仮面越しの恋人


 名前は緊張した面持ちで幼馴染みの──元は彼の妻の持ち物であった──屋敷を訪れた。
 婦人の葬儀からは一週間ほど経ったある日のことだ。時刻は午後の三時を少し過ぎた頃だった。曇り空ではあったがまだ日は高い。けれど屋敷中のブラインドはすっかり下ろされ、時計の針だけが耳についた。
 名前を客間まで案内するのは喪服姿のメイドだった。彼女が現れた時名前は内心で身構えたが、箱馬車からひとり降りた名前に彼女が何を言うこともなかった。当然といえば当然だ。メイドにそんな権限はない。だが後ろめたさを感じている名前にはメイドの視線すらも気にかかった。
 でも仕方のないことなのよ──名前は言い訳をしたくて堪らなかった。仕方がなかったの、だってディエゴが一人で来るようにと言ったんだもの──名前は貰ったばかりの文を思い出していた。そこにはディエゴの署名と一緒に名前一人で屋敷を訪れるようにと記されていた。続いて大事な話がある、とも。

「よく来てくれたな、名前」

 扉を開けると長椅子に座っていたディエゴが立ち上がった。彼もまた黒のスーツを身に纏っている。しかし口許に浮かぶのは笑みで、むしろ晴れ晴れとしているようにさえ思われた。
 名前は嫌な思考を振り払い、「お招きいただきありがとう」と手を差し出した。努めて微笑を浮かべて。握手は女性から求めるものであるという慣習に従うと、ディエゴもまた礼儀正しく「こちらこそ」と触れるだけに留めた。

「それから……今回のことは本当にお気の毒で、」

「ああ、いいさ、そんな形式ばった挨拶なんぞに興味はない」

 続けてお悔やみの言葉を述べようとしたが、遮ったのは他でもないディエゴだった。彼は自身の妻が亡くなったというのに『興味はない』と冷たく言い捨てた。そしてそれは名前の予感を確信に変えた。

「……あなたはこれでよかったの?」

 名前が暖炉の前の椅子に座ると、ワゴンを引いたメイドが部屋に入ってきた。やはり喪服姿のメイドたちはテーブルに三段重ねのケーキスタンドを置いた。それからティーセットを。終えると彼女たちは静かに退室していった。その間名前を見ることは一度もなかった。
 名前が訊ねると、ディエゴは「何が?」と片眉を持ち上げた。何を言っているのかさっぱりわからないって顔。しらばっくれる気だわ、と名前は思った。そしてそれが何より一番悲しかった。噂が真実であると認めるよりも、ずっと。『お前には関係のないことだ』と突き放される方がずっと悲しかった。

「みんな言ってるわ、あなたは財産しか見てないって」

 ディエゴ・ブランドーはそのために婦人と婚姻関係を結んだのだ。それは社交界では暗黙の了解であり、婦人が亡くなった今殆ど確信に変わっていた。むしろディエゴが直接手を加えたのではないかとさえ言われている。そして名前はそれを否定する材料を持たなかった。
 言外にそう含めてもディエゴの表情は変わらない。カップに紅茶を注ぎ、悠然と笑む。

「なるほど、君の言う『みんな』とやらはどうも見る目があるらしいな。……それで?」

「え?」

「それで?名前はどう思った?お前がどう思ったかの方がオレには重要だ。赤の他人の評価なんぞよりはな」

「わたくしは……」

 ディエゴはティーポットを差し向けた。注いでやる、と言いたいのだ。
 でも名前は首を振って、自分でカップに注いだ。彼から何かを与えられるのは気が引けた。昔はそんなこと考えもしなかったのに、なのに今はこんなにも遠い。
 名前は目を伏せた。カップの中で紅茶が波立った。それはさながら鏡であった。自身の心を映す鏡。揺れ動くそれから顔を上げ、名前は差し向かいに座るディエゴに笑みかけた。

「そうね、あなたって本当に酷い人だと思うわ。殴ってやりたいって思うほど」

「おお、怖い」

「でもわたくしは手を上げないわ。だってそんな資格ないのですもの。あの方は──あなたの奥さまは──本当に幸せそうだったから」

 暖炉の上には幾つかの写真立てが並べられていた。写っているのは生前の婦人であり、彼女より早くこの世を去った夫の顔だった。いずれも穏やかな表情であり、幸福な一時が切り取られていた。
 その中にはディエゴとの写真もあったのだろう。そして傍らにいる婦人もやはり若かりし日と同じ満ち足りた笑みを浮かべているはずだ。ディエゴもきっとそんな彼女に応えるべく同じような顔をしているに違いない。
 名前は一度目を閉じた。

