名前には喪があけたらと告げたが、そんな悠長に構えているつもりはなかった。ディエゴに誓いを立てたのは彼女であって、彼女の父親ではない。古くから続く侯爵家、名字家の現当主。彼の持つ権力は偉大だ。彼の前では名前もただの小娘に過ぎない。例え彼女がディエゴとの結婚を望もうと、彼女の父ならばそれを容易く捩じ伏せることができた。
だからディエゴは早々に名字家の
「ずいぶんと急ぎの案件があるらしいな」
予告もなしにやって来たディエゴに、侯爵は嫌みったらしい言葉で迎えた。当然だ。そんなのは礼儀に反している。まして相手は侯爵で、ディエゴは男爵家の養子に過ぎない。ディエゴを居間に通さず帰らせることだってできた。
でも侯爵はそうしなかった。一人娘の名前を持ち出しただけで侯爵はディエゴと話す気になった。それでもう十分だった。十分、勝算はある。
「ええそうなんです、火急の用件がありまして」
ディエゴはにっこりと笑った。
ご婦人方ならこれで片がつくところだ。だがさすがに侯爵はそこまで能天気じゃない。むしろ顔つきを険しくして、「それで?」と続きを促した。
「いったい私に何の用が?」
「……単刀直入に言います」
侯爵は長椅子に腰かけていた。メイドの運んできた紅茶には手をつけなかった。さほど時間を取るつもりはないという意思の表れだった。
侮られたものだな、とディエゴは思った。侯爵はオレを侮っている。騎手としては評価していても、それ以上はない。貴族としては──まして娘の恋人としては──一片たりとも考えちゃいない。きっと可能性すら思い浮かべたことはないだろう。
「オレを侯爵家の一員として迎えていただきたい。名前・名字嬢の夫として」
だからディエゴの言葉にらしくもなく感情を露にした。目を見張り、ディエゴをまじまじと見つめた。悪い冗談じゃないかと疑っているらしかった。
ディエゴは内心で笑った。──侯爵よ、どんな気分だ?今からお前は歯牙にもかけてなかった男に噛みつかれるんだ。薄汚い騎手風情に大切に囲っていた娘を奪われる。侯爵家の跡取りはイングランドの貴族でも欧州の王族でもない、このオレなのだ!
「君は本気で──つまりは心から娘を想っているのか?」
「ええ、オレは彼女を愛している。彼女もまた同じ気持ちだと言ってくれた。オレは彼女を幸せにしたいと思っている、心から」
空虚な言葉だ。ディエゴは思う。オレも、侯爵も。どちらも真から彼女のことを想っているわけじゃない。侯爵にとって名前は一人娘であり、かけがえのない駒のひとつだった。それ以上でもそれ以下でもない。
ディエゴは侯爵の背後に視線をやった。そこには暖炉があった。でも老婦人の屋敷のような写真立てはなかった。もしかすると彼女の信奉者たちの方が写真や新聞の切り抜きなんかを持っているのかもしれないと考えた。少しだけ、彼女が哀れになった。
娘を想っているのか──だって?そう言うお前自身彼女を個として見ていないじゃないか、とディエゴは笑ってやりたい気持ちだった。娘を愛してはいても、母親が子を想うような損得を抜いた愛情ではない。
──でもそれはオレだって同じだ。
「悪いが……だとしても私には責任がある。私にも、名前にも」
侯爵は重々しく言った。責任、貴族として全うすべきもの。それは領地を管理することであり、血を絶やさず繋げることである。彼らにとってはそれが一番重要なことだった。
「ですが彼女にも感情はある、自由な手足がある。彼女とならどんな遠いところへだって行けるでしょう」
「……それならそれで他の方法を考える。もう娘と呼ぶこともないだろう」
駆け落ちを手段として仄めかすと、侯爵はあからさまに顔を強ばらせた。いかに疎遠であっても娘が馬の扱いに秀でていることくらいはさすがの彼も知っている。その上相手が騎手であるなら追うのはより困難になる。
だからその時は縁を切る、と侯爵は言い切った。娘への情などその程度なのだ。改めて実感し、ディエゴの侯爵を見る目も冷たさを増す。
だが最初からこれで侯爵が折れてくれるとは思っていなかった。あくまでこれは覚悟を示すためのもの。本気なのだとそれさえ伝わればいい。
「ではせめて一度、オレにチャンスをください」
──本命はこちらだ。
ディエゴは真っ直ぐに侯爵を見据えた。その口から紡がれたのはアメリカ大陸を横断するという前代未聞のレースの名前だった。
ディエゴが屋敷を出ると、庭に出ていたらしい名前が駆け寄ってきた。首回りに毛皮のついた品のいいコートを纏っている。
どこかへ出掛けてきた帰りだろうか。
