Dio√【原作沿い/1897.4】�X


 ──長い、長い、夢を見ていた気分だ。

 名前は鏡台(ドレッシング・テーブル)の前に立ち、深い溜め息をつく。
 体に残るのは強い虚脱感と暗澹たる思い。もう何も考えたくなかったし、何もかもがどうだっていいようにさえ思われた。

「……名前さま、」

 気遣わしげな声に、名前は顔を上げる。鏡越しに見つめ合う瞳。名前の後ろに立つメイドの、黒々とした目が名前を射抜く。何より雄弁な震えを伴って。
 瞳を揺らすメイドに、名前は微笑む。

「どうしたの?」

 口をついて出るのは空々しい響き。鏡の中の紅い唇を、名前はどこか他人事のように眺める。耳許で揺れるエメラルドも、胸元で輝くデマントイドガーネットも、すべてが滑稽だ。
 名前は思う。わたくしにこの色は似合わないわ、と。瞳は蒼く、髪はブロンド。だから本当は緑色なんて選ぶべきじゃなかった。そうわかっていたのに、いつからか忘れてしまっていた。
 そんな自分が、滑稽で仕方ない。

「……少し、お痩せになりましたわ」

 彼女がこんなことを言うのは珍しい。貴族の娘が華奢と呼ばれる体を保つため食事制限をするのは当然のことだ。少なくとも名前はそう思っている。コルセットをせずとも細いままの体を賛美こそすれ、まさか咎められる日がこようとは。名前の体は身長がある分、余計に肉を落とさなくてはならなかった。

「なんだかおかしいわね。そんな必要、今ではないのに」

 名前はちいさく笑った。──そのわたくしが!年頃の娘であった頃は少しの食事にも気を遣わなくてはならなかったのに、あの我慢はいったいなんだったのかしら?
 隣に立つ人が『彼』であったから、なおのこと美しくありたかった。『彼』に釣り合う貴婦人でありたかった。そう見えるように振る舞ってきた。そのための教養で、容姿で、品格で、──なのに本当の『彼』はもうどこにもいないのだ。
 それがおかしくて、名前は笑いながらイヤリングを取った。エメラルドの重さがやけに疎ましかった。

「仕立屋を呼ぶなら次はもっと落ち着いた色がいいわ。やっぱりわたくしにこの色は合わないみたい。ほら、なんだかくすんで見えるでしょう?」

「まさか。よくお似合いです」

 メイドが装身具を外しながら答える。鏡の中の名前をしっかりと見つめて。尤もらしく言うものだから、名前も少しだけ『そうだったらいいのに』と思う。本当に、似合っていたらよかった。
 でも現実は違った。合理的な人間になったつもりだったけど、『誰か』のようには割りきれなかった。結局、わたくしたちは全くの別物だった。最初からずっと、同じものなど見てやしなかった。

「……ありがとう。でも、もういいの」

 名前は頭(かぶり)を振る。そうするとまた頭の奥が痛んで、思わず顔を顰める。
 最近頭がよく痛む。あんまり酷いようなら医者に見せた方がいいのかもしれない。きっと周りはそう言うだろう。でも名前としてはできることなら避けたかった。
 だってもし逆に原因を訊ねられたらなんと答えればいい?近頃変わったことはなかったかと問われて、嘘をつき通せる自信はない。虚勢を張り続けるのにも限界を感じている。

「……すこし、疲れたわ」

 ドレスを脱がされ、絹のナイトガウンを着せられる。飾り気のない、白。鏡台の前に座ると、強い疲労感を覚えた。鎧を脱ぎ捨てた人間はこんなにも無力なのだ。

「たまにはゆっくりおやすみになった方がよろしいかと」

 言いながら、メイドはほどいた名前の髪に櫛を通す。ゆっくりと、労るように。
 その手に身を任せながら、しかし名前の意識にあるのは鏡台に置かれた一通の文。ほんの数日前、この屋敷の図書室で見つけたものだ。ジョニィ・ジョースターからの告発文。
 『本当の、こっちの世界のディエゴは死んだ』『騙されちゃいけない。そいつは君の知らないDioだ』『逃げるんだ』『君は逃げなくちゃいけない』……この数日間、幾度も読み返した言葉。それがまた脳内に反響し、名前は額を押さえる。
 この頭痛さえなければすべてが夢のようだ。手紙を見つけて以来ずっと、地に足のつかない感覚がある。

