ジャイロ√【赤い糸/1890】


レース中、両片思い設定。





 重厚な扉の前に立ち、息を整える。
 それでも強ばりが解けないのは、視界の隅で揺れる赤色があるためだ。

「はぁ……、」

 今朝目覚めた時から変わらず左手から伸びる赤い糸。小指に結ばれたそれはホテルの部屋を出て、一つ下の階に降りてもなおどこに続いているのか杳(よう)として知れない。
 一息で吹き飛ばされそうなほど頼りないのに、決して切れることはない糸。おまけに今のところ名前以外の者には見えていないとすらきている。
 気でも触れたか、それともまた不可思議な力が働いたためか。いずれにせよ、早急に答えを出す必要があった。
 そしてそれは自分一人でできることではないのだとも名前は理解していた。

 だからこの部屋を訪うことにしたのだ。たった一人、使用人さえつけず。──ジョニィとジャイロの宿泊する部屋までやって来た。

 その事実を改めて実感し、名前は扉をノックしかけた手を止めた。
 思えばホテルとはいえ父親以外の異性の部屋を訪ねるのは初めてのことだ。しかも今日はメイドの一人さえ連れていない。事が事だから巻き込んではいけないと考えてのことだが、やはり不用意だっただろうか。
 そう悩んでしまうのは名前が歴史ある侯爵家に籍を置いているからに他ならない。
 もしもこの行動が軽率だったと世間から非難されたとして、迷惑を被るのは彼らだって同じだ。いや、もしかすると名前自身よりも酷い中傷を向けられるだろう。父はきっと家名を守るためならどんなことも躊躇わない。そんな彼にとって新聞社に働きかけるくらいわけないことだ。
 侯爵家の一人娘を甘言で惑わせた──などと不名誉な記事が新聞に載ることになったらジョニィたちに申し訳ない。何よりこれは彼らの今後に関わってくることだ。

「……やっぱりやめておこうかしら」

 名前は溜め息を吐き、手を下ろした。
 部屋に戻って大人しくしていよう。それに散歩に出ているディエゴもじきに帰ってくるはずだ。彼が素直に救いの手を考えてくれるかは微妙なところだが──でも他に頼る宛はない。
 諦め、踵を返しかけた時だった。

「おっ、名前じゃねーか。どうしたよ?ジョニィに用事か?」

 あんなにも重たげだった扉が、目の前でいとも容易く開かれる。
 向かいの窓から差し込む陽。朝のまだ白々とした光が青年の輪郭を縁取る。煙る銀の髪に深い紫水晶の瞳。神秘的な色が、日差しの元で快活に綻ぶ。
 ジャイロ・ツェペリ。名前より幾らか歳上の彼からは遠い異国の気配があった。名前の知らない土地の匂い。乾いた青空や爽やかな潮風。そうしたものを纏うから、彼を見上げる目にも憧憬が滲む。
 ──手が届かないから、美しいもの。
 名前は目を細め、微笑んだ。強ばりはいつの間にか解(ほど)けていた。

「ごめんなさい、朝早くから」

「いや、オレもちょうど暇してたとこ。悪いな、あんたが来るならジョニィを引き留めときゃよかった」

「彼、出掛けているの?」

「ああ。つってもホテルん中にはいるぜ。馬の様子を見てくるって言ってたからな。じき戻るだろうよ」

 「入れよ」と室内を指差され、名前は有り難く応じる。
 室内の設備に大きな違いはない。ただ内装は名前の部屋に比べて落ち着いた印象だった。壁紙に模様はなく、カーテンもまた物静かな紺色をしていた。
 大人の、それも男性向けの部屋。
 そんな些細なことがいやに引っ掛かり、名前は密かに首を振る。だからって何になるというの?お父様の部屋だって似たようなものだわ、と名前は思う。お父様だって、ディエゴだって。
 そう言い聞かせ、重ね合わせようと努めても、何故だか上手く思い出せなかった。それよりもずっと強く主張するのは、勧められるがまま腰掛けたソファの真向かいに座るジャイロのこと。彼の温かな眼差しや親しげな笑みが目に留まって、他の難しいことは考えられなかった。

