ディエゴ√【赤い糸/1890】
レース中、両片想い設定。
目覚めた名前の小指には赤い糸が結ばれていた。
「これは……」
最初は夢の残滓かと思った。しかし目を擦ってみても糸は消えない。左手の小指からは相変わらず赤い糸がぶら下がり、それは部屋の外までも繋がっているようだった。
──ではいったいなんなのだろう?
考えてみても答えは出ない。悪戯かとも一考したが、しかし侯爵家の使用人は皆真面目だ。第一理由がない。糸はただそこに存在しているというだけで、それ以外の変化を齎しはしなかった。
そもそも、使用人たちにこの赤い糸は見えていないらしい。名前は内心ドキドキしながら反応を窺ったが、レディースメイドの顔色には少しの変化も見受けられなかった。目に留める様子さえなく、名前は戸惑いを覚えた。
──ならば幻覚とでもいうのか。こんなにもはっきりと見えているのに?
病か、それとも?名前は超自然的な力について懐疑的な立場を取っていたが、婚約者が奇妙な能力を使うようになって以来その考えは揺らいでいた。
「いかがなさいましたか、名前さま」
「いいえ、なんでもないわ」
目敏いメイドに訝しまれ、名前は慌てて否定の語を紡ぐ。動揺のために口にした紅茶は美味しいのかさえわからない。否が応にも視界に入る赤色に、平静を装うので必死だった。
「ディエゴはもう起きているかしら」
「ブランドーさまでしたら外に出ているようです」
「こんな朝から?」
「はい、散歩に行くと」
「そんな趣味あったかしら……」
名前は上の空で呟く。
窓からはホテルの中庭が見えた。レンガの敷かれた小道に薔薇のアーチ。祖国を思い出す造りに、しかし心は浮かない。この部屋から見えるところには、どこにもディエゴの姿は見つけられなかった。
「急ぎの用ですか?」
メイドの目がきらりと光る。……ような気がした。でもたぶん気のせいだ。
「そういうわけではないけど」わかっているのに、勝手に居心地の悪さを感じてしまう。
「婚約者の居所は知っておきたくて」
言い訳がましいと思うのは彼との関係が契約に過ぎないと理解しているからだ。本当に彼のことを愛しているなら、この言葉もきっと至極平凡な響きを持つ。
──愛しているなら、ですって!
それが意味のない仮定であることは名前自身が一番よく知っていた。『愛ゆえの死』なんてものは歌劇の世界でだけ。誇りのために死ぬことはできても愛のために命を賭ける自分は想像できなかった。
「朝食のあとはいかがいたしますか?」
「そうね、……たまには部屋でゆっくり休むわ」
メイドの問いに少し考えてから答える。同じホテルに宿泊するジョニィやジャイロに相談することも考えたが、あまり大事にはしたくなかった。自身に原因があるなら迷惑をかけたくなかったし、そもそも彼らにだって糸は見えないかもしれない。
となると不用意な行動は避けるべきだろう。現在のところ差し迫った危険はないようだし、いずれ自然に治るかもしれない。レースが再開するまでは部屋に引きこもっているのが一番だ。
「ブランドーさまをお呼びしますか?」
「……それには及ばないわ」
そう言ったのに、メイドには名前の不安などお見通しだったらしい。
「いったい何の用だ?君のとこのメイドに呼ばれたんだが」
朝食を食べ終えた後、まるで見計らったかのようにディエゴが部屋を訪れた。名前は咄嗟に黒髪のメイドを見やるが、彼女は鉄面皮を崩さない。けれど彼女以上に名前をよく知る人などこのホテルにはいなかった。
感謝の気持ちを眼差しで伝え、そしてディエゴへと視線を戻した名前はしかしすぐに『あること』に気づいた。
「ディエゴ、あなたそれ……」
「ああ、」
名前の視線の先を辿り、ディエゴは軽く頷く。そしてメイドに退出を促し、彼女が部屋を出るやいなや「この珍妙な糸のことか」とあっさり悩みの種を言い当てた。
