Dio√【原作沿い/1891.1】�T


 ──胸騒ぎがする。

 第七ステージの終わり、第八ステージの始まり。フィラデルフィア、ベンジャミン・フランクリン・パークウェイでディエゴを見送って以来、嫌な感覚が纏わりついて離れない。
 名前は最初、それがレースも終盤であるためだと考えた。長い長い大陸横断レースの終わり。婚約者の勝利を願うがための緊張なのだと思った。それはもしかすると自分の安心のために言い聞かせていただけなのかもしれない。
 だって最後に見た彼は名前の知るディエゴ・ブランドーそのものだった。子供の頃から変わらない、いつも余裕たっぷりで、自信に満ち溢れたその姿。第八ステージの出発を見送った時も、彼は笑っていた。
 笑って、名前に口づけて、そして囁いた。『名前、君が考えておくべきことならひとつだけある』と。

『帰国したらすぐに日取りを発表する。だからドレスのデザインなんかはさっさと決めておくんだな』

 それは勝利宣言だった。第八、第九ステージとレースはまだ残っているのに、彼は勝利を確信していた。

 ──だから、何も不安なんて感じる必要ないのに。

 なのに、ニュージャージー州ユニオン・ビーチで怪我ひとつない彼の姿を見た時、途方もない安堵が体を襲った。

「ディエゴ……ッ!!」

 大勢の観客のことなど最早思考の片隅にもなかった。レース関係者の人波すら掻き分け、ディエゴの元へ駆け寄る。そしてその勢いのままに彼を抱き締めた。

「ああ、よかった!本当に、あなたが無事で……、ルーシーがいなくなって、スティール氏も見当たらなくて、私、あなたまで何かあったんじゃないかと思って、……怖かったの」

 口に出して、理解する。
 そうだ、私は怖かった。恐れていた、ディエゴを喪ってしまうんじゃないかって。この温もりも、匂いも、肌の感触も、もう二度と帰ってこないんじゃないかと思って──ずっと、怖かったのだ。
 名前はディエゴの頬に手を添えた。澄んだ、緑の眸。変わることのない色に、涙が滲む。
 あぁ、ディエゴだ。間違いない。私が愛したいと願ったただ一人のひと。彼のいない人生など今さら考えられない。私が、この人を幸せにするのだ。

「ねぇいったい何があったの?あの人……大統領はどこ?遺体は取り戻せたの?」

 周囲に視線を走らせるが、大統領の姿は見えない。ディエゴが取り引きをし、裏切った相手。アメリカ合衆国大統領、ファニー・ヴァレンタイン。彼ほどの男ならすぐにわかるはずなのに、どこにも見当たらない。
 もう決着はついたのだろうか。大統領は既にこの世にいないのだろうか。聖なる遺体を巡る争奪戦が終わったというなら安心もできるが──

「ディエゴ?……聞いてる?」

 そこで名前はようやくディエゴが一言も発していないのに気づいた。どころか、彼は名前の腰に手を回すことすらしない。いつもなら周囲へのアピールを欠かさないのに。らしくない態度に、興奮していた名前も訝しむ。
 すると、ディエゴはハッと息を呑んだ。今まさにこの瞬間、意識が体に帰ってきたみたいに。我に返ると、すぐに整った笑みを浮かべた。

「ああ、聞いているよ。悪かったな、色々とあって気が抜けていたらしい」

「……平気なの?具合が悪いのではなくて?」

「体のことなら問題ない。むしろ頗る調子がいいくらいだ。君の顔を見れたからかな」

 ディエゴの声は甘ったるく、蕩けるようだった。でもだからこそ名前は納得がいかない。
 「それならいいわ」と頷きはしたが、違和感は拭えなかった。どうしてだろう?上手く言葉に言い表すことはできないが、据わりの悪さが残る。眼差しがどこか遠く、まるで知らない人のようだった。

「遺体のことも心配は無用だ。今詳しく話すことはできないが……このレースが終わればそちらも片がつく」

 辺りにまた一際大きな歓声が鳴り響く。どうやら五位の選手がゴールしたらしい。ディエゴの背後、名前は目を細め、それがジョニィ・ジョースターであるのを確認した。
 彼は何かを探しているみたいだった。あちこちに視線をやり、そしてこちらに目をやると顔を歪めた。そういえばジャイロは一緒じゃないのだろうか?彼の次に入ってきたのはジョージー・ポージーという男だった。

「ねぇディエゴ、ジョニィがゴールしたわ」

「ん?ああ、そうか」

 名前はジョニィたちが遺体を必要としているのを知っていた。知ってしまい、悩んだ末にディエゴを選んだ。彼と共に願いを果たす。そう決めた今、ジョニィに会うのは気まずいものがあった。彼が昔馴染みであり、好ましくも思っているからこそ。
 しかしディエゴはさしたる注意も払わなかった。ジョニィの名を呼ぶ放送は彼にも聞こえているはずなのに、『だからどうした』といわんばかりの気のない返事をした。
 彼は名前の肩を抱いた。「それよりすぐ次のステージが始まる」にやりと笑う彼はえらく機嫌がいい。長いレースも終わりが見えてきて、少々ハイになっているのか。
 名前は戸惑いながらも「そうね」と相槌を打つ。視界の隅で、ジョニィが踵を返すのが見えた。

