Un'opera buona e mai sprecata
薔薇の香りがして、ジャイロは顔を上げた。
薔薇と、ローズマリーと、あとはピーチの香料だろうか。甘い香りががらんとした食堂車をたちまちのうちに支配していった。
ガラス張りの扉を開けたのは一人の令嬢だった。透き通る蒼色を身に纏い、彼女はジャイロ以外誰もいない食堂車に入ってきた。
「…………」
ジャイロは口笛を吹きかけて、止めた。
彼女は美しかった。僅かに開けた胸元は雪ほどに白く、結い上げた金糸は彼女を眩く縁取っていた。そして何より目を惹くのは澄んだ蒼色の眸。波立つドレスと揃いのせいか、見つめていると故郷の海を思い出させてくれた。波の音、潮の匂い、そんなものすら感じ取れるほど。
溺れてみるのも悪くない、とさえ思わせる。そんな彼女はいったいどのような用件があって食堂車を訪れたのだろう。昼食の時間はとうに過ぎている。ジャイロはコーヒーを飲みにきただけの自分のことは棚に上げ、令嬢を観察した。
令嬢、と決めつけたのは勘である。だが間違いはないはずだ。そもそもこの食堂車を利用できるのは一等の切符を買った者だけである。そして彼女は成り上がり者にしては品のある所作が板についていた。恐らくはこの国の人間ではない。たぶんイギリスの生まれだろう。
予測を立てながら、ボーイが彼女のテーブルにティーセットを運んでいくのを眺めた。そこで初めて彼女の後ろにメイドが控えているのに気づく。黒髪の、やはり見目の整ったメイドだ。でも少し冷たげな印象を受ける。
「ちょいとそこのお嬢さん」
だがそんなことで怯むジャイロではない。気安く令嬢に声をかけ、怪訝に小首を傾げる彼女に「そう、あんただよ、あんた」と笑いかけた。
「あんたに用があんのさ」
「わたくしに?」
令嬢は声さえも美しかった。高すぎず、低すぎず、耳に心地いい。
正直ツイてたな、とジャイロは思う。美しいものは心を豊かにする。サンディエゴまでのひとり旅、列車での移動という味気ない時間。渇いた日々には多少の潤いが必要だ。
ジャイロは笑みを深め、カップを手に少女の向かいに腰かけた。メイドの目つきが鋭くなったが気にしない。令嬢の方も咎め立てするつもりはないようだ。むしろ愉快がるように目を細める。
──いいな、ますます気に入った。
「いや、これはまったくの偶然なんだけどよォ〜…、おたくらが『こいつ』を探してるんじゃあないかと思ってな」
「あら、これは……」
ジャイロが懐から取り出したのは一枚のハンカチ。白地に薔薇の刺繍、そしてイニシャルらしきアルファベットが二文字。それをテーブルの上に広げると、令嬢は目を丸くした。
「間違いありません、わたくしのものですわ。いったいどこでなくしたのかしら」
「オレが拾ったのはついさっきだ。昼食の時にでも落としたんじゃねぇか?」
「そうでしたか……。ありがとうございます、助かりました」
令嬢は仄かな笑みを唇に宿した。「でもどうしてわかりましたの?」零れ出た金髪が柔く頬を打つ。瞬間、またあの香りが立ち上った。甘く、芳しく、クセになりそうな香り。
「匂いがしたからだ。ポプリか、それ」
「ええ、よかったら差し上げますわ」
「いや、オレまでその匂いになったらわからなくなっちまう。あんたとすれ違っても気づけないってのは困るな」
「まぁ。面白いことをおっしゃるのね」
令嬢は淑やかに笑う。車窓から差し込むのは穏やかな午後の光。反射し、少女の耳と胸元に咲くダイヤモンドがちかちかと瞬く。軽やかな鈴の音さえ聞こえてきそうだ。
莞爾、と笑んだ彼女はつと視線を流す。「サンドイッチはお好きですか?」彼女が合図のひとうでも出せば先刻のボーイが慌てて飛んでくるだろう。それが彼女にとっての当たり前で、そこにはなんの躊躇いも喜びもない。彼女には生まれながらの気品というものがあった。
