いつか夢見た、


 上甲板に出ると強い潮風が頬を打つ。見えるのは大海原、足元を支えるのは北大西洋を渡る船。名前は靡く髪を押さえ、遠く目を馳せた。
 五月の半ば、イギリスを発って既に一週間が過ぎている。目的地であるニューヨークの港まではもうまもなくだ。
 しかしそこからが長い。レースの出発地であるサンディエゴのビーチまで移動し、それからレースに合わせてまたニューヨークを目指すのだ。
 アメリカ大陸横断レース──改めて、無謀な挑戦だと名前は思う。無謀で、無茶で、危険きわまりない。でも参加しなければならないのだ。参加し、勝利を掴まなければ──すべてはそこから始まるのだ。

「さすが、一等切符は違うな。見晴らしがいい」

 名前の隣に立ったのは婚約者の──正確には一候補者に過ぎないのだが──ディエゴ・ブランドーだった。彼は当然のように名前の腰に手を回した。
 名前は逆らわなかった。とはいえ特別な理由などない。強いて言うなら風が強かったから、ただそれだけだ。

「あなたは一等が当たり前だと思ってた」

「まさか。君はこれがいったい幾らか知ってるか?普通は一年働いたって買えやしないぜ」

 ディエゴはバカにしたように鼻で笑う。
 実際物知らずと思っただろう。所詮は庇護される立場のお嬢さまだって。バカにされてると知って、けれど嫌な気はしなかった。むしろ良かったとさえ思った。やっぱり、彼を選んだのは正しかった。
 一等切符でしか乗ることのできない上甲板。ディエゴは初めてだと言ったが、とてもそうとは思えないほど自然体だ。濃いグレイのフロックコートを品よく着こなしている。
 美しい立ち姿だ、と名前は内心で称賛する。洗練された所作、見られていることを意識した隙のない姿勢。今甲板に出ているどんな紳士よりずっときれいだと名前は思う。
 そんな婚約者に対し、名前は薄い笑みを刷いた。

「じゃああなたはお父さまに感謝しなくちゃね」

「そうだな、このオレのために財産を蓄えててくれて本当に……心から感謝してるよ」

「そういうセリフは勝ってから言うものよ。これで負けたら恥ずかしいわ」

「まさか?このオレが?」

 ディエゴは芝居がかった声で片眉を上げた。信じられないものを見るかのような目。
 いったいその自信はどこから来るのだろう?
 彼が勝算のない賭けに出るタイプではないのは知っているが、でもだからといって未来まで見通せるわけがない。それなのに彼は自分こそが栄光を掴む者なのだと信じて疑わなかった。
 名前は思わず「何か策があるの?」と眉根を寄せてしまう。

「どんな方が出るかもわからないのに」

「噂くらいは聞いてるだろう?なんせ出資者のひとりなわけだし」

「そうね、知ってるかもしれないわ、……お父さまならね」

 名前は言外に『無駄だ』と匂わせた。私が知っているのは新聞に載るのと同程度の情報だけ。それ以上の『優位』を父は許してくれない。
 侯爵にとって今のディエゴは反逆者であり、彼に同調する娘もまた受け入れがたい存在だった。それはレース中の『不運』を期待するほどだ。近頃の侯爵は言葉の端々にそんな願望を滲ませていた。ディエゴが不幸な事故に見舞われれば──そうすれば何もかも元通りになるのに、と。
 名前が肩を竦めると、ディエゴは鼻を鳴らした。
 「まぁそうだろうな」その声に落胆の色はない。予想通り、実際ディエゴだって侯爵の態度が軟化するとは思っていないだろう。レースで勝利を収めなくては交渉のテーブルにすら座らせてもらえないのだ。

「そういえばお父上は?まだ具合が治らないのか?」

「船酔いだもの。そんな簡単に良くならないわ」

「案外貧弱なもんなんだな」

「それを言うなら軟弱じゃないの?」

 名前が首を傾げても、彼は「これでいいんだよ」と口角を上げる。ディエゴの言い回しは時々よくわからない。少しの掛け違いがあるようで、でも肯定されると彼の弁が正しいかのように思われる。
 名前は「そうなの」と頷き、へりの大きな帽子を押さえた。今日は特に風が強い。こういう日はやたらと立派な帽子がより一層窮屈に感じられる。

「邪魔くさいな、取れないのか?」

 そう内心で思っていると、切れ長の目に覗き込まれる。つばに指をかけ、今にも奪い去ろうという風。

「そんなのご婦人方に白い目で見られるわ」

「いいさ、どうせじゃれあってるようにしか見えない」

「……あなたに羞恥心はないの?」

「そんなものがあったら君に求婚なんかしていない」

 彼は勝手だ。勝手で、強引で、まるで吹雪の夜みたい。一晩で世界は一変して、なのに彼が残していくのは爪痕ばかりではない。もの狂おしい風の一夜の作品、浮かれ騒いでできた雪の建築──エマーソンの詩の一節を思い出す。自然に生み出された美、芸術に、人は焦がれ続ける。
 名前は開けた世界に目を細めた。真昼の黄金。白い波と照り返る日差し。どこまでも続く碧。そのすべてを身に宿した青年を見上げた。目映いほどに美しいかんばせを。名前から奪った帽子を手に、悪戯っぽく笑う幼馴染みを。
 その無邪気さに、名前はわからなくなる。本当の彼はどこにいるのだろう。知ったつもりになっていたけれど、何もわかっていなかったのかもしれない。
 迷いながら、それでも名前は微笑んでいた。たぶんきっと、心から。

「よかったわ、あなたの精神が図太くて」

「なんとでも。オレはただ勝利を掴むだけだ」

 力強く言い切るディエゴに、名前は「そうね」と頷く。ディエゴはどこまでも上を目指す。誇り高く、貪欲に。
 そんな彼だからこそ名前は夢を見た。叶わないと諦めていた夢を取り戻すことができた。たとえ利用されているのだとしても──それでもまだ、夢を見ていたい。

「信じているわ、ディエゴ。あなたならできる。この大陸横断レース……その栄誉はきっと、あなたの手に」

「ああ、もちろんさ」

 名前はディエゴの肩に頭を預けた。大きな手が名前の体を抱き寄せた。衣服越しなのにディエゴの体温を感じた。頬は温かく、でも膚の下には冷ややかな風が取り巻いていた。
 それでもこの手を取ってよかった、と名前は思う。ディエゴのことはわからない。わからないけれど、でもあのまま死んだように生きていくよりはずっとよかった。それを思えば少しの痛みなど──耐えていけると思った。