ディエゴは一瞬そう考え、首を振った。名前はディエゴの口づけを受け入れた。そんな彼女が今さらどこぞの青年貴族などと会うこともないだろう。
「どうなさったの、今日はいったい……」
名前は白い息を吐いた。そうしていると唇の紅さが目についた。そしてその唇の柔らかさを知っているのはオレだけなのだ、とディエゴの心を浮き立たせた。
「君のお父上にお許しをいただきに」
芝居がかった口調で言うと、名前は「まぁ」と目を見開いた。冬の青空をそのまま映したみたいな瞳がディエゴを射抜く。その表情は先刻見たばかりのものを思い出させてくれた。つまりは彼女の父親のことを。
「どうしてわたくしになんの断りもなく……」
「こういうのは早い方がいいと思ったのさ」
「それでは答えになっていないわ」
ほっそりとした腰に手を回すが、名前の鋭い眼差しは緩まない。たぶん口づけのひとつをくれてやったって誤魔化されてはくれないだろう。そういう女だった。だからこそ腹立たしく、どうしようもなく欲しいと思った。高潔であろうとする彼女を手に入れれば少しは満たされるような気がした。
「君がいようといまいと変わりない。結果は同じだ。断られたよ、あっさりね」
「でしょうね」
名前の声に落胆はない。
「でも策はあるのでしょう?」
ディエゴを見上げる目はロンドンにはそぐわない色をしている。晴れ渡った空、或いは遠い海の色。多くの男たちが欲したそれは今、ディエゴの腕の中にある。少しの濁りもなく、ディエゴに体を預けている。
「ああ、当然だ」ディエゴは思わず口角を上げた。とてもいい気分だった。
「侯爵とは賭けをすることになった」
「……どんな?」
「──オレがアメリカ大陸横断レースで優勝するか、否か」
スティール・ボール・ラン──そのレースの存在は名前も知っていたらしい。「まさか、」と呟き、口を覆った。
「あなたが出走するというの?あんな危険な──正気じゃないわ」
「なんだ、心配してくれるのか?」
抱き寄せると、甘い匂いが立ち上る。その出所を探せば折れそうに細い首が目に入った。襟元の詰まったアフタヌーン・ドレスを着ていても誘うように白い膚は隠しきれない。
その首筋から伸びる肢体、緩やかなラインを描く体を一瞥し、これに触れようとした男がいた事実に苛立ちを蘇らす。
──これはオレの獲物だ。ずっと前から決めていた。今さら他の誰にも譲る気はない。
「当然でしょう。わたくしとあなたは共犯者なのですから。一人で先に死なせたりなどさせないわ」
身動ぎひとつすれば触れられそうな距離にある。繊細な鼻梁、果実を想起させる唇、抜けるように白い膚。何もかもが作り物めいて、見る者を絵画の中の住人かと思わせる。
そんな彼女が今は真剣な目でディエゴを見つめている。他ではない、ディエゴだけを!
「……何がおかしいの?」
笑みを噛み殺すが目敏い名前は眉根を寄せる。
こんな風に彼女が感情を見せるのはほんの限られた人間が相手の時だけだ。求婚者にも親しくしている令嬢たちにも見せやしない。そして唯一になる可能性のあった男たちのうち一人は死に、一人はレースから降りた。
「いや、熱烈なプロポーズだと思ってな」
それを考えると、不機嫌そうな顔も愛おしく思えそうだ。
「揶揄うのはよして。そういうやり取りをしたいなら他を当たってちょうだい」
「冷たいな、オレは婚約者なのに」
「まだそうと決まったわけではないでしょう?」
名前はディエゴから距離を取ろうとして、でも諦めた。溜め息を吐き、ディエゴの肩に頭を乗せた。
ディエゴは視線を走らせた。彼女が一瞬だけ見やった方へ。然り気無さを装って、背後にあった屋敷を見た。
屋敷は庭園を一望できる作りになっていた。幾つもの窓がディエゴたちを見下ろしていた。そしてその中のひとつに見知った顔があった。
侯爵だった。名前の父親が二人を見ていた。ディエゴは腕の中の少女に視線を戻した。そして彼女より自分の方がよほど侯爵と似ているなと思った。
「名前、」
促すと、名前は目を上げた。青空を縁取る睫毛が震えていた。震えながら、しかし大人しく目を瞑った。
「また来る」
ディエゴは別れの口づけをした。恋人たちがやるみたいな優しくて甘ったるい口づけを。屋敷中に見せつける気持ちで名前とキスをした。
「ええ、──待ってるわ」
目を開けた名前はもう震えてはいなかった。
いや、そんなのは気のせいだったのだろう。ディエゴはそう判じた。この提案を受け入れたのは名前自身だ。無理強いした覚えはない。
それに彼女だって憎からず思ってくれている。ディエゴにはその確信があった。離れがたいと思っているのは名前の方のはずだった。何もかもが思い通りに進んでいるとディエゴは思っていた。