DIO様とパンドラのスタンド使い

 その日、私はある種の予感を抱いていた。今にして思えばそれは虫の知らせというものだったのだろう。そのせいかやたらと目が冴えて眠りに就くことができなかった。
 バルコニーに出ると、乾いた風が私を覆った。ロンドンは相変わらずの曇り空。眼を凝らしても星は見えない。ライラックやリラが満開の庭を見下ろすと、夏が近づいているのを感じる。母がとりわけ気を配っているバラは、もう少ししたら見頃を迎えるだろうか。私が手を加えることは許されていないが、咲き誇る花々を見るのは楽しみだ。
 ふと。視界の隅が気にかかって、私は視線を走らせた。瞬間、私の背筋は凍った。気温は例年通り、暖かい季節だというのに、私の体は雪山に放り出されたかのようだった。ガタガタと歯は音を立て、瞼は震える。
 ーー逃げなきゃ。
 今すぐここから逃げ出して、部屋に飛び込むのだ。カーテンは一筋の光も通さないほどしっかり閉じて、そうして温かな布団に頭までくるまって朝を待つんだ。夜が明ければ悪い夢は覚める。いつも通りの朝がそこにはある。だから、逃げなければ。そう頭は信号を点滅させているというのに。足がすくんで、動けない。『それ』に背中を見せてはいけないと、獣のような本能が分かっていた。
 『それ』は男だった。私から数メートル先、石造りの門柱の向こう、宵闇をほのかに照らす明かりの下に、その男は立っていた。眩しいほどの金色が、誘蛾灯のようだった。赤い目が、蛇のようだった。恐ろしいほど、美しい男だった。けれど『それ』は笑ったのだ。私と目が合った瞬間。大きな口をにぃっと伸ばして、捕食者の笑みを浮かべたのだ。
 そして男は消えた。街灯の下に何も残さず。だがただ去っていったわけではない。気がつくと、男は私の前に立っていた。細いフェンスの上に悠然と立ち、男は、無様に震える私を見下ろしていた。
 ーー私は被捕食者なんだわ。
 私は逃げることも目を閉じることもできず、呆然と男を見上げた。白い歯が、闇の中でギラリと光る。

「君は面白いものを持っているようだね」

 男の目は、私の向こうを見ていた。私の肩ほどの高さで浮かんでいる『箱』を見ていた。
 その『箱』は私の掌に乗るほどの大きさをしていた。色は黒。正しくは全てを飲み込む闇の色をした『箱』。それを『男』は見ていた。今まで私以外の誰も目にすることのなかった『箱』を。

「見えるとも。何せ私も似たようなものを持っているからね」

 男は私を見透かしたかのように(あるいは本当に男には見えているのかもしれない)、言った。
 男はDIOと名乗った。それから彼のいう『似たようなもの』を私に見せてくれた。だから私は彼に気を許したーーわけがない。
 DIOは私を同志と呼んだ。

「私たちは仲間なんだよ」

 甘やかに、ひそやかに。ひどく優しい声音であやすように囁かれた言葉は、私に恐怖だけを植えつけた。この声、この言葉、この仕草、何もかもが私を飲み込もうとしている。そうわかっているのに、逃げられない。背を向けられない。
 ーーだって、その瞬間に私は食べられてしまうから。
 私はただ、哀れな子羊のように震えるしかなかった。従順に頭を垂れることがいずれ死を招くと察しがついていても、それでもなお目の前の深淵からは逃れることができなかった。






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ヴァニラ戦で死者を出さずに済む方法を模索した結果生まれた産物。土壇場で寝返ってこの能力とクリームをぶつければ死なせずに済むんじゃないかという妄想。