「コーヒーでいいか?生憎うちは紅茶派じゃないもんでな」

「わたくし、コーヒーも好きよ」

 ジャイロは「そうか」と嬉しそうに笑った。子供みたいに無邪気に。「そりゃあよかった」なんて言うものだから、名前には小さく相槌を打つくらいしかできない。
 本当は他にも言いたいことがあった。『コーヒーも好き』、それに間違いはない。でも正確に言うならちょっと違う。『最近は、もっと』そう付け加えるのがずっと真実に近い。『目覚めに紅茶かコーヒーか聞かれるようになったのよ』それも言えたら完璧だった。
 でもなんだか言いづらくて、多くの言葉が名前の喉で塞き止められた。別に、言ったってなんの問題もないのに。なのに言葉にはできなくて、宙ぶらりんのまま名前は曖昧に笑んだ。
 そんな気持ちでも美味しく感じられるのだから、ジャイロのコーヒーには不思議な魅力があるのだと思う。

「それで?今朝はどうしたんだ?いや、ジョニィを待った方がいいなら呼んでくるが」

 湯気の立つコーヒーを飲み、その温かさに人心地ついたところでジャイロは言う。
 きっと最初から訊ねる機会を探していたのだろう。頃合いを見計らって投げ掛けられた問いに、コーヒーのためではない熱が胸中に広がった。
 名前はカップを置き、居住まいを正した。

「……実は、相談事が。ジョニィの助けも必要かどうかはあなたの判断にお任せします」

「ほう?つまりオレは試されてるってわけだ」

「ああ、いえ、あなたを侮っているわけではないの。ただ本当に……わたくしにはわからなくて」

 どう切り出したものか、と名前は眉を寄せる。
 然り気無く確認したところ、ジャイロの指に糸が絡まっている様子はない。超自然的な力を持つ者にだけ表れる『しるし』の類いかと思ったが、予想は外れたらしい。元より期待はしていないつもりだったが、思っていたよりもがっかりした。
 だからまず始めるならこの赤い糸の存在の主張からになる。でももし彼にも見えていないなら言ったところで信じてもらえるだろうか──?
 そう躊躇っていると、不意にジャイロは「ん?」と怪訝に目を細めた。

「おい、まさかケガしてるのか?」

 なんのこと、と問い返すより早く、名前の左手はジャイロの手中に。掴まれ、まじまじと見つめられ、名前は言葉を見失う。そんな時ではないのに頬が熱い。いくら慣れていないといってもこんな反応は過剰もいいところだ。そう言い聞かせ、空いてる右の手を膝の上で握り締める。そうして平静を取り繕った。

「血……じゃねーのか。よかった。しかしこりゃなんだ?最近の流行りか?」

「いえ、そういうわけではなく……。その、相談というのはこのことで、」

 何から話そうかと考えていたはずなのにすべて吹き飛んでしまった。お陰でジャイロへの説明はしどろもどろ。朝起きた時には既にこの状態だったということ、他の人には見えていないらしいことを訥々と語った。

「でもよかった、あなたにも見えていて」

 ホッとして、手を引こうとする。
 けれどジャイロは難しい顔をしたまま。なおもじいっと小指を見つめるものだから、穴でも開いてしまいそうな気分だ。

「あの、ジャイロ?」

「ん?……あぁ、わりぃ」

 呼び掛けると、ジャイロははたと我に返り、頭を掻く。どうやら物思いに耽っていたようだ。他意はない、……のだろう。呆気なく離れていく手に、少しだけ寂しく思う。

「いったい何だろうな?害はないんだろ?」

「ええ、今のところ。だから余計に納得がいかなくて」

「思い当たることは?今朝……ってことは昨晩か、何か変わったことはなかったか?」

「特別なことは……」

 記憶を辿り、「何もなかったはずよ」と答える。
 強いて言うならあのディエゴが珍しく『名前のために』と言ってホットチョコレートを淹れてくれたくらいだ。でもそんな些細なことに原因があったとは考えにくい。それに厚意を疑うのは気が引けた。いくら相手が『あの』ディエゴ・ブランドーとはいえ、だ。