そんな彼の左手、その小指には赤い糸がひとつ。しかもそれは名前の小指へと繋がっていた。
「なんだ、君にも見えるのか。てっきりオレ以外に見えないのかと」
「わたくしもそう思っていたわ」
名前は驚きと些かの安堵で声を震わせた。孤独感は過ぎ去り、指先まで行き渡っていた緊張も解れる。どうやら自分で思う以上に気を張っていたらしい。とはいえそれを明らかにするつもりはないが。
名前は紅茶を注ぎ、彼の前に置いた。ディエゴはいつだって冷静で、今もゆったりとした所作でティーカップを傾けている。そんな彼に淑女らしくない姿は見せられなかった。彼に失望されるより恐ろしいことなど、この世には数えるほどしかないとさえ思った。
「あなたはどう考える?この糸、いったいどんな意味があるのかしら」
訊ねると、ディエゴは一考した。
「意味、か……」
俯くと、その目許に深い影が落ちる。対照的に輝きを増すのは翠の眸。夜の森はこんな感じなのかしら、と名前は思う。妖しく、美しい。そこには神秘の生まれる気配があった。
「赤い糸といって思いつくのはなんだ?」
「思いつくこと?そうね……」
反対に問い返され、改めて考えてみる。
ディエゴと繋がっていた赤い糸。伸縮自在らしいそれは今のところディエゴと名前にしか見えていない。実害もなさそうだ。
だから今朝よりも落ち着いて思考を巡らすことができた。赤い糸。男と女。現実離れした話。その連想の果てに行き着くところといえばおのずと限られてくる。
「そういえば『アリアドネーの糸』も赤色だっていう話よね」
クレタ王ミノスの娘、アリアドネー。彼女は迷宮の怪物ミノタウロスを倒すべくやって来たテセウスに恋をし、彼に赤い糸を手渡した。お陰でテセウスは迷宮から無事帰還することができ、アリアドネーも彼と結ばれることが叶った──そう伝えられている。
しかし思いつくものといえばそんな伝承くらいだ。現状に関わりがあるとは思えない。このフィラデルフィアの街に怪物が現れたとでもいうのか?それこそ『まさか』だ。そもそもこの街に迷宮なんて代物はない。
だからだろうか。ディエゴはつまらなそうに「他には?」と続けて問い質す。他に有益なことは思いつかないか、と。
「他に?……ダメね、この手の話は詳しくないのよ」
「もっとよく考えろ。君の取り柄といえばこれくらいなんだからな」
「失礼ね、それ以外にだってあるわよ」
嫌みに眉根を寄せるが、それで知識が増えるわけでもなく。名前は手を挙げ、降参の意を示した。
「やっぱりそれしか思いつかないわ。難問解決の鍵、運命の恋人同士を繋ぐ糸、他に何かあったかしら?」
ディエゴにもわからないなら仕方ない。気は進まないがジョニィやジャイロに相談するのも視野に入れるべきだろう。レースに影響が出ては困る。
考えながら言って、そこで名前は自分の言葉によってディエゴが奇妙な表情を浮かべたのに気づく。
「ディエゴ?」呼び掛けに応じるかのように吐かれたのは溜め息。
「君は本当に……気のきかないやつだな」
ディエゴは名前を非難し、「つまりは『そういうこと』だろう」と訳知り顔で首を振る。
けれど名前にはさっぱりだ。ディエゴほど頭の回転は速くない。知識の量でも彼には及ばないだろう。
「どういうこと?」
「オレに説明させる気か?」
「だって……わからないわ」
「……君が今自分で答えを出したじゃないか」
「わたくしが?」
しかしどうあってもディエゴは自分の口から説明するつもりはないらしい。すっかり口を噤んで、二杯目の紅茶を今度は自分の手で注ぐ。それを眺め、名前は自分の言葉を思い返した。
『難問解決の鍵』、『運命の恋人同士を繋ぐ糸』──『繋ぐ糸』?
