聖なる色を宿すもの


 入国監理局での手続きを済ませ、名前はアメリカの地を踏んだ。およそ十日ぶりの大地、まだ体には波に揺られる感覚が残っている。
 船酔いに見舞われていた父はもっと重症で、青白い顔をしたまま馬車に乗り込んだ。ここからはホテルまで一直線。本音としては異国を満喫したいところだが、侯爵の決めたことには逆らえない。
 こういう時、女という性が嫌になる。男子だったら『勉強になる』と背中を押してくれたろうに、と。
 仕方がないので今は馬車の窓から見える景色だけで我慢しておくことにしよう。気を取り直し、名前は道行く人をじいっと見つめた。
 中流階級か、それとも労働者階級か。眺めていて最初に感じたのは、祖国で見るより鮮やかな色合いが多いということだった。どうやらこの国では派手好みの方が多数派らしい。貴族よりもよほど華やかな衣装に身を包む女性を見て、改めてここが異国なのだと実感する。
 慣れるまでは気を緩められない、と名前は唇を引き結ぶ。
 ここでの行動がすなわち祖国への評価に繋がってくるのだ。景気がいいとは言い難い現状。植民地からの反発、欧州からの反感。何よりドイツ、アメリカの発展がめざましい今、イギリスは難しい立場にあると言わざるを得ない。

「…………」

 気負う名前を、ディエゴは見つめた。
 だが彼が口を開くことはなかった。頬杖をつき、名前を横目で見たまま、何事かを思案していた。ホテルに着くまで、ずっと。





 旅行服を脱ぎ、普段着に着替える。そして一息ついたところでホテルに訪問者が現れた。レースの主催者、スティーブン・スティールとその妻である。出資者のひとりである侯爵に挨拶を、というのが彼らの目的だった。
 だが侯爵の具合は未だ良くならず、ホテルに着くやいなやベッドの住人となった。とても人前に出れる状態ではない。

「はじめまして、ミスター・スティール。お会いできて光栄です」

 だから代わりに名前が応対に出ることにした。だが婚約者であるディエゴの姿はない。それは選手である彼が主催者側と事前に接触を図るのは如何なものかと考えたためである。彼は不服そうにしていたが、最後には『まぁいいさ』と受け入れてくれた。『別に主催者なんぞに興味はない』と言い添えて。そんな彼は今頃愛馬の様子でも見に行っていることだろう。
 名前はひとり分の空白を抱えたままスティーブンと握手をした。

 ──少し寂しい、なんて。そんなの嘘だ。ありえない。

「こちらこそ。このたびはご支援いただき感謝しております。あなた方のお力添えがあったからこそこのレースは開催できるのですから」

 握った手は存外に固く、プロモーターというわりには肉体労働者に近い形だった。現在は老いが見られるが、かつては鍛えていたのだろう。
 ひび割れ、かさついた手に好感を覚え、名前は笑みを自然な形にした。するとスティーブンも頬を緩めた。彼の方も緊張していたのかもしれない。そう考えると落ち着き払っているスティール夫人はなかなか肝が据わっている。

「彼女はルーシー、ルーシー・スティール……わたしの妻です」

「こんにちは」

 スティール夫人、もといルーシーはまだ少女といってもいい齢に見受けられた。恐らくはデビュタントすら済ませていない。花開く前の娘、硬質な蕾に似た唇が仄かな笑みを宿している。
 しかし声は凛とした響きを持ち、所作には優雅ささえ感じられた。淑女としての礼儀作法までは身につけられていないが、社交界に出たならきっと立派な花となったろう。
 そんな彼女の手を取った名前は、思わず「かわいらしい方」と微笑みかけていた。かわいくて、いじらしくて、守ってあげたくなる。妹がいたならこんな感じだっただろうか。

「ミセス・スティール……いえ、ルーシーと呼んでも?」

「ええ、構いません」

「ではわたくしのことも。どうぞ名前、とお呼びくださいな」

 ルーシーはスティーブンを見た。そこには少しの躊躇いが窺えた。そんな妻にスティーブンは優しく笑みかけ、肩を叩いた。『好きにするといい』そう言っているみたいだった。
 ルーシーは名前に向き直り、「お言葉に甘えて」と控えめに笑った。

