Dio√【原作沿い/1897.4】�V


【注意】
ディエゴの息子がジョルノです。




 今回でもう何度目の航海だろう。名前は懐かしさすら感じるニューヨークの港に降り立ち、感慨深く辺りを見渡す。
 初めてこの地を踏んだのは今からおよそ七年前。その時名前はまだ十八の子供で、多くのことを知らなかった。レースの裏に隠された陰謀も、己に齎される変化も、その先にある幸福も。

「──名前ッ!」

 自分の名を呼ぶ声に慌てて首を巡らす。
 英国からの客船はたった今着いたばかり。港には雑多な人込みが溢れている。だから探し人を見つけるのも一苦労。……かと思えば、実際のところはそうでもない。

「ディエゴ!」

 行き交う人の波。しかしそれさえも彼の歩みの前では無力。人々は知らず知らずのうちに道を開け、彼の望みを叶える。その姿はさながらモーセ。彼の前では誰もが服従を誓うのだ。
 そんな夫の姿を見つけ、名前は目を輝かす。自然綻ぶのは口許。蕩けるほどに甘い微笑みで、名前は歩み寄るディエゴを腕に迎える。

「会いたかったわ、ディエゴ。あなたのいないロンドンはやっぱりちょっと味気ないんだもの」

 ──家族というものがこんなにも愛おしいなんて、知らなかった。
 名前は抱き留める胸に素直に体を預ける。
 瞳の色と同じクラヴァット、名前は彼が緑色を好んでいるのを知っている。フロックコートの下に眠る肌の温かさも、人より少しだけ早い心音も。
 ひと月ぶりのその感覚に、名前の声も弾む。名前も、──そして、ディエゴも。
 ディエゴは「オレもだ」と名前の頬に口づける。頬に、鼻先に、目許に。戯れの軽やかさで触れ、笑う。

「オレもちょうど退屈してた。やっぱり君がいないとダメだな。その喧しい口がないと逆に落ち着かなくなる」

「そうね、私もあんまり平和だと飽いちゃうわ」

 名前もくすりと笑い、「出迎えありがとう」とディエゴの頬にお返しのキスをする。たったのひと月、それもディエゴが単身アメリカへ渡るのは初めてのことじゃない。でも再会を心待ちにするのは何年経っても変わらなかった。
 レースでの負傷が原因で騎手を引退したディエゴは、法学校に通った後、ニューヨークに弁護士事務所を立ち上げた。そんな彼は最早紳士録(フーズ・フー)に名を連ねる者のひとり。今ではロンドンとニューヨークを往復する生活を送っている。近い将来には下院議会の選挙にも立候補するつもりだ。
 そんな夫に引き摺られる形で、名前の日々も多忙なものとなっている。社交や領地の経営、奉仕活動、そして夫の仕事に関しての事務的な手伝い。お陰でニューヨークを訪れる機会も自然と増え、半ば第二の故郷と化している。

 ただ、それに付き合わせる格好になっている息子には申し訳なく思っているのだけれど──

「でもジョルノがいたから寂しくはなかったわ、……ね、ジョルノ?」

 名前は振り返り、乳母(ナニー)に連れられた格好の息子を手招いた。
 黄金の髪に翡翠の目。白皙の美貌までもを父親から受け継いだ少年は名前に駆け寄ると、その隣に背筋を伸ばして立つ。そして父親へ向けて軽く会釈をするその姿からは既に気品が溢れている。

「お久しぶりです、父上」

「ああ、元気にしてたか?」

「はい、おかげさまで」

 ……なんとも堅苦しい挨拶だ。親子にしては遠く、他人にしてはぎこちない。
 それが気にかかって、名前は殊更明るく「ジョルノったら本当に賢いのよ」と声を上げた。
 両親の多忙が息子に悪影響を及ぼしているとしたら、なんとしても払拭せねばなるまい。名前は息子を愛していたし、幼少期の自分が抱いていた空虚まで受け継がせたくはなかった。

