Dio√【原作沿い/1897.4】�W
天まで届くほどの書架。しんと静まり返った図書室の中、窓際のテーブルにつく息子の姿を認めて、名前は顔を綻ばせる。天使の如き金の巻き毛に横顔の滑らかな線。真剣に本を読むその姿にどこか懐かしさすら感じる。そういえば、ディエゴも結構な本の虫だった。
「ジョルノ、」
そっと名前を呼ぶ。と、あんなにも熱心だったのにジョルノはパッと顔を上げる。母親の姿をその澄んだ瞳に映し、途端、華やぐ顔。輝くばかりの容貌が午後の陽射しの中で浮かび上がる。
「おかえりなさい、お母さま」
「ただいま、いい子にしてた?」
歩み寄り、頬に口づける。
ジョルノは「はい」と頷いて、はにかんだ。受け答えは大人びていても、その表情からは愛らしさの方が際立つ。
私が知らないくらいに昔のディエゴもこんな子供だったのかしら?名前は考える。私の知らない──知る由もない、出会うよりずっと幼い日の彼。
そう考えると、なおのこと愛おしさが募った。
「何を読んでいたの?」
息子の隣に座り、訊ねる。
するとジョルノは手元の本を起こして表紙を見せてくれた。そしてそのタイトルに名前は目を瞬かせる。
スティール・ボール・ラン──スティーブン・スティール、その半生。
懐かしい名前と表紙となった顔写真に、名前は一瞬、砂塵舞う大地に巻き戻った感覚を覚える。
七年前、十八歳の私。異国の乾いた風、照りつける太陽。そうしたものすべてが目新しく、色鮮やかだった日々。旧い友人との再会、尊敬すべき人との出会い。それから、焦がれた真昼や不安に苛まれた夜のこと。
思い出が、名前の脇を駆け抜けていく。友の声も、言葉も、笑顔も。すべてが駆け抜け、消えていく。掌をすり抜け、零れ落ちる。
『──名前、』
愛したいと、初めて願った人のことさえ。
「父上はこのレースで優勝したんですよね。それでお母様との結婚を周囲に認めさせたって」
ジョルノの声に、意識は引き戻される。
「ええ、そうよ。でも誰から聞いたの?」
「誰からも。有名な話なんですね、よく噂されているのを耳にします」
「……そうだったの」
息子から返されたのは意外にも冷静な答え。だからこそ名前は余計に微妙な心境になる。両親のなれ初めなんて、子供に聞かせるような話じゃない。それが若さゆえのものであればあるほどに。
きっとディエゴも同じ気持ちになるだろう。名前は思い、咳払いをする。
「まぁ今のあの人からは想像できないかもしれないけど、」
噂なんてのは大抵尾ひれのつくものだ。大衆の好奇心を満たすための脚色。この場合は物語性を高めるためにあることないこと付け足されているに違いない。身分の差が横たわる恋愛なんて、人々にとっては格好の餌食だろう。
彼の名誉のためにも、と名前は口を開いた。『私たちも若かったのよ』そんなことを言ってお茶を濁す算段だった。
正しく言うならディエゴとのそもそもの始まりは打算によるものであった。けれど、そんなことまさか息子に教えるわけにはいかない。とはいえ当時言われたみたいな──盲目的なまでの恋だとか、燃え上がるほどの愛だとか、ディエゴなら一笑に付す類いのことを肯定できるかといえばこれもまた否である。ディエゴは息子の前でも格好つけたがりなのだ。
──が、しかし。
「いえ、それは別に。むしろ納得しました。父上『らしい』と」
「そ、そう……?」
「はい。想像にかたくないです」
「うーん……?」
思いもがけない返しに、名前は戸惑ってしまう。
──もしかして私が思ったような噂じゃあなかったのかしら。
そうも考えるが、納得がいかない。この結婚に関しての、ディエゴ『らしい』事の顛末。そんな噂話について記憶を浚ってみても心当たりは見つからない。
とはいえ追及して蛇を出すことになっても困る。ヘタなことを言って、後でディエゴが知ったらきっと機嫌を損ねるだろう。そういう時の彼の相手はすごく面倒だ。記憶を失った後もそんなところは変わらない。
……まぁ、所詮は噂話だ。
考えるのをやめ、名前は改めて目の前の本に視線をやる。
「それにしても……こんな本があったなんて知らなかったわ」
スティーブン・スティール。表紙を捲ると、そこには彼直筆のものらしいサインまで書かれていた。しかもご丁寧に名前の名前入りだ。
こんな素晴らしい心遣いを贈ってもらったならお礼状のひとつやふたつ、書いた記憶があってもおかしくない。だが生憎と名前に覚えはなかった。記憶力には不安を抱いた経験はないのだが……。
「レースの後すぐに出たみたいですよ。その頃は英国にいたんでしたっけ?」
首を捻ると、ジョルノが教えてくれた。
レースのすぐ後。そう言われ、名前は記憶を遡る。
七年前。終着地は……そう、この街だった。ニューヨーク、マンハッタン島。トリニティ教会に設置されたゴール地点。割れんばかりの拍手と歓声。辺りを支配する興奮と熱気。そしてそれらを無視して先を急ぐ彼の姿……
「ああ、そうだわ。レースの後はすぐに帰国したの。どうしてだかは思い出せないけど……ううん、教えてもらえなかったんだわ。確かそうだったはずよ」
脳裏によみがえるのはレースが終わった夜のこと。ベッドには酷い怪我を負ったばかりのディエゴが横たわっていて、なのに彼は自分の身体のことなんてこれっぽっちも労ってはくれなかった。
どころか、すぐにでもニューヨークを発つと主張したのだ。お陰で名前まで逃げるようにして出国する羽目になった。せっかく再会できた友人とも満足な別れを果たせなかった。その原因もすべてディエゴにある。
──ジョニィは今頃どうしているのかしら?ルーシーは、スティール氏は?