「改めてよろしくお願いします、名前」

「いいえ、こちらこそ。レース中はあなた方の世話になるでしょうから。それに時々お話し相手になっていただけると嬉しいわ」

「ええ、わたしもそう思います」

 スティール夫妻はきわめて善良な人たちだった。彼らはメイドの入れた紅茶を飲むと、『仕事があるので』と帰っていった。それももちろん事実であろうが、長い船旅を終えたばかりの名前を気遣ってくれたのだろう。
 優しさを感じ取り、名前はすぐに二人のことが好きになった。彼らとならいい付き合いができるだろう。レース中も、その後も。





「素晴らしく気持ちのいい方々だったわ。ミスター・スティールは真面目な方だし、ルーシー……ミセス・スティールはまるでお人形のよう。とても愛らしかったわ」

 入れ替わりに帰ってきたディエゴに二人のことを語って聞かせる。
 だがディエゴの方は「へえ」と短い相槌を打つだけ。えらく関心が薄い。スティーブンのレースを走るのはディエゴ自身だというのに。

「気にならないの、彼のこと」

「どうして?ヤツはただのプロモーターだ。なんの関係がある?」

「責任者はスティール氏よ。だからつまり……彼とレースは切っても切り離せないってこと。信用できるか否かは重要ではなくて?」

「まぁ理屈としては通るな」

 そこでメイドがワゴンを引いてやって来た。
 名前付きのメイドは異国の地においても表情ひとつ変えない。高い位置で結った黒髪には一分の隙もなく、伏し目がちにティーセットを整えた。
 ディエゴは紅茶のカップに手をかけながら、「だが、」と口角を持ち上げた。

「すぐに人を信用するのは君の悪い癖だな」

 最高級の茶葉の香りがたちまちに立ち込める。
 ホテルの一室、宛がわれた部屋は可愛らしい装いをしていた。壁紙は小ぶりな白の花と緑の蔦の模様、長椅子にはゴブラン織りの布がかけられ、その上には繊細なレースのクッションがあった。
 そんな中にいてもディエゴは不思議と違和感がない。場を支配することに長けている。彼が変わるのではない、空間の方が彼に従うのだ。悠然とティーカップを傾けるディエゴを眺め、名前はそう思った。

「でも少なくともルーシーは信用できるわ。きれいな目をしていたもの。澄んだ青色の目……わたくし、とても気に入ったわ」

 名前は先刻別れたばかりの少女の姿を思い浮かべていた。
 ルーシー・スティール。真っ直ぐこちらを見返す目や耳に心地いい声、そうしたものを思い出す。金の髪は巻いているのだろうか?可愛らしさと快活さを兼ね備えた実に彼女らしい装いだ。
 もっとルーシーと話をしてみたいと思う。物怖じすることのない彼女と。きっと彼女なら何の偏見も抱かずに聞いてくれるだろう。そんな予感があった。

「……それこそ疑わしいな」

 なのにディエゴはつまらなそうに鼻を鳴らす。「そのセリフ、オレにも聞き覚えがあるぜ」と。

「そうだったかしら?」

「あぁ、間違いない。オレには十年ほど前にも似たようなセリフを聞かされた記憶があるな」

「……よく覚えてるわね」

 確かにそんなことを思ったかもしれない。今よりずっと前、まだ子供だった頃。カントリー・ハウスの厩舎で見慣れない少年と出会した時に、同じことを感じた覚えが名前の中にも微かに残っていた。

 まさか、ディエゴの方が覚えているとは思わなかったけど。

「誰にでも言ってるんじゃあないか?」

 ──なんだかいやに突っかかる。
 嫌みったらしく言うディエゴに、名前は「よしてよ」と眉を寄せた。

「わたくし、不要な世辞は言わないわ。美しいものは美しいと正直に褒めてるだけよ」

「ふん、……どうだかな」

 どうして急に不機嫌になったのかしら?
 わからなくて、名前は内心で首を捻る。どんな皮肉も嘲りも冷笑ではね除けてきた男、そんなディエゴがどうしてと名前は訝しんだ。まるで──そう、拗ねているみたい。なんて、プライドの高いディエゴにとってはとんでもない侮辱だろう。