しかしジャイロは首を振った。「オレにはこれで十分さ」カップを揺らすと半分ほど残ったコーヒーがさざめいた。別に嘘は言っちゃいない。ただサンドイッチのひとつで終わりにしてしまうには惜しい縁だと思った。
「代わりに教えてくれよ、あんたの名前」
「わたくしの?」
「あぁ。ハンカチの礼はそれがいい」
ジャイロが口角を持ち上げる。と、一時令嬢は目を見張った。きょとんと、あどけなく。無防備にも驚きを露にし、それからまたあえかな微笑を唇に含ませた。
「変わった方ね」
「こういうのは嫌いか?」
「いいえ、とても新鮮だわ」
令嬢は名前と名乗った。名前・名字。それ以外には何も語らず、微笑みだけを浮かべた。
「あなたは?」
「オレはジャイロ、ジャイロ・ツェペリ。気軽にジャイロと呼んでくれ」
「ではジャイロ、そう呼ばせていただくわ」
「いいね、あんたみたいな美人に呼ばれると実に気分がいい」
賛辞を令嬢──名前は礼のひとつで受け流す。言われ慣れているのが一目でわかった。むしろもっと胸焼けがするような美辞麗句をこれまでも並べ立てられてきたのだろう。
ジャイロは「スコーンでも頼もうか?」と訊ねた。それともクッキーか、タルトの方がお好みか。
しかし名前は「いいえ」と首を振った。先程ジャイロがそうしたように。「それよりもわたくし、あなたのお話が聞きたいわ」そう言った彼女の瞳には好奇の光が瞬いていた。
「あなた、この国の方ではないでしょう?」
「どうしてそう思う?」
「だってなんだか気品があるもの。それにイギリス人でもないわね、あんなによく口が回るんだから」
少し砕けた物言いになっていることに名前は気づいているのだろうか。
ジャイロは「褒められたと受け取っておくぜ」と答え、空になったティーカップにすかさず紅茶を注いでやる。上品な香りは最上級の茶葉を使っている証だ。
「そう言うあんたはイギリス人だろ」
「理由を聞いても?」
「金髪のレディといったらそれしかないからな」
教養ある女性、という意味を込めてレディと呼ぶ。と、名前はわかりやすく顔を綻ばせた。
陶器の膚に散る朱の色。そうしていると少女のように愛くるしくさえある。たぶんそれが彼女本来の笑顔なのだ。そう察し、ジャイロは微笑ましく思った。
「正解よ。いいえ、合格と言った方が正しいかしら」
名前はティーカップに手をかけた。白い絹に包まれた指先。その下に眠るのはきっとシミひとつなく、痛みなどとは無縁の代物だろう。だがその代わりに彼女もまた多くのものを犠牲にしてきたはずだ。
指の先まで洗練された所作に、ジャイロは内心で称賛を送った。
「イギリス人でもアメリカ人でもない……ではフランスはどうかしら?洒落ているし、言葉も上手。ねぇ、どうかしら?」
「惜しい、ネアポリス王国だ」
「ネアポリス!お話だけならお伺いしたことがあるわ。近頃統一の機運が高まっているんですってね」
「よく知ってるな」
「嗜みですもの」
名前はそう嘯くが、それが事実でないことくらいジャイロにもわかった。女が政治を語る、それがイギリスでだって異質なことだということくらいは。
だが余計な口は挟まないことにした。それはカゼルタ宮殿やポンペイ遺跡に思いを馳せる名前があまりに無邪気だったから、というのもある。しかし一番の理由はまったくの他人である彼女が自国のことを楽しげに語ってくれるのが嬉しかったからだった。
なんとも単純な思考回路だとジャイロ自身も思う。単純な、しかし波乱を予感させる現代においてはとても困難なこと。名前は敵対した過去のあるカルロス三世にさえ敬意を評した。
「階級が上の者ほど他者に優しくしなくてはならない、わたくし本当に心からそう思いますの。それがわたくしたちの責任と義務というものですわ」
そう言い切る彼女は実に清々しく、澄んだ瞳に好感を抱かずにはいられなかった。
