四ヶ月もの時間をかけて行われた北米大陸横断レース、スティール・ボール・ラン。その終着地、マンハッタン島トリニティ教会は観客の発する熱気に包まれていた。
割れんばかりの歓声と拍手。それは殆ど轟音といってもよかった。誰も彼もが浮かれ騒ぎ、レースを制した勝者に惜しみない祝福を送っていた。
「待ってディエゴ、どこに行くの……!?」
なのに彼は一瞥もくれない。ようやくこの波乱に満ちたレースが終わったというのに、人心地つくこともなくディエゴは何処かへと向かおうとする。それも騎乗したままでだ。
何をそんなに急ぐことがあるというのだろう?ディエゴの元には彼から一言貰おうと詰めかける人々がいた。そんな記者の手すら振り払うものだから、いよいよもって『らしくない』。
だから名前は慌てて駆け寄る。「そんな傷でこれ以上動くなんて無茶よ」言っているうち、鼻につくのは強烈な血の臭い。鮮やかな朱はその傷の真新しさを示している。ディエゴの右足は膝から下が丸っきり切り取られていた。
「どこかへ行かなくちゃいけないならそう言って。私が連れていくわ、せめてそれくらいはさせてちょうだい」
懇願すると、ディエゴはやっと名前を見た。
馬上から向けられる目。青ざめてすら見える瞳はひどく冷たい。唇から色が失われているのは多くの血を流したせいだろうか。戦慄く肌に、胸が痛む。
「……そうだな、そうしてもらおうか」
「ええ、任せて」
名前は力強く頷き、ディエゴの代わりに鐙へと足を乗せた。
ディエゴの愛馬、シルバー・バレット。この馬のことも名前はよく知っている。興奮冷めやらぬその背を撫で、名前は背後のディエゴに視線をやった。
「それで?どこへ向かえばいいの?」
「すぐそこだ。トリニティ教会、墓地の裏手……」
「わかったわ」
言い終えると、ディエゴは名前の肩に顔を埋めた。無理をしていたのは明白だ。そうでなければ彼が他人を頼ることなんてなかったろう。
名前は唇を噛んだ。背中と首筋に感じるディエゴの肌。凭れかかるその体は冷たく、冷や汗が伝っている。
救いといえば意識を保っているという点くらいだ。振り落とされないよう、ディエゴは名前の腰を掴んでいた。だから名前は空いている方の手で彼のそれを包む。
名前には彼の苦しみが我が事のように思われてならなかった。それはさながら己の半身が切り裂かれた感覚。痛みに、名前は顔を上向かせた。
──気を抜いたら、泣いてしまいそう。
それはディエゴが酷い怪我を負ったためだろうか。それとも懇願するまで頼ってくれなかったからだろうか。
……わからない。わからないけれど、でも冷えきったその体を温めたいと願うのだけは確かなことだった。
トリニティ教会、墓地の裏手。ディエゴの指示通りに扉を開けると、地下へと続く階段が現れた。
それは石造りの牢獄だった。避難所と呼ぶには些か小さく、息苦しさを覚える空間。だから名前はここが牢獄なのだと思った。牢獄か、或いは墓地。突き当たりにあるシェルターは、ひと一人分の棺桶にしか見えなかった。
名前はそこにディエゴから受け取った『聖なる遺体』を横たえた。その間もディエゴは神経質に辺りの様子を窺っていたが、名前がシェルターを施錠しても阻む者は最後まで現れなかった。
だから、これで遺体を巡る争いもおしまい。
「チケットを取ってくれ。明日の朝、一番の船で帰るんだ」
そのはずなのに、ディエゴはすぐにでもアメリカを発つと言う。
「そんな、急すぎるわ。お医者さまだってまだ安静にって仰ってたのに……」
名前は困惑に眉を下げる。
ディエゴは右足のおよそ半分を失ったばかりだ。ベッドに横になるのだって誰かの介助がいる。一人で寝返りを打つことすらままならないと医者からは説明を受けた。
だから名前はここで看病をする気でいた。今晩だけに限らず、これから先も。完治には二年ほどの時間を要すると聞いた時から覚悟を決めていた。
それなのに船に乗るなんて無謀もいいところだ。レースが終わったばかりで疲労も溜まっているはずなのに、どうしてそんなに急く必要があるのだろう。
名前はベッド脇の椅子に腰を下ろし、ディエゴの手を取る。
冷たい手だ、と名前は再度思う。他者を寄せ付けない、冷えきった肌。そんなの今さらなのに、悲しくなるのはどうしてかしら。
「あなたが望むのなら私、なんだって叶えるわ。だから無理だけはしないで」
「無理なんかじゃない。必要だからそうすると言っているんだ」
ディエゴは頑なだった。理由を口にすることもなく、ただそれだけを名前に命じた。名前の手を振り払う動きには優しさの欠片も見つけられなかった。
「……それならそれでいいのだけど」
名前が押し黙ると、病室には沈黙だけが残った。あとには他にない。病棟にいる者は皆眠っているのだろうか。静寂がいやに耳についた。
しかしディエゴが気にする様子はない。彼の眼差しは窓の向こう。思案に耽る彼にはこの沈黙すらも心地いいのかもしれない。名前も視線を投げるが、暗がりの広がる世界からは何も読み取れなかった。
「…………、」
名前は何事か言いかけ、呑み込んだ。目を落とすと、振り払われた手が見える。拒絶を受けた手。そういえばこの手袋もディエゴがくれたものだったわ、とぼんやりと名前は思う。
ディエゴに伝えたいことは他にも何かあったはずだ。レースの終わりを待ち望んでいた。特に、第八ステージが始まってからは、ずっと。彼の帰りが待ち遠しくて、彼の存在を確かめたくて、だから今は満ち足りているはずなのに。