「ねぇそれよりこの街を歩いてみない?気になるわ、私……どれくらいこの国が発展しているのか」

 名前は手を叩き、提案した。
 理由はわからなくともディエゴの機嫌を損ねたのは確かで、原因は間違いなく名前にある。何せここにはディエゴと名前の二人しかいない。犯人はひとり、昨今流行りの推理小説の中の名探偵でなくたってわかる。

「一人で行けばいいだろう。それかお気に入りの女でも呼べば?」

「私はあなたがいいと言ってるの」

 冷ややかな声にも我慢強く答える。ゆっくりと、噛み締めるように。
 言うと、そっぽ向くディエゴの肩がぴくりと反応した。だから名前はここぞとばかりに身を乗り出した。

「あなたの意見が聞きたいわ、いずれ我が国を支えることになるあなたの意見が」

 この言葉に嘘はない。政治的なことに関して、名前は父の次にディエゴを頼ることが多かった。彼ほど聡明で、女性だからと軽んじることなく話を聞いてくれる人など滅多にいない。だからこの国でもディエゴと共に歩きたかった。知識を得るなら彼に教えを乞うのが一番だとさえ考えていた。

「…………」

 ディエゴがすぐに返事をすることはなかった。彼は黙したまま、考え込む仕草をした。そこに明確な拒絶はない。勿体ぶってはいるが、こういう時の彼の答えはきっと『イエス』だ。

「……まぁ、いいだろう」

 たっぷり熟考した後、ディエゴは不承不承の体で応と答えた。立ち上がるのさえ時間をかけ、けれどエスコートの手は名前の前に差し出された。

「ありがとう、ディエゴ」

 名前は破顔し、手を伸ばしかけ──はた、と動きを止める。

「あの、ディエゴ……おかしなことを聞いてもいいかしら?」

「下らないことじゃあなければな」

「それもどうかしら。少なくともわたくしの主観では下らなくはないのだけれど」

 名前は自分の体を見下ろした。
 眼下に広がるのは鮮やかな赤。そして彩りを添えるのはレースの白とリボンのピンク。たっぷり膨らんだ袖と、対照的に裾の方は流行に合わせ絞った形になっている。それでも長さは足首が見えるかといったところで、赤い靴がちらりちらりと見え隠れする程度。無邪気な少女ほど大胆にはなれない。
 そう、ルーシーのようには。

「ねぇ、わたくしの格好って変じゃないわよね?」

「はぁ?」

「この国では浮いてないかしらってことよ。だからつまり……もっと開放的な方が普通なのかしら?」

 もしもルーシーの服装がこの国の流行だというなら、名前の格好は時代遅れの産物ということになる。とんだ笑い者だ。きっと祖国までもがその的となる。
 そんな想像に、名前は唇を噛んだ。

「困ったわ……。もしそうだとしたら……あぁ、でも私、あんなに足を見せるなんてできないわ。出すことなんて想定してなかったもの。人より不格好かもしれないし……やっぱりダメ、今すぐなんてできないわ」

 特別太いとは思わないが、でも誰かと比較したことなんてない。そもそも正しく美しい形がどんなものかさえ知らない。目指すものさえ思い浮かべられなくて、名前は頭を悩ませた。
 これは差し迫った問題だ。もしも本当にあの格好が流行なら持ってきたドレスの殆どを処分しなくてはならないだろう。新しく仕立てるにしたって時間がかかる。果たしてレースの開催までに間に合うだろうか?

「……やっぱり下らない話じゃないか」

 真剣に悩んでいるというのにディエゴときたら。『下らない』と一刀両断し、けれど顰めっ面をほどいた。

「ま、古くさいのも名前らしくていいんじゃないか」

 皮肉っぽく笑って、ディエゴは名前を立ち上がらせる。
 「ほら行くぞ」半ば無理やり部屋から連れ出されながら、名前は慌ててメイドに外出の旨を伝えた。
 本当ならそんなことよりディエゴに抗議をするべきだったろう。彼に素直に従うより、彼の慰めだか揶揄いだかわからない返答を追及すべきだった。
 でも名前の中にあったのは怒りではなくて、それよりずっと穏やかな安堵の気持ちだった。ディエゴが普段の調子を取り戻してくれてよかった。そう思ったから、邪魔な言葉を挟む気にはなれなかった。