「終わったら聞かせてちょうだいね、どんなことがあったのか」

「ああ、勿論。だから最後まで戦い抜けるよう、オレの望みを聞いてくれないか?」

「望み?」

「そうだ。おまじないでもあるかな」

 ディエゴは喉の奥で笑うと、名前の耳に唇を寄せた。

「君の想いの籠った口づけがほしい」

 名前は目を瞬かせ、ディエゴの顔を凝視した。
 ほんの少しの距離にある、神がかり的な容貌。畏敬の念を抱かせるほどに美しい顏(かんばせ)を信じられない気持ちで見つめ、彼に引く気がないのを悟ると、諦めに吐息を揺らした。今日のディエゴは少し強引だ。

「……目を、」

「閉じたら君が見えなくなる」

「……仕方ないわね」

 名前は嘆息し、ディエゴの頬に口づけた。
 数えるほどの時間もない、一瞬のこと。挨拶にも似たものなのに、唇を離した後に気恥ずかしさが生まれる。真っ直ぐ見つめることができない。
 ……第七ステージが始まる直前の晩には、もっと大胆なことだってできたのに。

「……そこは唇にするところだろう」

 ディエゴは不服そうに口を曲げるが、これ以上は応じられない。
 名前は「バカ言わないで」とディエゴを睨めつける。

 ──唇へのキスですって?そんなのできるわけがない!

「あなたにはこの人混みが見えていないみたいね」

「興味のないものは見えない質でな」

「……都合のいい体ですこと」

 言い分に呆れた声を出す。でも内心には安堵もあった。自分勝手な物言いは名前の知るディエゴと同じだ。つまらないことで不満を露にするのも、そうすると少しだけ幼く見える顔も。
 自分の知るディエゴとの共通項を見つけ、名前はホッとした。違和感なんてものは勘違いに過ぎなかったのだ。きっとこの浮わついた空気にあてられたせい。
 そう言い聞かせ、名前は表情を改めた。

「レースはまだ終わってないわ。気を抜かないで、絶対に負けないで」

「当然だ。このDioが敗北するとでも?」

 ディエゴは片眉を持ち上げた。
 そんな些細な仕草すら彼だと一枚の絵画になる。繊細なのに大胆で、力強いのに美しい。
 よく知った表情に、名前は口許を緩める。『いいえ、思わないわ』そう答えるのは今さらだ。だってディエゴもわかってる。彼とは何度も同じやり取りを交わしてきた。
 だからその代わりに微笑んだ。

「ええ、私にも見えているわ、勝利したあなたの姿が。あなたは他の誰にも負けない。その確信があるから、私はあなたを選んだんですもの」

 言い切ると、ディエゴは少し驚いた風だった。僅かに目を見開き、しかしすぐに自信ありげに口角を上げた。

「ああ、その通りだ。よくわかってるじゃないか」

「それこそ当然じゃない。私たちもう十年近い付き合いになるのよ?」

「……そうか、もうそんなになるのか」

 ディエゴは目を細める。今まで念頭になかったかのように。そんな彼がおかしくて、名前は思わず「どうしちゃったの」と笑ってしまった。

「まさか忘れたなんて言わないでしょうね?あなたが口にした数々の憎まれ口、忘れた日はないのですけど」

 名前が冗談を言うと、ディエゴは「そうだったかな」と白を切る。

「オレが侯爵家のご令嬢にそんな無礼を働くだろうか」

「お忘れかもしれないけど昔から随分な口の利き方をしていたわよ、あなた」

「ほう?そんな風に思ってたのか」

 ディエゴは「ならこういう無礼も許してくれるよな?」と 続ける。
 ニヤリと弧を描く口許。嫌な笑い方だ。悪巧みを思いついた少年のそれ。名前は眉を寄せ、一歩足を引いた。
 でもそれよりディエゴの動きの方が早かった。引いた分だけ詰められる距離。淀みのない手が捉えるのは名前の腰。掴み、引き寄せ、奪い去る。唇を、吐息を、熱を。

「……っ」

 暴かれ、最初は目を見開いていた名前だったが、我に返るとすぐにディエゴの胸を叩いた。
 すると熱い唇は呆気なく離れていく。これまでの強引さが嘘のように。拘束をほどかれ、しかし名前はディエゴに鋭い眼差しを向ける。

「なっ、何を考えているの……!」

 頬が火照るのは呼吸を奪われていたためだけではない。遠ざかっていた歓声が近くにまで帰ってくる。
 注目を浴びているわけではないのに、いやに周りの視線が気にかかる。そんな名前とは対照的に、ディエゴは涼しい顔。ひょいと肩を竦め、「君がしてくれないからさ」と嘯く。名前の羞じらいなどは目に入っていない。

「……もう」

 そんな具合であったから、名前も言い募る気が失せた。諦め、やがて表情に笑顔が戻ってくる。ドキドキして、落ち着かなくて、なのにそれでも頬は緩んでしまうのだから不思議だ。
 これが人を愛するということなのだろうか?──そうだったらいいと、名前は思う。

「……そろそろ時間だな」

 ディエゴが言う。遠くではレース参加者の集合を呼び掛ける放送が響いていた。選手はこれから船に乗り、その後最終ステージを駆け抜ける。
 ディエゴが体を離す。遠ざかる体温、指先が惜しむように見えたのは名前の願望が見せた幻だろうか。少なくとも名前は寂しく思った。別にこれっきりなわけじゃないのに。これから先、ひとつの夢を果たした先には新しい未来が待っているはずなのに。
 引き留めたくなる手を押さえ、名前は微笑んだ。

「待っているわ、トリニティ教会で。あなたが一番にゴールするのを、待ってる」

「ああ、……すぐに戻る」

 きっとあっという間だ。勝負はすぐに決する。
 船へと向かうディエゴの背を見送り、名前は息をつく。

 ──どうか、無事で。

 今の名前が祈るのは、婚約者の身の安全だけだった。