ジャイロやホット・パンツが亡くなったと噂では聞いたけど、本当なのかしら──?
ふと胸に沸き立つのは追懐の念。
帰国してから出した手紙に返事はなかった。もしかすると住所が変わってしまったのかもしれない。彼らから手紙が来ることもなく、あまり思い出すこともしないようになっていた。
しかしいま、改めて考えてみると、知りたいことはたくさんある。
「でもその時、彼に記憶がないのもわかって、それで結局色々なことを聞けずじまいに終わったんだわ。怪我も酷かったし、リハビリや義足を作るのに私も忙しくなってしまって」
衝撃的な告白を思い出すのに労力は必要なかった。今まで振り返らなかったのが嘘みたいに鮮やかだ。
『忘れる、か……。……その通りだと言ったら──君はどうする?』
そう言った彼の冷ややかな眼差しや、試すような声色さえ。凍てつくほどに張りつめた空気すら足許から立ち上る錯覚があって、名前は知らず目を伏せる。
あの時は最初、彼が何を言っているのか理解できなかった。いや、本能的に理解することを拒んでいたのか。
ともかく名前にできたことといえば、『どうする、って……?』と、おぼろ気ながら見えてきた答えに恐れおののき、唇を震わすことくらいだった。
そんな名前にディエゴはふっ、と笑った。名前の指先は悴んで痛いくらいだった。
『そのままの意味さ。オレには記憶がない。君と知り合ったのだって今日が初めてってことになるな』
『本当に?まるっきり?私の……、わたくしのことは何も覚えていない?』
『まぁ、そういうことになるな』
カタカタと窓が鳴っていた。風が出てきたのだろう。酷く寒い夜だった。きっとどこかでは吹雪にすらなっていた。ホワイトアウト。名前にはなんと答えるのが最善かわからなかった。
けれど《彼》は答えを欲していた。
『それで?』君はどうする?質問の答えを、オレはまだもらっちゃいないが。
言外に急かされ、名前は唇を噛んだ。吐く息がか細く揺れていた。
『……よく、わかりましたわ』
私の知る《ディエゴ》はもういない。私が結婚を望んだのも、喪うことを恐れたのも、愛したいと望んだのも、幸せを誰より願ったのも──いま目の前にいる《彼》ではない。
もう、どこにもいないのだ。
理解すると、途端に涙が溢れそうだった。鼻の奥がツンと痛んで、名前は目をきつく瞑ることでそれをなんとか堪えた。
泣くことを、今まで黙っていた彼を責めるのを。──知りもしない女に口づけることのできる彼に、絶望することを。
多くの感情を堪えて、次に目を開けた時、名前は出来うる限り一番自然な微笑みを浮かべた。
『それでも構いませんわ。わたくしはあなたに賭けることにしたのですもの。たとえあなたがわたくしの知る人ではなかったとしても……わたくしは《ディエゴ・ブランドー》とならよい協力関係を結べると信じております』
感情は廃した。初めて『彼』を婚約者と認めた時と同じように。しかし感じる痛みは記憶のものよりずっと鋭く、膝の上の手は白く強ばっていた。
『……なるほどね。君もオレを利用してたってわけか』
『お互い様でしょう?』
『そうだな、……そうかもしれない』
ディエゴは笑った。どこか歪に、世界のあらゆるものを嘲るように。笑う彼に、名前は悲しみを隠して思った。
今は我慢しよう。喪失感も、寂寥感も。絶望を抑えて、彼の隣にいよう。そうすればいつかは思い出してくれるかもしれない。思い出さずとも、また新たな関係を築けるかもしれない。
諦めたくはなかった。諦めきれなかった。そうしたら、もっと多くのものが喪われると思った。選択を後悔して、自分を嫌いにまではなりたくなかった。もう一度、《ディエゴ・ブランドー》に賭けてみたかった。
そう思ったから、名前はまた彼の手を取ったのだ──
「……すみません、お辛いことを思い出させてしまいました」
彼とよく似た、でも彼よりも淡く透き通る瞳が、目の前で揺れる。昇りゆく朝日のように清々しい色。
ジョルノとは明けた白日という意味らしい。七年前、尊敬する友人から教わった異国の言葉である。それを息子に名づけたのはそれ以上に相応しい言葉が見つからなかったからだ。彼は、産まれたその時から名前の光だった。
そんな息子の頬に手を添え、名前は微笑む。もうかつてのように無理に笑うこともなくなった。だから今、心から「いいえ」と答えることができる。