「あなたに似たのかしら。……あなたのお父様はいつもいつも家庭教師(カヴァネス)に褒めそやされていたのよ」

 前半はディエゴに、後半はジョルノに向けて話しかける。
 が、名前の期待した効果は得られなかった。ディエゴは「そうか」と満足げに頷くだけ、ジョルノも「そうだったんですね」と表情を変えずに相槌を打つばかり。
 名前は内心で頭を抱えた。私が子供だった頃は両親の関心を得ようと色々なことに手を出したものだけど──男と女では考え方も違うのかしら?
 悩む名前だったが、袖を遠慮がちに引く力にはたと我に返った。

「どうしたの、ジョルノ?」

 目線を合わせ、優しく訊ねる。ジョルノがこういった子供らしい仕草をするのは珍しい。物心ついて以来、ジョルノは小さな紳士であった。
 そんな彼が母親の耳に口を寄せ、声を潜める。

「あの、……わがままを言ってもいいですか?」

「あら、何かしら?」

 小首を傾げると、俄に頬を染める少年。そのまろやかな輪郭が愛おしく、すぐにでも口づけたくなる。何より大切な、かわいい子。

「今日は同じベッドで眠りませんか?その、……父上も一緒に」

 そんな息子がこんなささやかなお願いごとを囁くのだ。名前は途端に相好を崩した。

「ええ、ええ!もちろんよ、私の愛しい子、今晩は三人一緒に過ごしましょうね」

 抱き締めると、余計に愛おしさが募る。
 小さな体、頼りない体。血を分けた家族の温もりを、初めて私に与えてくれた息子。そんな存在をどれほど渇望していただろう。
 名前にはもう思い出せないほど昔の話だ。父の一番にも母の一番にもなれなかった。だから諦めて、望んでいたことすら忘れていた。
 それを思い出させてくれたのはジョルノだ。
 息子の体を抱き上げたその日に名前は思い出した。本当に欲しかったもの、──私はずっと、家族が欲しかった。それを悟った時、名前はまだ赤子のジョルノを抱き締めて泣いた。
 嬉しくて、愛おしくて、仕方がなかった。息子のジョルノが。夫のディエゴが。家族という温もりを与えてくれた二人を、名前は一番に愛するようになった。

「ディエゴ、いいでしょう?」

「……仕方ないな」

 やれやれ、と。不承不承の顔つきでディエゴは承諾する。
 が、「おいで」と言ってジョルノを抱く姿は板についている。幸福な親子の絵そのもので、名前もまた微笑みを浮かべて夫の隣に並んだ。

 ──諦めなくてよかった。今は、心からそう思う。

 七年前、ディエゴからすべてを忘れてしまったのだと告白された時、名前を襲ったのは途方もない絶望だった。冷ややかな眼差しと、反対に過ぎるほど甘い声から逃げ出すことも一時は考えた。私の知る彼は永遠に喪われたのだと、今のディエゴを否定することだってできた。
 でも名前はそうしなかった。諦めきれなかった。例え思い出してくれなかったとしても、ディエゴであることに変わりはないのだと思いたかった。
 そう考えることにして、名前はディエゴの看病にあたった。治療から義足を使った訓練まで、ずっと。

 そうした困難の果てに、今がある。

「なんだ、にやにやして……そんなにこのオレが恋しかったのか?」

「ええ、その通りよ」

 揶揄いに満ちた言葉を肯定すると、さしもの彼も一瞬虚を突かれた。
 すぐに「へえ?」と片眉を持ち上げてみせるが、その口は皮肉を紡ぐことなく閉ざされる。しかし口許が楽しげに緩んでいるのまでは隠せていない。興味ないといった顔をしているくせ、存外ディエゴも言葉を大切にするたちである。称賛や恋慕の言葉を向けられるのが嫌いではないらしい。
 そういうところはかわいらしい、と名前は笑みを深めた。
 これ以上の幸福の形は考えられないとこの時は思っていた。