レース中、両片想い設定。
薔薇の生垣に顔を寄せ、その香りを吸い込む。レンガ敷きの小道に、薔薇のアーチ。小さいながらも祖国イギリスを思い出させる造りに、名前は心が和むのを感じる。
やっぱり庭に出たのは正解だった。赤い糸に繋がれた小指を見下ろし、名前は思う。自分以外には見えないらしい糸。不可思議な現象を前に落ち着きを失っていたが、ホテルの庭園を散策するうちに動揺も次第に薄れていった。
「ゆっくり考えていけばいいのよね」
幸いなことに差し迫った危険はないようだ。糸は風の前にそよぐだけ。特別な異変がないのなら、慌てる必要もない。そう考えることができたのも懐かしい冬薔薇たちのお陰だ。
思えば昔からそうやって心を落ち着かせてきた。イングランドの北東部、名前が幼少期を過ごしたカントリー・ハウスには広大な
そういえば、『彼ら』と出会ったのもそんな時だったっけ──?
「あれ?名前じゃないか」
そんなことを思っていたせいだろうか。
慌てて振り返った先にいたのは記憶の中の少年……その成長した姿。
でも変わらないものもある。蒼の瞳に榛色の髪。青年と呼ばれる歳となり、目線の高さが変わっても、纏う色だけは名前が覚えているままだった。
「ジョニィ」
それが嬉しくて名前は微笑む。思い煩っていたことすら忘れて。
ジョニィ・ジョースター。かつて幼少期を共にした青年は嬉しそうに笑って、名前に駆け寄った。
「驚いた。妖精でもいるのかと」
「あら。ふふっ、私がゴブリンにでも見えた?」
ジョニィに手を握られ、思わず声を転がして笑う。
そんな風に無邪気に笑ったのは久しぶりのことだった。このアメリカへ来て、彼と再会して、それでようやく本当の自分を思い出せた。
ジョニィは「酷いな」なんて言って眉を下げた。「本当にきれいだと思っただけなのに」
そんなことを言うけど、でもその目は変わらず弧を描いている。傷ついたというのは口だけ。彼もまた言葉の応酬を楽しんでいるのだということはわかった。
「わかっているわ、ちゃんと。ありがとう、ジョニィ」
「ああ、うん、それならいいんだ」
名前が言うと、何故だかジョニィは曖昧に頷いた。それから気を取り直すように咳払いをひとつ。そして辺りを素早く見渡し、「珍しいね、ひとりなの?」と訊ねてくる。
「メイドの一人も連れていないなんて危ないな」
「メイドならいるわ。ほら、あちらに」
ジョニィが
と、それまでしっかり沈黙を守っていたメイドが僅かに頭を下げた。声が届くほどの距離ではないのに不思議だ。優秀なメイドはそんな些細なことすら察することができるらしい。
そんな彼女の存在に、言われて初めて気づいたジョニィ。彼は名前の指す方に視線をやり、「……ホントだ」と呟く。
「なんだ、そっか。いや、そうだよな……」
その声が少し落ち込んでいるように聞こえて、名前は内心で『まさかね』と打ち消す。言い出したのはジョニィの方だ。落ち込む道理などない。
そう感じてしまったのは、たぶん名前の方がそれを望んでいたからだろう。昔みたいに、なんの気兼ねもなく。……なんて、今さらどうして望めるだろう?