「あなたが謝ることなんてないわ。それだってもう大切な思い出に変わりはないのだから」
当時は確かに悲しかったけれど、でも必要なことだったのだと理解している。何よりその過去があったからこその我が子だ。
申し訳なさそうにしていた息子が、「よかった」と目許を和らげる。それを名前は穏やかな気持ちで見つめた。
「ですがあの父上が記憶喪失なんて。そういったものは意地でも隠す人かと思ってました。それにその……なんというんでしょうか。意外、というか……、そんなタマかと言うような……」
ジョルノは珍しく饒舌に言って、しかしそこで口を噤む。
「……失礼、今のは忘れてください。少し乱暴な物言いをしてしまいました」
「そうね、言葉遣いは気をつけないと。でもなんとなくは伝わったわ、そんなか弱い人に見えないものね」
天使のように愛らしいのに、そんなジョルノにもやはり少年らしいところはある。上品ではない言葉を使って、すぐに訂正を入れた。
けれどだからって目くじらを立てるほどじゃない。むしろ微笑ましくさえあって、名前は笑った。
「でも昔は結構可愛いところもあったのよ?お酒には弱かったし、それにもっと幼い頃は行儀作法の──食事の時、骨から綺麗に肉を外す方法だとかを──こっそり練習していたりして……」
言いかけ、今度は名前の方が慌てて口を噤んだ。
……失言だ。ついつい昔話が楽しくて、口が滑った。先程ディエゴの名誉がなんとかと言っていたその口でこれだ。子供の頃の失敗ほど恥ずかしい話はないだろうに。
名前は曖昧に笑って、唇に人差し指を置いた。
「……これも忘れてちょうだいね、二人だけの約束よ?」
「わかってます。父上を脅すようなことはしません」
さすがはジョルノだ。利口な息子は母親の言わんとすることを察し、唇を引き結ぶ真似をした。
それからそっと名前の袖を引いて、「あの、もっと聞かせていただけますか?父上のこと……」と可愛らしいおねだりをしてくるものだから、名前は破顔するしかない。
「もちろん。私も嬉しいわ、思い出話なんて滅多にしないもの」
社交界で話題とするのは流行のファッションであったり、世間の噂話であったりだ。ともすれば弱味となりうる昔の思い出話など持ち出す機会がない。
そして夫はといえば出会う前のことなど今も昔も殆ど聞いたことがない。あまりいい思い出もないのだろう、となんとなく名前も察している。
だから息子に請われ、名前は意気揚々と手を叩いた。
「そうだわ、確かどこかに……あの人のつけた記録があったはずよ」
「記録?日記ではなく?」
「記録よ、……あの人が日記みたいな感情的なもの、見えるところに残してると思う?」
「まぁまずしないでしょうね」
ジョルノは即答した。まだ幼い息子にすらそう思われているなんて。でも変に取り繕われるよりはずっといい、と名前は思っている。
「誰とどこで何をしたか。そんな簡潔な内容しか書いていない手記だけど、でもあなたなら役立てることができるかも。……待ってて、探してみるわ」
名前は立ち上がり、奥の書棚に向かった。
記憶を失ったと聞かされた後、名前が今の彼に渡したのも件の手記である。これから生きていく上で、彼の一助となればいいと考えた。以来ずっと、昔のものもディエゴが保管しているはずだ。ロンドンにはなかったように記憶しているから、恐らくこちらに持ってきているのだろう。
「……あった、これだわ」
その考えは正しく、見覚えのある背表紙はすぐに見つかった。
名前はそのうちの一冊に手をかけ、引き抜く。と、本の間に挟まっていたらしい。何かがはらりと床に落ちて、名前は膝を折った。
「これは……」
白い紙切れだと思ったのは封筒だった。中には手紙が入っているようだ。少し褪せた印象の、でもそれほど昔のものではない手紙。
何の気なしに封筒を裏返し、──名前は怪訝に眉を寄せる。
「ジョニィ・ジョースター……?」
書かれていたのは名前にも見覚えのある筆跡だった。飾り文字ではない、少しぎこちなさの残る字。でも使っている紙はそれなりに上質のものだ。中流階級の中でも上のほう。名前の知る友人の特徴とも合致する。
そして宛先は名前・名字。ロンドンの屋敷宛になっていて、切手も消印もある。郵送されたのに違いない。
──でも、どうしてジョニィからの手紙がこんなところに?