 ──大丈夫、わたくしは冷静だわ。

 微かに胸が痛むのは彼が幼馴染みであったから、ただそれだけ。彼の存在を遠く感じ、子供のように寂しく思っているだけ──だから、平気だ。ディエゴが誰の手を取ったって、『わたくし』には関係のないこと。婦人が幸福だったのなら、それを歓迎するだけだ。
 名前はディエゴを見据えた。そうすると彼の背後にある写真はぼやけた。お陰ではっきりと言葉を紡ぐことができる。

「例え財産目当てだったとしても、それでもあなた以外にあの方のお心を満たせる人はいなかった。……だからわたくしにはあなたを非難することはできません」

「ふうん?」

 ディエゴは鼻を鳴らした。興味がないというより不満げだった。『殴ってやりたい』と言った時の方がよほど楽しげだった。
 彼はカップの中身を飲み干した。でもケーキスタンドには手をつけなかった。
 銀の皿には焼き菓子とサンドイッチが置かれていた。名前はそれを作った人のことと、自分のウエストのことを考えた。考えた末に溜め息を吐き、スコーンに手を伸ばした。

「でもわからないわ、あなたが何を考えているのか、これからどうしたいのか」

「なんだ、それこそずっと簡単だぜ」

 名前はスコーンにクロテッド・クリームを控えめに塗った。
 気掛かりは帰宅した後のこと。名前のレディーズメイドは僅かな体型の変化すら見逃さないのだ。 名前は彼女のことがとても好きだったけれど、コルセットを外した時のことを思うと憂鬱になった。
 そんな具合に意識が逸れていたものだから、ディエゴが口角を歪めたのに気づかなかった。

「オレの目的はただひとつだ、名前。お前をオレの妻にする──これはそのための足掛かりに過ぎない」

 ディエゴは名前を真っ直ぐ見つめていた。悠然と足を組み、薄らとした笑みを刷いて。冷ややかな声で──なのに眼差しだけは熱く──その蠱惑的な瞳の中に名前を捕らえた。

「何を──何を言っているの?」

 名前はディエゴを凝視した。スコーンは指から零れ落ちていた。辺りは凍りつき、冷え冷えとした静寂が広がっていた。ただでさえ社交期シーズンの過ぎたロンドン一等地は眠ったように静かだというのに、今は空気さえ張りつめていた。

「今日呼んだのもそういうわけだ。喪があけたらオレはお前に求婚する。せいぜいそれまでに覚悟を決めとくんだな」

「待って、どうして──どうしてなの?これ以上何を望むというの?あなたはもう十分に手にしたじゃない」

「いいや、まだだ。こんなもんじゃあまだ足りない。オレはな、名前。お前がほしいんだ。お前が受け継ぐ爵位、父親の持つ議席、そして何より皆が欲するお前自身──名前・名字、お前を手に入れるためにオレはここまで来たんだ」

 ディエゴは淡々と続けた。そこに迷いや躊躇いはなく、それこそが彼の言葉を真実たらしめていた。
 名前は額を押さえた。なんだか目が眩むようだった。

「そんな──そんなの、わたくしが認めると思って?」

「認めるさ、君は」

 喘ぐように言ったのさえ、ディエゴはあっさりと否定する。

「オレは求めた。一人で来るようにと。そしてその通りに君は来た。しきたりを破って、供もつけず──」

 ディエゴの言うことは尤もだった。まったくの正論に、名前も口を噤む。屋敷に向かう道中も感じていた後ろめたさ。それがまたも首をもたげた。
 貴族が家を訪問するのにも様々な決まりがある。そのひとつが女性の側から男性を訪ねてはならないというものである。そんなのはほんの幼いうちから教え込まれたもので、名前のような立場の娘なら犯すはずもない失態だった。
 それを名前は意図的に破ったのだ。はしたないと後ろ指さされる危険を抱えてまで──それでもなお名前はディエゴの求めに応じた。

 ──その理由からは目を逸らして。

 名前はキッとディエゴを睨み返した。負けてはいられなかった。彼にだけは負けられない。彼とだけは対等でありたい。せめて、それだけは。

「──例えいくらあなたが醜聞を広めようとわたくしは気にしません。第一仕事であるなら一人であっても構わないでしょう?」

「だが世間はどう見る?お前はふしだらという烙印を押されるんだ」

「だとしてもわたくしを望む者はいるわ」

 言い切ると、ディエゴは喉の奥で笑った。でも彼の目は冷えきったままだった。むしろ一層冷たさを増した。瞳の奥で青い炎が揺らめいているようにさえ思えた。

「例えばエドワード・ウッドとか?」

 その名をディエゴは吐き捨てた。
 名前は若き青年貴族の真摯な目を思い出した。優しかった彼のことを思った。それから、野心のために死んでいった老婦人のことを。
 考えて、名前は膝の上で手を握り締めた。食い込んだ爪の痛みが冷静さを取り戻させてくれた。