「それより……どうしたの、ソレ」
「え?」
「だからソレだよ、その赤いやつ……なんだこれ?糸?」
目を細めるジョニィ。その視線の先を辿り、名前は息を呑む。
「見えるの?あなたには」
「そりゃあ……何?他のヤツには見えないの?」
ジョニィは怪訝に首を傾げる。見えて当たり前じゃないかとでも言いたげな調子。そんな彼に、名前は声を震わせて「ええ」と答える。
「今朝からずっと……気づいてくれたのはあなたが初めて、」
涙ぐんで、それでやっと自分が不安を抱いていたのだと知る。
気にしていないつもりだった。冷静を装って、大丈夫だと己に言い聞かせていた。
でも所詮はうわべだけ。そのつもりになっていただけで、本当のところはずっと不安だったのだ。このままだったらどうしよう、このまま──誰にも気づかれなかったら。そうしたらその内自分だけがおかしいのだと思うようになっていただろう。
だから安心して、嬉しくて──名前は目許を拭った。
「ごめんなさい、ホッとしたらなんだか気が抜けちゃったみたい」
「いや、こっちこそごめん。もっと早くに気づければよかった」
「もっと……って。そんなの無理よ、だって今朝からのことだもの。それより早くあなたが気づいていたらそれこそもう超能力じみているわ」
だから十分。何も言わずとも気づいてくれた、それだけで嬉しい。なのにジョニィは心底申し訳なさそうに眉を下げるから、名前の涙も吹き飛んだ。
でもジョニィは笑わない。名前の手を労るように撫で、じっと見つめてくる。
「けど君は不安に苦しんでた。なのにぼくはちっとも気づかず……ああ、呑気してた自分が悔しいよ」
「ジョニィったら、」
大袈裟だ。大人になった彼はちょっと過保護な部分も一緒に成長してしまったのか。小さい頃はこんなに芝居がかった物言いはしていなかった……気がする。
なんだか口説かれているみたいで居心地が悪い。名前は困って、「本当に、もう大丈夫だから」と言って然り気無く手を引いた。
でも握りしめたそれが思いもがけず熱くて、手袋をしていてよかったと思う。たぶん彼には伝わっていない。それでいいのだ、きっと。
名前は赤い糸の結ばれた小指をそっと撫でた。
「ねぇ、これっていったい何だと思う?」
「何ってそりゃあ……ほら、有名な言い伝えのアレじゃないの?運命の人に繋がってるとかいう、胡散臭いやつ」
「胡散臭いって……」
身も蓋もない言い方だ。
でもジョニィらしいのかもしれない。そういえば小さい時から彼は信仰心の薄い質だった。だから神話や伝承、まじないの類いなどもっと興味がないだろう。
そう考え、名前は「その通りかもしれないわね」と口許を緩めた。
「正直私も興味ないの。……ううん、運命なんか見たくないっていう方が正しいのかしら」
「見たくない?」
「ええ、だって……」
言い淀み、つと視線を流す。
すると目に留まるのは銀のヴェールを被った植物。冬の眠りに就くラベンダー。それを見て、耳に蘇る音色──
──どうして、今さら。
取り戻すことのできない時間を想って、名前の胸は痛んだ。なんだか無性に泣きたい気分だった。
でもそんなことはできないから、名前は笑みを作る。大袈裟なまでに明るく、晴れやかに。無邪気さを装って、名前は笑った。
「ほら、私の場合もう決まっていることでしょう?今さら違ったって言われても困るし、かといって今が運命の導きのままっていうのも……それはそれでなんだか癪じゃない」
嘘は言っていない。今を選んだのは名前自身だ。侯爵家を理想的な形で継ぐために、ディエゴの手を取る。その選択に後悔はない。例え時間を巻き戻せたとしても同じ道を選んでいただろう。
そう、わかっているのに。
「……だから、私に運命の人なんて必要ないの」
なのに、歌声が耳から離れない。
Lavender's blue, lavender's green──『それなら私は?』そう訊ねたのは幼い日の私だったことを名前は思い出していた。
その時私たちの周りは、背丈ほどもある生垣に取り囲まれていた。
私は隣に座り込む少年を見た。屈託なく、何に憚ることもなく。子供だった私は少年の顔を覗き込み、小首を傾げた。
──ラベンダーは青、ラベンダーは緑。それなら私は?
少年はゆっくりと口を開く。
「……困るの?」
「え?」
「名前は運命の相手がディエゴじゃなかったら困る?君を、困らせることになる?」
あの日の少年はもういない。
思い出の幻影が消え、冬の白々とした光が照らすのは、いやに真剣な眼差しをした青年。ジョニィは名前を真っ直ぐに見上げている。眩しいほどに澄み渡る蒼色が名前を射抜く。
「……わからないわ」
名前は絞り出すようにして呟いた。息をするのも難しい、張りつめた空気が肌を刺した。
胸元で握り締めた手にはどんな意味があるの?名前は自問自答した。震える声には?煩いくらいの心音には?予感があるのに制止の言葉が出ないのは、どうして?