「……変わったわね、あなた」
なのに、どこか空虚だ。心にぽっかりと穴が空いて、すきま風が吹き荒ぶ。季節は冬。春は遠く、今は思い出すのも難しい。
呟く名前の唇はひとりでに
本当に言いたかったこと、名前はかつてのディエゴが囁いた言葉を思う。結婚式のこと、ウェディングドレスのこと、新婚旅行のこと。
──あなたの言う通り、私、たくさん考えたのよ。本当に、色々なことを。どうしても認められないっていうなら、スコットランドまで行ったってよかった。以前は駆け落ちなんて、と笑ったけれど、でもあなたが望むならそれすら構わないとさえ思ったの。
「いったいどこが?どこも変わってなんかいないさ。そうだろう?」
「それなら変わったのは私なのかもしれないわね」
でもそれは間違いだったのかしら──名前は涙を抑え、ぎこちなくも笑う。
名前にはもう確信が持てなかった。ただ熱に浮かされていただけ、恋に憧れていただけなのかもしれないと今では思う。利用されているのだとしても信じてみたいと思った自分がひどく滑稽だった。
「何を言っているんだ、君は変わっちゃいない。昔も今も変わらず美しい」
ディエゴの目が名前を居竦める。熱っぽい眼差し。声音は甘く、絡め取る指先は優しい。
「ディエゴはそんなこと言わないわ。揶揄う時以外、人を褒めるはずがない。私の顔なんていっそ見飽きてるほどよ」
それなのに覚えるのはまたしても違和感の一種で、触れ合うほどの距離なのに深い隔たりが感じられた。
知らない誰かを見ている気分だわ、と名前は思う。知らない誰か。その人の手から今度は名前の方がそっと抜け出す。
──私の知るディエゴは目の前の彼じゃない。
そうも思うのは、そうであってほしいという願望ゆえだ。わかってる。外見も性格も、ディエゴ・ブランドー以外の誰でもない。百人が百人そう答えるだろう。名前だってそんなことはわかっているのだ。
第一、彼がディエゴじゃないと言うなら──それなら私が知る彼はどこへ行ったというの?
恐ろしい考えに、名前は身を震わす。その可能性を考えるくらいなら、目の前の彼を信じた方がずっといい。
そしてディエゴはといえば「弱ったな」と哀れっぽい呟きを洩らした。
「どうすれば信じられる?このオレこそがディエゴ・ブランドーだ。それをどうやって証明したらいい?君と結婚したいと思ってるのはこのオレなんだと、どうしたら信じてもらえる?」
ディエゴは途方に暮れていた。少なくともそう見える表情だった。彼の台詞は良心に訴えかけるものだった。
「……私にはロマンス小説のようなことはわからないわ、例えば恋や愛といったこととは」
そう否定しながら、それでもやっぱり心は彼の言うことを信じたいと叫んでいた。何よりそうであってほしいと願ってる。ディエゴを喪う可能性を考えるくらいなら、冷たくされる方が幾分かマシだ。
名前は少し躊躇った後で、そっと微笑んだ。
「でもあなたを愛せたらいいと思うし、それはそんなに難しいことではないとも思ったの」
「名前……」
「だから、……というわけではないのだけれど。でも正直に教えてほしい。本当の、あなたのこと。そうしたら信じられるから」
膝の上で握り締めた拳。名前は唇を引き結び、ディエゴを見つめる。
本当は逃げ出したい。全部勘違いだったことにして、彼を想う気持ちも間違いにしてしまいたい。すべて忘れて、この人の前から立ち去ってしまいたい。彼に失望されたと、切り捨てられたのだと認めるくらいなら──彼の口からそんな言葉を聞くくらいなら──私の方から彼を嫌いになってしまいたい。
ぐちゃぐちゃだった。心はかき乱され、名前自身にもよくわかっていなかった。彼を喪うより嫌われた方がマシだと強がりながら、でも核心をつく言葉を恐れてもいた。今までのすべてを嘘になんかしたくなかった。
「もう不要だと言うならそう言って。構わないわ、私は。だからってあなたを糾弾するつもりはない。そのために愛を囁くつもりならそれこそ必要ないのよ。今さらあなたを恨んだりなんかしない、約束する」
けれどここで彼の元から立ち去ることも名前にはできなかった。ディエゴは今ひどい怪我を負っている。そんな彼をこんな見知らぬ土地に置き去りにしたら──ディエゴはどうなるのだろう?
彼のことだから一人でだってなんとかするかもしれない。でもそんなの私が堪えられない。途中で投げ出すなんて、そんな自分を私はきっと許さない。そう思ったから、名前はディエゴから目を逸らさなかった。なんだって受け止める覚悟はできた。どんな答えだろうと、結末だろうと。
腹を括ったから、名前は追及の手を緩めなかった。
「だから本当のことを聞かせて。今のあなたはどう考えたっておかしいわ。まるで、まるで──私の知らない人みたい。私のことなんて忘れてしまったみたいに見えるわ」
返事を貰えるまで引くつもりはない。その思いを込めて見つめると、ディエゴの方が先に目を伏せる。
「忘れる、か……」
口許に宿る笑みはなんのためだろう。歪な微笑を浮かべ、ディエゴはひとり呟く。
しかし次に目を上げた時、そこには何も浮かんではいなかった。
まったくの無表情。黒々とした翳りが目許に落ち、瞳の色までも夜の闇に変えてしまう。氷よりも冷たく、鋭利な空気。ほの暗い眼差しに、名前は息を呑む。
「その通りだと言ったら──君はどうする?」
ディエゴはゆっくりと言った。噛み締めるように、言い聞かせるように。理解が及ぶようにと言われても、咄嗟には彼が何を言っているのかわからなかった。