「ええ、そうね。その通りよ。だからわたくしはあなたのものになんかならないわ」

「……オレよりヤツを選ぶって言うんだな」

「何度言わせるの、そうだと先程から言って、」

 名前は思わず身を乗り出しかけた。
 でも先に境界線を越えたのはディエゴの方だった。彼はテーブルに手をつき、名前の唇に自身のそれを押しつけた。
 そう、押しつけられたのだ、名前は。彼の身勝手な欲を、願いを、彼の足元に積み上げられた人々と同じに。たった今、名前は彼の夢の踏み台にさせられたのだ。

「…………ッ!」

 そう理解した瞬間、頭に血が上った。カッと熱を持ち、そしてそれは名前の腕を伝い、ディエゴに対して平手打ちという答えを齎した。
 乾いた音がした。ディエゴは顔を横向かせていた。それほどの勢いがあったのだ、と名前は肩で息をしながら他人事のように思う。
 心臓が早鐘を打っていた。でも甘さは微塵もなかった。初めての口づけだったのに、温かさも柔らかさも、ましてや優しさなんて少しも伝わってこなかった。それが悲しくて、そう思う自分がおかしかった。

「どうだ?傷物になった気分は?」

 ディエゴは口許を拭った。よく見ると血が滲んでいた。それを彼は容易く吐き捨て、歪な笑みを作った。
 わたくしもそうできたらよかったのに、と名前は唇を噛んだ。鉄錆の味がするのは彼と同じなのに、名前には拭うことも捨て去ることもできなかった。
 それでも矜持はある。敗北を認めることはできない。名前は両足に力を込め、立ち上がった。そしてディエゴを冷ややかに見下ろした。

「……犬に噛みつかれるより最低ね、いっそ泥水でも啜った方がマシってくらい」

「すぐによくしてやるよ」

「結構、わたくしは帰ります。これ以上時間を浪費したくはないので」

「待て……ッ!」

 扉に向かいかけた名前の肩が掴まれる。
 痛い、と非難の声を上げる間もなかった。ディエゴの手は大きく、名前の体を縫い止めるのには十分すぎる力があった。
 名前は反射的に目を瞑った。打ちつけた背中が痛んだ。壁際に追いやられたのだと理解したのは次に目を開けた時、今までにない必死の形相のディエゴを見た時だった。

「いいかッ!オレはお前をグレトナ・グリーンまでだってさらっていけるんだ!わかるか!?スコットランドだ!無理矢理にだって式は挙げられる!そしたらあの貴族のお坊っちゃんには手出しできない!」

「だったら……ッ!」

 だったら、そうしてくれればよかったのに。

 感情的に叫びかけ、名前は言葉を呑み込んだ。
 ──そんなの、ありえない。
 ディエゴが欲しいのは家名だ。愛情ゆえの婚姻関係ではない。こんなに必死なのだって、名字家を手に入れたいだけ。
 わかってる、わかってるわ、最初から。だから今さら悲しくなんてない。彼が損得でしか人を見ていないのも知っていた。知っていても、選んでほしかった。或いは選ばなくてもよかった。ただ、彼に私のことを見てほしかった。自分から突き放すことなどできなかった。そう、最初から勝敗など決していたのだ。

「……そんなに、そんなにあなたはわたくしの家がほしいのね」

 名前はともすると震えてしまいそうな声を抑えて言った。ディエゴは名前を檻に捕らえたまま、「……ああ、そうだ」と低い声で肯定した。

「そう……」

 名前は一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐにディエゴを見上げた。そこにはもう苦慮や躊躇は浮かんでいなかった。浮かぶことのないように、名前はこれまでを過去にした。ささやかな願いや期待を淡い思い出に封じ込めた。

「いいわ、共犯者になってあげる」
 
 宣言すると、ディエゴは息を呑んだ。けれど驚きは瞬時に過ぎ去り、彼は満足げに頬を緩めた。

「ならば証を」

 求めに、名前は素直に応じる。彼の腕を掴み、つま先立ち、首を伸ばす。そんな単純な動作ですべては終わった。
 こんなに簡単なことだったのね、と名前はぼんやりと思う。二度目の口づけは掠めるほど。でもその冷たさだけは離れた後も名前の唇に残っていた。

「……契約成立だ」

 ディエゴが口角をつり上げる。
 それは思いの外無邪気で、名前も笑った。甘さも優しさもないくせにそんな風に笑える彼がおかしくて仕方なかった。そんな彼を手放せない自分が滑稽で堪らなかった。