──そんなの、ひとつしかない。
「それなら考えてほしい。ちゃんと……ディエゴ以外の可能性も」
それは私も望んでいたからなんだわ、と名前は思う。
その言葉を待っていた。そう言ってほしくて、だから私は今もあなたの前にいるの。だから私は、あなたの手を振り払うことができないの。
名前は「うん、」と小さく頷いた。
その胸中には様々な言葉が渦巻いていたけれど、それらすべてを口にするには些か余裕が足りなかった。感情はそれが膨大であればあるだけ喉元で躓き、口内で溶けていった。
でもジョニィには通じたらしい。
「……よかった、」
彼は心底から嬉しそうに──くしゃりと笑って、名前の指先に唇を落とす。そこに結ばれた赤い糸の存在に、名前が身を引こうとしても、なお。
彼は一切の躊躇いもなく口づけ、そして顔を上げると、今度は挑戦的な形に口角をつり上げた。
「ジョニィ?」
「いいこと思いついたんだ。見てて」
名前が『どうしたの?』と問うより早く、不思議な音がどこからか聞こえ出す。まるで何かが擦れるような──回転しているような──そんな音。そこまで考えたところで、名前はジョニィの爪が円を描いていることに気づいた。
そしてジョニィはその回転する爪を容赦なく赤い糸へと近づけ──それの切断に成功したのだった。
「そんな、まさか、」
あまりに呆気なさすぎる。あんなにも思い悩んでいたというのに……なのに糸はあっさりと千切れ、名前の小指に残ったのは腕ほどの長さの糸だけ。切り離された分の糸は、途端に宙に溶けて消えていった。
呆気にとられる名前を置き去りに、ジョニィは残った糸の先を慎重に摘まむ。
──こんなことができるのも彼がスタンド使いだからだろうか。
ぼんやりと考える名前は、ジョニィがどうしてこのような行動をとったのかまで思い至らない。だから彼が糸を自分の指に巻いて──自分の指と彼のそれが赤い糸で結ばれて──それで初めて目を見開いた。
「こんな運命じゃガッカリ?」
こんな時でもジョニィは冗談めかして笑う。名前が肯定しても否定しても、どちらでも構わない。だってこんなのは戯れの応酬で、冗談のひとつに過ぎないのだから。
──だからどんな答えを貰っても、傷つくことなんて何もない。
ジョニィはそう言外に仄めかす。けれど青ざめた双眸は笑っていなかった。むしろおののいているようにさえ見えた。
名前はジョニィを見つめた。張りつめた瞳に映る私。どうしてそんなに泣きそうなの?名前は瞳の中の自分に問いかける。緑がかった青色のドレスはまるで涙の湖のよう。切ないほどに悲しくて、そのことに今ようやく気づく。
私は、ずっと悲しかった。彼がアメリカに帰ってしまったこと。彼からの便りが途絶えたこと。──昔みたいに真っ直ぐ想いを言葉にしてくれないこと、拒絶されても平気だという風に予防線を張られたこと。そうしたことが、ずっとずっと、悲しかった。
「……歌を、思い出したの」
名前は微笑んだ。泣きそうな顔で、でも口許が綻ぶのは抑えられなかった。悲しいのに嬉しくて、嬉しいのに悲しかった。
「Lavender's blue, lavender's green……その続きを、あなたは覚えてる?」
祈るような気持ちで訊ねる。遠い昔、信じて疑わなかった永遠。楽園の歌を、名前は口ずさむ。あの頃と同じように、その『先』を求めて。
ジョニィは驚いた顔をした。でもすぐに泣き笑いに顔を歪めた。名前はジョニィで、ジョニィは名前だった。今も昔も変わらない、唯一のものがそこにはあった。
「ああ、もちろん──」
続く歌は、記憶の中の少年の声と重なった。
When I am knight, you shall be my queen──
「君が女王だっていうなら、ぼくは君の騎士になる。ぼくたちはずっと一緒だ。今度こそ誓うよ、絶対に……違えたりなんかしない」
「ええ、約束よ──」
ジョニィは恭しく名前の手を捧げ持った。「膝がつけないなんて、ちょっと格好がつかないけど」そう言って、彼は少しだけ気恥ずかしそうに笑った。
でも名前は首を振った。そんなのはどうだっていい。気にならないくらいに触れる指先が熱い。体がふわふわして、堪えきれずにはにかんだ。
「いいの、別に。なんだってよかったの。私は、ただ、あなたと一緒にいたかっただけ。立場も理由も、なんだってよかったの」
名前はジョニィを抱き締めた。ドレスの裾が地面を撫でるのも気にならなかった。だってきっともうこのドレスは私に似合わない。晴れ晴れとした予感に、名前は思う。
次に仕立てるならもっと明るいドレスがいい。例えばそう、初夏の日差しのような。
温かな光の中で名前は想像した。ジョニィと共にあの懐かしい庭を歩く自分の姿を。その時浮かべているだろう心からの笑顔を思って、名前は満ち足りた気持ちになった。
だから赤い糸が小指から消えていっても、最早少しも気にならなかったのだ。