その日も、相変わらずの1日だと思っていた。
朝、登校して一番に確認するのは机の中身だ。おそるおそる覗き込むと、ツンと鼻をつく嫌な臭いがする。昨日空にして帰ったはずなのに、私の机の中にはゴミが溜まっていた。飲みかけの牛乳パックをつまみ上げると、後ろから密やかなわらい声が聞こえた。きっととってもいやな顔をしてるんだろう。悲しくはなかったけど、目の奥が熱くなった。
昼、空き教室にいるところを見つかった。食べかけのパンを奪われ、踏み潰される。頭を床に擦り付けられながら、ボロボロにされたパンを哀れに思った。それからのことはあまり覚えていない。気がつくと空は暮れ始めていて、私はノロノロと起き上がった。お腹が痛くて真っ直ぐ歩けなかったけれど、慣れとはおかしなもので庇いながら歩くのが少し上手くなった。
夜、昼間教室に置き忘れたせいでどこかに隠されてしまった荷物を探してから帰路につく。部活動をする生徒も用務員さんもいなくなって暗闇に支配された学校。怪談話なんかもあるらしいけど、私は怖くなかった。もし幽霊がいるのなら話をしてみたかったから。たぶんきっと仲良くなれるんじゃないかな。思い上がりも甚だしいのかもしれないけど。空想に浸りながら学校中を歩き回り、見つけた荷物を鞄に詰め込む。それから鍵の壊れた窓からいつものように校舎を出て、施錠された門を乗り越えていった。今日作った分のノートは見つからなかったから、明日はまた新しいノートに変えないと。
そんな風に考え事をしていたせいか、私は背後から伸びる手に掴まれるまで気がつかなかった。気づくと、私はコンクリートの塀に身体を打ち付けてずるずると地面に倒れていた。昼間の痣をしたたかにぶつけてしまったらしく、後から後から痛みが溢れ出す。ぐしゃぐしゃに歪んでいるだろう私の顔を見て、女の子はわらった。クラスメートの女の子は私の髪を掴んで、目の前に靴底を向けた。視界いっぱいに靴底が広がったかと思うと、すぐに真っ暗になった。反射的に目を閉じたらしい。私は口の中に入ってくる革と泥と砂利に呻いた。女の子はわらっていた。暫くそうしてから、女の子は疲れたと言って足を下ろした。やっと自由になった喉で咳をしていると、私の前にキラリと光るものが差し向けられた。それがなんなのか、私は理解できなくて目を瞬かせる。女の子は苛立たしげに言った。死んでほしい、って。他にも色々言っていたけれど、なんで生きているのかという質問に私の頭は真っ白になる。なんで、生きているの。今まで何度も考えてきたこと。でも、それでも生きなくちゃいけないって何故だか強く思ったから、だから私は生きてきた。
でも。
「そう、だよね……私なんて、生きてちゃダメだよね」
私は差し出されたカッターナイフに手を伸ばす。こんなもので死ねるのかな。わからないけど、もうわからないことばかりで何もわかりたくなかった。私はただ言われるままに動けばいいんだ。
でもそれを喉に突き刺そうとした瞬間、異変は起こった。女の子の表情がおかしなことになったかと思うと、口から何かを吐き出しながら地面に倒れていった。糸の切れた人形のように。そして女の子の代わりに私の前に男の子が立った。知らない顔だった。でもその人は私を見ると顔色を変えた。
「ちょっと、なにしてんの!」
すごい形相で私の手からカッターを引ったくる。それはその女の子のものだからとったらダメなのに。そう伝えると、男の子は変な表情をした。
「そんなのどうだっていいじゃん」
「よくないよ、だってあなたが悪い人になっちゃうもの」
「……じゃあ返すけど、アンタはもう使わないでよね」
男の子はそう言うと、女の子の背中の上に無造作にそれを置いた。女の子は動かない。ピクリともしない。
ぼんやりと女の子を眺めていると、男の子は「そんなに見るもんじゃないって」と言って、私の顔を隠してしまった。
「でも、あの子、動かないよ」
「そりゃ死んでるもん」
「人はそんな簡単には死なないよ」
「でも心臓刺しちゃったし死んでるって」
「刺しちゃったの」
「うん、刺しちゃった」
男の子は手を離すと、私の顔を覗き込んでちいさく笑った。近くで見ると、不思議な目をしていることがわかる。とてもきれいね、と言うと男の子は笑みを深くした。アンタもきれいだよ、なんて言って頬を撫でてくる。
「でも人を刺すのはいけないことなんだよ」
「知ってるよ」
「警察に行かなきゃいけないんだよ」
「俺は行かないけどね」
ふふん、と男の子は得意気に言った。その時ようやく男の子の傍らに刀が落ちていることに気がついた。
「行かないならどうするの?」
「そりゃ逃げるに決まってるじゃん」
「ずっと?」
「ずっと」