私的な手紙はすべて大切にしまってある。ディエゴにだって簡単には触れさせない。だから驚くよりも先になんだか変な感じがした。本の間に入れておくなんてこと、絶対にするはずがないのに。
封筒は開いていた。閉じるための蝋はそのままだったが、ペーパーナイフで切った形跡があった。その乱雑な切り口に、嫌な感覚を覚える。せっかくいただいた手紙なら封筒だって大切に扱いたい。少なくとも、名前ならそうする。
名前は便箋を開いた。手紙は何枚かに分かれていて、急いでいたのか文字が乱れていた。でも間違いなくジョニィの字だった。
手紙は書き出しから切羽詰まっていた。『君に伝えなくちゃいけないことがある。しかし信じてもらえるだろうか?自信はない。でも君が心配だ。どうかこれを読んだら返事をしてほしい』そう書いてから、『いや、順を追って話そう』と続いている。
行を変えて綴られていたのはこの手紙を送るに至った経緯だった。レースの翌朝、ホテルを訪ねたけれどいなかったこと。帰国したと聞いたが、何か大変なことがあったのではないかと案じたこと。ディエゴも一緒だと聞いて、慌ててこの手紙を出すことにしたこと。
そして、それから──
「『大統領のスタンド』……『隣の世界』……『ディエゴは』……『死んだ』……?」
名前は書かれている文字を指で追った。何度も、何度も。その内容に目を疑い、震える指先で文字をなぞった。
「うそ、うそよ……こんなのうそに決まってる……」
でもそうしたって文字は変わらない。綴られた言葉、明かされた真実は、名前の前から消えてはくれなかった。
『君はきっと騙されているだろうが、いま君といる男は君の知るDioじゃあないんだ。そいつは隣の世界のDio……、大統領のスタンドが連れてきたやつだ。本当の、こっちの世界のディエゴは死んだ。間違いないよ、ぼくはこの目で見たんだ。彼が大統領に殺される、その瞬間を』
『彼の遺体を今度ルーシーが埋葬することにした。でもディエゴは今も生きてることになってるから、身元不明のまま弔うことになるだろう。できればその前に君に引き渡したい。その方が信じられるだろうし、彼にしたって故郷に帰りたいものだろうから』
『騙されちゃいけない。そいつは君の知らないDioだ。きっと君を利用しようとしている。逃げるんだ。大統領と組んだDioは、遺体のためならなんだってする。君は逃げなくちゃいけない』
──頭が、割れそうだ。
目眩がして、名前は本棚に手をついた。ジョニィは多くのことを語ってくれたが、その半分も名前には理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。
ディエゴが死んだ、なんて──
喪ったものと考えていた。消えた記憶と共に、かつてのディエゴもいなくなってしまったのだと。
でも彼であることに変わりはないと思っていた。いつか思い出してくれるかもしれない。思い出さずとも、また新たな関係を築ける。──そう、今のように。
なのに前提から違っていたというのか。最初から、彼は真実など打ち明けてくれなかったのか。騙して、利用するつもりだったのか。今もまだ、その途中なのだろうか。
「お母さま、大丈夫ですか?」
踞っていると、気遣わしげな声が降ってきた。ジョルノの声。愛する、息子の、
「大丈夫よ、私は、大丈夫だから……」
名前は笑おうとした。でも上手くできなかった。口許が引き攣って、余計にジョルノが顔を歪めるのが見えた。心配はかけたくないのに、取り繕う言葉すら思いつかなかった。
わからない。もうなにも。なにも、考えたくはない。
「気にしないで、私は平気……なんにもないわ、本当に、……本当よ?」
「……はい、わかってます」
ジョルノは頷き、その小さな体で母親を抱き締めたようとした。背中まで回らない手を懸命に伸ばして。ぎこちなくも頭を撫で、慰めんとする息子の姿に、名前はやっと泣くことができた。
「ごめんね、ありがとう……」
息子を抱き締め、名前は決意した。
──ジョニィに、連絡を取ろう。
どうすればいいかはまだわからないけれど、でも今一番にしなければならないことは決まっていた。