣こうが喚こうがオレにはどうだっていいことだ。そうディエゴは思うのに、彼女の母親を非難する言葉は喉元でつっかえて止まった。
 夫人はひとりが寂しかったわけじゃない。侯爵夫人という立場に縋りついていただけだ。娘に冷たくしたのも同じ。息子を産めなかったから癇癪を起こしていた。だから亡くなった後だってそんな可愛らしいことは考えていないだろう。
 でもそんなことは言えなかった。

「……そりゃあ天国に行けるからさ。悲しいことなんかあるわけない。それに……」

「それに?」

「……天国にはオレの母もいる。だからひとりじゃない」

「ディエゴのお母さま……」

 ディエゴは名前から目を逸らし、《隠者号》を眺めながら言った。
 こんな言葉になんの慰めがあるだろう。ディエゴは天国なんかに価値を見出だしていない。この世で必要なのは金と権力だ。この社会の頂点に立つ。何もかもをこの足の下に這いつくばらせる。それだけだ。

 それだけがオレの望みなんだ──

「……そうね、きっと…あなたがそう言うのだから……とても素敵な方なのでしょうね」

 気休めに、しかし名前はホッと表情を緩めた。名前の口許は穏やかな微笑を湛え、ディエゴを見つめていた。その表情は先刻愛馬に向けていたものと似ているようで、でもどこか違う。

「私、ここからお願いするわ。あなたのお母さまに……どうか母をお願いしますって、」

 名前は手を組んで祈りを捧げた。空へ、天へ向けて。
 長い睫毛が震え、目許に淡い影が落ちる。白い輪郭はなだらかな稜線を描き、果実のような唇がか細い息を吐いている。

「ありがとう、ディエゴ」

「いや、……」

 やがて顔を上げた名前はディエゴを真っ直ぐに見上げた。
 名前は美しかった。飾り気のない喪服すらも白い膚を引き立てていた。礼の仕草、それひとつとっても洗練されていた。生まれながらの貴族にしか持ち得ない、高貴なる輝きだった。僅かに傾けられた首さえも愛らしさを感じずにはいられなかった。
 ディエゴは落ち着かない気持ちで視線を落とした。
 美しい女などこの世界には溢れている。そんなものに価値はない。何もかもを手にするこの女を屈服させるのだ。そのために近づいたのだ。ディエゴは己に言い聞かせた。言い聞かせること、それ自体が既に引き返せないところに来ている証であるのには目を逸らして。

「ねぇディエゴ、あなたはわたくしのお葬式にも来てくださる?」

 そんなディエゴには気づかず、名前はねだるように上目で見た。甘い匂いがして、ディエゴは誘われるように少女の頬に手を伸ばした。

「なに縁起でもないことを言ってるんだ。まだまだ先の話だろう」

「そうね、でも……」

 名前はディエゴの手に自身のそれを重ねた。浮かべた笑みはどこか痛々しく、それでもなお美しかった。

「きっと会いに来てね、約束よ」


 ──そう言ったのは、名前の方だったのに。


「クソ……ッ!」

 二人が去った後、書斎でディエゴはひとり歯噛みした。苛立ちから書棚を殴りつけるがそれでも気は収まらない。先刻見た光景が、頭から離れない。
 ディエゴは伯爵家の舞踏会に来ていた。名前もまた、伯爵家の息子、エドワードのパートナーとしてカドリールを踊った。二人は見つめ合い、笑みを交わした。踊る以上にその距離は親しげなものだった。ディエゴはそれを遠くから見ていた。その時手に取っていた女の顔も今では思い出せなかった。
 エドワードと名前は一部の終わりに広間を出ていった。ディエゴもまた休憩したいと思っていたところだった。別に行き先はバルコニーでも庭園でもよかった。ただ静かなところがいいと思って、それが偶然二人と被ってしまった。それだけだ。それだけだったが、ディエゴは二人から見えないよう書棚の影で息を潜めた。なんで自分がこんなことをしなくちゃいけないんだ、そんな苛立ちは唇を噛むことで堪えた。
 二人の会話は色気のひとつもないものだった。児童の労働環境の是正だとか植民地における支配のあり方だとか、そんなことを舞踏会の夜にバカ真面目な様子で語り合っていた。とても睦言などが交わされる気配はない。ディエゴはホッとして、何をバカなと苦笑した。
 どうしてこのオレが気にする必要がある?名前が誰と結婚しようと関係のない話だ──。

「わたくし、他にもお話ししたいことが沢山ありますの」

「……ぼくもです」

 しかし目を離すことはできなかった。
 ふと沈黙が落ち、二人の姿が青白い月明かりに浮かんだ。熱っぽい息遣いまでもが耳についた。名前は動かなかった。逃げることもなかった。ディエゴが『何をしているんだ』と苛立っても、彼女たちには伝わらなかった。
 ディエゴは思わず身を乗り出した。書棚を掴む手が痛かった。爪が割れる音がした。大きく息を吸って、足を踏み出しかけた。

「……ごめんなさい。わたくし、まだこういうことは、」

「いいえ、こちらこそ性急すぎました。すみません、どうも空気にあてられたようです」

 しかしディエゴが行動を移すより先に名前は顔を俯かせた。エドワードも謝り、広間へ戻ろうと手を差し出した。その時ディエゴが感じたのは怒りであり、失望だった。一瞬生まれた安堵はたちまちにかき消えた。

「オレは頂点に立つ男だ」

 割れた爪を噛み切り、吐き捨てる。
 猶予があると思っていたのが間違いだった。最早時間はない。だが後は実行に移すだけだ。

「名前、お前は必ず手に入れる」

 それは彼女の持つ地位のためであり、議員の席を持つがためであった。それ以外の理由などなかった。彼女と出会った最初から、今までずっと。そしてこれからも変わりはない。
 優位に立つのはこのオレなのだ、とディエゴは口角を釣り上げた。