「そりゃあ気味が悪いな」

 頷くジャイロに、もしや声に出ていたかと焦る。
 でも彼が「原因もわからないなんてな」と続けたことで勘違いだと知る。ジャイロが言ったのは『赤い糸』という現象についてで、昨晩のディエゴの行動を指しているわけではない。だから何も慌てる必要はないのだ。
 名前は素知らぬ顔で「そうでしょう」と答える。

「原因も、それに異変もないなんて」

 何か起こることを期待しているわけじゃないが、ただそこにある怪異というのもそれはそれで不気味なものがある。いっそのこと一思いに、と名前は赤い糸を睨めつけるが、しかしそれは変わらず空気に揺蕩っていた。
 ジャイロは「ふむ」と顎に手をやった。

「となるとやっぱりこれは『運命の赤い糸』以外の何物でもないってことか?」

「『運命の』……って、あの神話の?」

「そう、それ」

 ジャイロは笑って、心臓を撃ち抜く仕草をする。「その糸を辿った先にあんたの運命が待ち受けてるってワケ」案外それだけで解決するかもな、なんて言われるが、しかし名前の顔色は晴れない。

「確かめなくちゃいけないのかしら。この、糸の先を」

「気が進まないか?」

「……ええ、たぶん」

 名前は曖昧に笑む。助言を乞うたのは自分なのに、いざ与えられると簡単には受け入れがたいのはどうしてだろう?
 運命の赤い糸。運命の、たった一人の誰か。その人のことに名前は思いを巡らした。
 素直に考えるなら糸の先にいるのは婚約者であるディエゴのはずだ。これまでだってずっと彼の勝利を願ってきた。彼は共犯者。今さら裏切ることはできない。

 ──でももし、ディエゴじゃなかったら?

 一度その考えが過るとダメだった。
 ディエゴ以外の、誰か。そんなのは考えないようにしていた。考えないようにしていたのに、名前にはもう自分がそれを望んでいるのかさえわからなかった。
 ただひとつ確かなのは、運命を理由にだけはしたくないということ。

「やっぱりやめておくわ。運命って本来は目に見えるものじゃあないもの。それなのに……なんて、わたくし一人がズルをしているみたいで嫌だわ」

 それだけは揺るぎなかったから、名前は首を振った。迷いや未練は微塵もなかった。ただ親身になってくれたジャイロに対しての申し訳なさだけはあったから、「ごめんなさい」と頭を下げた。

「相談したのはわたくしの方なのに……」

「いいさ、それに名前の意見にゃオレも賛成。大事なのは結果じゃなく過程さ」

「そう……そうよね」

 肯定され、名前は安堵の息を吐く。同意を必要としていたわけではないけど、ジャイロにそう言われると例えようもない安らぎを得られた。
 その様子を見てか。ジャイロは親しみ深い眼差しで、「でもちょっとは気になるだろ?」と揶揄いに口角を上げた。

「運命の相手、なんてさ。誰かを思い浮かべちゃったりとかするんじゃねーの?」

「誰か、って」

「ほら、ディエゴとかジョニィとか……あるだろ?名前にも」

 深い意味なんてないのだろう。
 ジャイロが言うのはあくまで冗談であり、真意を追究しようなどという意図はない。ただ名前が勝手に痛みを覚えた。何故だかは自分でもわからないけれど、ジャイロの曇りなき眼に後ろめたさと悲しみを抱いた。
 ただ、それだけのこと。……それだけの話なのだ。