そしてその瞬間にジャイロは思い出した。祖国ネアポリス。その王家の一員が、イングランドの貴族に求婚しているという噂を。その相手の家名が確か名字といったのを思い出し、ジャイロは「なるほどな」と笑みを噛み殺した。
「どうかなさって?」
「いや、」
いい趣味してる、とジャイロは思う。女を見る目がある。さすがは我が国の王子だ、と。
「いつか見にくればいい。いや、そうすべきだ。ああいう芸術品ってのは実際に見てみなくちゃ本当の価値がわからないからな」
ジャイロは半ば本気で言った。美しいものを素直に美しいと思える、そんな彼女に祖国の空や海を見てもらいたいと思った。
「そう、ね。……ええ、あなたのおっしゃる通り、」
名前は目を伏せる。長い睫毛が影を落とす。差し込む日差しは黄金の鱗粉で、頬に落ちる金糸がきらめいた。まるで伝い落ちた涙の痕のように。
そう考えてから、名字家が北米大陸横断レースに多額の援助を申し出たという見出しの新聞記事がふとジャイロの頭に蘇った。そしてイギリス競馬界の貴公子をレースに参加させるというニュースも、また。
ジャイロは改めて目の前の娘を見た。その美しさは食堂車に入った瞬間から変わらない。凪いだ湖面の眸に、青ざめて見えるほどに白い膚。泣いているようだ、とジャイロは思う。初めて見た時にはそんな風に感じなかった。でも今は折れそうに細い首や腕でさえ痛々しい。
そしてその身を包む冷ややかな蒼のドレス──もっと、明るい色を着ればいいのに。
「なぁ、甘いのは好きか?」
「え?」
「やるよ、お近づきの印ってことで」
ジャイロは懐を探り、チョコレートの包みを名前に向けて放った。近年安価になっているとはいえ、人気なことに変わりはない。そして何もないよりはマシだとジャイロは考えた。
しかし名前は「いただけないわ」と眉を下げる。「これではわたくしばかりが頂いてしまっているもの」なんとも真面目な答えである。貰えるものは病気以外喜んで貰っておけばいいものを。
ジャイロは頭を掻き、「それならアレだ」と人差し指を立てた。
「次に会う時の楽しみにとっておくぜ。これで文句ないだろ?」
「次、なんてあるかわからないわ」
「いいや、ある。絶対に」
自身たっぷりに言うと、名前は怪訝そうにした。
彼女はまだ知らないのだ。ジャイロがレースに参加するために遙々やって来たのだということを。
「あんたの旅の目的、当ててやるよ。──スティール・ボール・ラン、そうだろ?」
「どうしてそれを、……まさか」
驚きに目を丸くする名前に、ジャイロはにやりと笑った。
なんという偶然だろう。だが悪くはない縁だ。むしろ楽しみだとさえ思う。このレース、見も知らない相手と戦うと考えるより、多少の因縁があった方が張り合いが出ていい。
「もしかすると長い付き合いになるかもな」
「……ええ、そうですわね」
そろそろ頃合いか。良家の娘である以上、長時間の自由は許されないだろう。
見計らい、ジャイロは立ち上がる。手をひらりと振ると、名前は表情を緩めた。その様子を見てちょっとばかり安堵する。
「ジャイロ、あとひとつだけ」
そうして立ち去りかけたジャイロを、名前は呼び止めた。
「わたくしにはあなたの勝利を願うことができません」
振り返ると名前も席を立っていた。すっと伸びた背。涙のようだと思ったドレスが今再び広大な海として波打っていた。
「ですがジャイロ、」そこで名前は微笑んだ。ゆったりと、穏やかに。自身の運命を見つめて、それでも心からの笑みを浮かべていた。
「あなたの幸運を祈っています、親愛なる友として」
彼女は美しかった。最初に見た時よりもずっと。気高く、誇り高く。一人の人間として対等にあることを望んでいた。
ジャイロは笑った。「ああ、もちろん」ほんの僅かな時間だったというのに、何故だか彼女には深い親しみが湧いていた。
「オレも祈らせてもらうぜ。名前、あんたの幸運を」
別れの言葉は必要なかった。二人にとって再会は約束されたようなものだった。