「では運命だと言うの?わたくしたちが?」
現状と照らし合わせて一番近いものといえば『これ』だ。
でも俄には信じがたい。今は十九世紀も終わりだ。神話の世界は遠い過去。妖精の存在も滅んで久しい。そんな気持ちが思わず口をついて出ると、紅茶を飲んでいたディエゴが喉を詰まらす音がした。
「大丈夫?」
「ああ、平気だ。ちょっと気管に入っただけ」
幾度か咳をして、ディエゴは平静を取り戻す。でもその目許は微かに赤らんでいた。
たぶん勢いよく噎せた影響だろう。珍しいこともあるものだ、と名前は思う。彼がこんなことで動揺するとは思えない。やはりこの思いつきは間違っていたのだろうか。
けれどディエゴが否定することはなかった。彼は「ようするにそういうことなんだろう」と結論づけた。問題は解決していないのに何故だか満足そうだ。名前としては悪影響がないか気が気ではないのだが。
「でもどうして急に見えるようになったのかしら」
「さあな、それが君のスタンドなんじゃないか?」
「適当なこと言わないでよ、他人事だと思って……」
投げやりにさえ聞こえるディエゴの答えに名前としては納得がいかない。結果には原因があるはずだ。理由を知り、納得ができなければ前に進めない。少なくとも名前はそう考える。
けれどディエゴは違うようだ。「放っておけばいいだろう」と言う。そんな彼に名前もつい口を尖らせた。
「あなたが原因かもしれないわよ」
「オレが?どうして?」
「……ほら、昨晩あなたがホットチョコレート淹れてくれたじゃない。そういう珍しいことするから変なことが起きるのよ」
こんなのは言いがかりだ。名前だってわかってる。ディエゴが「バカ言うな」と強めに否定するのも当然と言えた。
「まさか不満なのか?このディエゴが相手で?それこそまさかだろう」
「別にそうは言ってないわ」
「フン、そう聞こえたがな」
機嫌を損ねてしまったらしい。ディエゴは苛々と足を組み替えた。でも部屋を出ていくことはしない。
名前は目の前の青年を改めて見つめた。ディエゴ・ブランドー。私の婚約者。高慢でプライドが高く、他人のこととなるととことん冷徹になれる人。
でも私はそんな彼に認められたかったのだわ、と名前は思う。氷のように冷たい人。彼は他人を正しく評価する。身分だとか性別だとか、そういうものに囚われることなく私を見た。評価を下し、その上で私を選んだ。
──まさかそれすらも運命だとでも言うのだろうか?
「……わからないのよ、どう受け止めるべきなのか」
名前は苦渋に満ちた声を溢した。
「運命なんて知りたくなかったわ。ううん、知るべきじゃなかったと思う。本来だったら目に見えないものを理由にしたくないもの。運命だったからあなたと結婚するとか……なら運命じゃなかったら?もしも赤い糸が繋がっていなかったらあなたはこの婚約を破談にしていた?」
ディエゴが他の女性の手を取る。私ではない、他の誰かの。
その想像に名前の胸は痛んだ。思いもがけず強く、狂おしく。口にしたのは自分なのに、言いながら泣きたくなった。イエスと言われるのが怖かった。
真っ直ぐ見ることができなくて、名前は俯いた。彼の答えが知りたいと思うのと同じだけ、知りたくないとも思った。聞かなければよかったとも後悔した。
「……仮定の話をして何になる」
ディエゴが溜め息を吐く。
それを気配で察し、名前は内心身構えた。制止することも耳を塞ぐこともできないなら、これが精一杯だ。出来る限りの自衛をして、ディエゴの答えを待った。
「オレたちは赤い糸で繋がってた。それだけで十分じゃないか」
「でも、」
「……それとも、他にまだ欲しい言葉があるのか?」
しかし返ってきたのは耳慣れない優しい声。仄かな甘さと弾む音に、名前は顔を上げる。
「欲しい言葉……」
ふと思い出されるのは『本当に愛しているなら』という言葉。『愛ゆえの死』なんてものは歌劇の世界でだけ。誇りのために死ぬことはできても愛のために命を賭ける自分は想像できない。
そんな思考を思い出したのは、彼が『仮定』という単語を用いたからだろうか。それとも──その続きは考えないようにして、焦がれるほど美しい翠の海に手を伸ばす。
「それなら聞きたいわ、あなたに……あなたなら不気味な夜の森にも足を踏み入れることができる?婚姻のために魔弾を求めることが?」
名前が引用したのは歌劇『魔弾の射手』の世界。射撃の名手が恋人との結婚を認めてもらうため、必中の魔弾を求めて呪われた渓谷へと向かうのだ。すべては愛ゆえに。悪魔の呪いすら跳ね返すほどの清らかな愛のために。
名前はそれを歌劇の世界だけだと判じた。そんなものはあり得ない。私には縁のないものと考えた。
なのにディエゴは笑った。得意気に、自信たっぷりと。笑って、名前の手に己のそれを重ねた。
「オレは既にその覚悟を示したつもりだったが?」
ディエゴは言う。「このレースこそがオレの魔弾だ」と。断言され、名前は一瞬息を呑んだ。
確かにそうだ。命懸けのこのレースすらディエゴは交渉の材料にした。優勝の暁には侯爵家をいただく、と。そしてそこには名前との結婚も含まれていた。
それで──十分ではないだろうか。
「……そうね、あなたの言う通り」
名前はぎこちなく微笑んだ。
命を差し出せるほどの愛はまだ見つからない。でももしその必要があったなら──そしてそれがディエゴを救うためならば──迷うことなく賭けに応じるだろう。今はそれさえわかっていればいい。
だから視界の隅で糸が粒子となって光に溶けていっても気にならなかった。