 ──だから、これでおしまい。

「名前?」

「ああ、いえ、なんでも……そうね。あなたの言う通り、」

 名前は微笑んだ。内心に渦巻く嵐は押さえつけ、ぎこちなく唇を綻ばせた。
 なんだか神聖なものが失われた気分だった。神聖なものを己の手で打ち砕いているかのように思われた。泣きたくなるほどの切なさが胸をしめ、世界は急速に色褪せていった。色も熱も感覚も、指先から遠退いていった。

「わたくしは、……いいえ、私は」

 悴(かじか)んだ唇が震える。喉の奥が凍え、頭の芯が痛む。視界がぼやけ、目眩がする。どこか、遠く。ひび割れた心が滲む。滲んで、溢れ出す。

「私は、あなたがいいわ、ジャイロ。あなたが運命だったら、私は嬉しい」

 水面に落ちた雫。さざ波が過ぎ去り、やがて静寂が広がる。
 世界は輪郭を取り戻し、名前の前に広がった。先刻までと同じ景色、同じ色。飲みかけのコーヒーカップ。風そよぐカーテン。仄かに色づく日差し。

「え、」

 その中で、見開かれるのはジャイロの双眸。
 驚きと、困惑と、それから──勘違いでなければ──僅かに滲むのは喜色の気配。目尻を染める朱の色に、今度は名前の方が目を瞬かせる。

「あの、」

「……って、冗談だよなァ!」

 口を開きかけたところ、制止するかのようなタイミングでジャイロが声を上げる。大仰に打ち付けられた掌。大袈裟なまでの笑顔。

「まったく、年上を揶揄うなっての」

 余裕ぶった態度に、名前は眉をひそめる。

「揶揄ってなんかいないわ」

 確かに勢い任せに言った言葉だった。時間を置いた今も本当のところはよくわかっていない。
 でもだからってすべてを嘘にされたくはなかった。だってあの瞬間は真実のものだった。彼が無意識のうちに作る隔たりを悲しく思った。念頭にないのだと笑う彼に悔しさが募った。その壁を打ち壊したかった。彼に近づきたかった。近づいて、同じ目線で、同じ景色を見てみたかった。そんな未来を空想した。そうであったらいいと、願ってしまったのだ。

 ──それを、嘘にしてほしくはなかった。たとえ、ジャイロにだって。

「ねぇジャイロ、どうしたらあなたは私の運命になってくれるのかしら?どんな私なら、あなたを運命の相手に望んでも許される?」

「オイオイ、いったい何言ってんのかわかって、」

「わかってるわ、正気よ。生憎とね」

「まっ、待て待て!落ち着けって!」

「待たないわ。……過程が大事だって言ったのはあなたじゃないの」

 名前は身を乗り出し、狼狽するジャイロの手を取った。
 はしたないだとか淑女らしくないだとか……そんなの知ったことかと思う。それではどうあっても彼と並び立つことは叶わない。そう悟ったから、名前は躊躇わなかった。ジャイロの手を握り、その目を真っ向から見据えた。

「今どんな運命が結ばれているかなんて知らないわ。私はただ、願いのために生きるだけ。あなたに認められる、そのための努力なら惜しまないつもりよ」

 言い切り、名前は心からの笑みを浮かべた。
 手が届かないからこそ美しい、なんて嘘。そう言い聞かせることで諦めようとしていた。最初からそんな気はないと。これでいいのだと納得したつもりになっていた。
 でも実際は違った。こうして、少しの距離で見つめた紫水晶はいつもとはまた違った輝きを放っていた。この距離でなければ知らなかった色、その煌めきに、胸が踊った。
 だから名前は気づかなかった。視界の隅、己の小指に結ばれた赤い糸が光の中に消えていくのを。

「……まったく、」

 その代わり。
 身軽になった手は彼の一回り大きなそれによって握り返された。名前にわかるのはそれだけで、それで十分すぎたのだった。