ジャージ姿の男の子は胸を張った。これから家に戻って旅の支度しないとね、なんて軽く言ってのける。すごい人だと思った。私は弱くて何もできなくていつも逃げてばかりで。なのに私と同じくらいの年頃の男の子は私にできないことをあっさりやってのけようとする。強い人、そしてきっと、優しい人。
「……それは、ダメだよ」
私は男の子の手を掴んだ。思ったよりかたくてびっくりした。でもこの手は私を殴ったり酷いことしたりする手とは違う。優しくて、温かな手。これでお別れなんて寂しいけど、私はこれ以上を望んではいけない。
「なに、止めるつもり?」
男の子はなんだか面白がるような調子だった。きらきら光る目は赤く燃える1等星。やっぱり、とってもきれい。
「止めるよ、止めなきゃいけないもの。だってあなた、悪い人じゃない。悪い人じゃないから、悪い人にされちゃダメだから。だからね、」
要領を得ないしゃべり方。頭の中で言葉がうまく纏まらなくて、浮かぶままに口にするものだから、こんな話し方になってしまう。それが私のダメなところのひとつだってみんなが言ってた。
でも男の子は辛抱強い質なのか、横槍を入れることはなかった。黙って私の言葉を待っていた。だから私は大きく息を吸い込んで、言った。
「私が、行くよ。私が全部やりましたって。きっと、私なら信じてもらえるもの」
言った。言ってしまった。本当はとてもとても怖かった。頭には今も仕事をしているであろうお母さんの姿が浮かんだ。申し訳なくて、私はお母さんから顔を背けた。
それでもこの人を悪人に仕立てあげるよりはずっとマシだと思った。彼は優しい人だから。私よりたくさん守るものがあるはずだから。そして何より。
「ホントはね、私がやらなくちゃいけなかったんだと思う。他の誰でもなく、私が。人の手なんて借りずに、私が私で解決しなきゃいけなかったの」
「そんなの、別にどうだっていいじゃん。結果は同じだし」
今まで黙って聞いていた男の子が口を挟んだ。
「悪いけど、俺は譲る気はないからね」
不思議なことを言う。この人は、悪い人になりたいのだろうか。私はあんぐりと口を開いてしまった。変な顔、と男の子が笑う。
「どうして、そんなこと言うの?」
「簡単なことだって。アンタを警察に渡したくない、それだけ」
「私だってイヤだよ。あなたを大変な目に合わせたくなんてない」
堂々巡り。決着が見えなくて、私は途方に暮れた。優しいけど、結構頑固な人だ。
そんな私とは対照的に、男の子はきらりと目を輝かせた。「いいこと思いついた」男の子はそう言うと、私の手をとって立ち上がらせた。そして私の身体についた汚れを払い落とすと、頬を両手で包み込む。
「じゃあさ、俺と一緒にこない?」
「一緒に?」
「そ。二人旅でもしようよ」
「でも私じゃあなたの役には立てないよ。それよりずっと迷惑になっちゃう」
「ならないよ、絶対」
男の子はまた私の手をとり、もう片方の手で落ちてた刀を拾い上げた。そのままどんどん歩いていって、動かない女の子を置き去りにしていく。
「私、どんくさいよ」
「俺がどんくさくないからプラスマイナスゼロでしょ」
そんなの屁理屈だ。言い返そうとしたけど、私じゃこの人に勝てない気がして諦めた。
「まずはアンタの家に行って、それから俺のとこね。荷物はできるだけ少なくして。ぱぱっと纏めてどこ行くか決めよう」
「どこか行くところあるの?」
「ないけど?」
男の子はあっけらかんと言い放った。無計画、無鉄砲。その勇ましさはどこからくるんだろう。前を歩く男の子の背中をまじまじと見つめた。その内、思考はどうしてこの人がそこまでしてくれるのか、ということに移っていく。
どうして、この人は。出会ったばかりで、私についてなんの責任も負う必要のないこの人が。なぜ私の手をとって無謀なことをしようとするのか。聞いてみたいけれど、それはまだ早いような気がして口にするのは躊躇われた。
代わりに私は、男の子の手を握った。強く、強く。その分だけ、男の子も握り返してくれる。
行く宛なんてない。それでも、この手だけは離してはいけないと。そう、思った。
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人間となっても加州は生きてる実感がなかった。何がしたいということもない彼は、もしかしたらかつての主や仲間たちもこの世界にいるかもしれないと思い、旅に出る。そうすれば自分も人間らしく生きれるようになるんじゃないか、と。
主のことも最初は主としか見てなかった。でもかつての主とは違う部分を見つけるようになり、やがて恋をする。そうしてようやく主も自分も人間だと実感する。
最後は今の本当の名前を呼んでもらって終わり。
というメモが発掘されました。2年も前のものですが勿体無いので供養しておきます。