「何かお食べになりますか?」

 他のメイドが入ってきて、軽食のお盆を置いた。名前はそれを一瞥する。盛りつけられた瑞々しい果物。望めば何だって用意してもらえるだろう。
 けれど今は何も口にしたくない。何を食べたってすぐに戻してしまいそうだ。そうなったら最後、自分を許せそうになかった。

「今晩はもういいわ。……ねぇ、彼は帰ってる?」

「はい。今は書斎に」

「そう」

 名前は努めて冷静に答えて、立ち上がる。
 ──でも、本当に?
 鏡に映る顔は、強ばったままだった。





「いま、いいかしら」

 書斎の扉越しに名前を呼ぶ。ディエゴ、何度も口にした言葉なのに、今では違和感が拭えない。その感覚を抑え、名前は扉を開ける。

「どうしたんだ、こんな時間に」

 壁一面の書棚。閉め切られた深緑のカーテン。蝋燭の火が、ちらちらと揺れている。
 彼は書斎机の前に座っていた。マホガニーの机。彼はペンを置いていたけれど、何かを書いていたのは明らかだ。手元にはまだ白いままの便箋が残されている。
 名前は歩み寄り、彼の前に立つ。

「ごめんなさい、お仕事の邪魔をしてしまったわね」

「まさか。オレは要領がいいんだ。こんなのは仕事のうちに入らない。片手でだって片づけられる」

「……そうね、あなたはそういう人だわ」

 名前は然り気無く机上に目を走らす。無造作に転がったペン。書きかけの便箋の横には何枚かの招待状があった。なんてことのない、名前にだって見慣れた内容。
 だからだろうか。ディエゴは名前が見ても何も言わない。重要なものだったらきっとすぐに隠したろう。……あの手紙のように。

「それで?珍しいな、急ぎの用か?」

「どうかしら。あなたにとっては今さらの話かもしれないわ」

 名前は唇を湿らせた。こんなことなら飲み物をもらっておけばよかった。いやに喉が渇き、乾燥した空気で肌がピリピリとした。……まるで寒い冬の日に戻ったみたいに。

「やけにもったいぶるな。聞くのが怖くなりそうだ」

 ディエゴは笑って、椅子に座り直す。
 でも彼の目は間違いなく名前を見ていた。名前の一挙手一投足を見つめていた。鋭い眼差しだった。その目は些細な変化すら見逃さない。彼は、そういう人だ。
 「そんなつもりはないのよ」否定した後ろで、名前は自分の手が汗ばんでいることに気づいた。
 不安と緊張、そして恐れ。普通なら家族に抱くはずもない感情。それが心臓を蝕む。叶うなら今すぐ逃げ出したいと心が叫ぶ。
 でも体の方はそうは言わない。自然と笑みを作り、手は懐から一通の手紙を取り出す。そしてそれをディエゴの前に掲げた。ジョニィ・ジョースター。差出人の名前がよく見えるように。
 そうしてから、名前はゆっくりと口を開く。差出人の名前を認めたディエゴが、途端表情を凍りつかせるのに、痛む胸を隠して。

「この手紙に見覚えは?」

「……ああ、そんなのもあったな」

 ディエゴは平然と言い放つ。まるで興味の欠片もないとでも言いたげに。頬杖をついて、「それで?」と片眉を持ち上げた。

「何が言いたい?まさか信じたのか?そんな荒唐無稽な話を?惨めったらしく地面に這いつくばるしかなかった哀れなジョッキーが、ベッドの中でする妄想にしてもあまりに出来が悪いとオレは思うが?」

 ディエゴは名前に反論する隙を与えない。口早に言い募り、嘲るように鼻を鳴らす。彼にとっては己こそが絶対正義で、それ以外のものは路端の石に過ぎなかった。
 名前は一度唇を引き結んだ。握り締めた左手は、きっと彼には見えていない。だから大丈夫。だからまだ、耐えられる。平静を装っていられるうちは、まだ。

「わたくしが今日どこへ行っていたか、あなたご存知?」

「オレがそんなことまで把握しているとでも?」

「可能性はあるでしょう?わたくし宛の手紙をわたくしより先に開封した経験があるのだから」

 そう言うと、ディエゴは口を噤んだ。手紙を知っていると言った手前、否定の語はなかった。

「ジョニィって本当にいい人ね。突然押しかけたわたくしにも優しくしてくださったわ。信頼ってこういうものだと思わない?」

「思わないな。そいつはただの下心だ」

「あらそう。ではこれまでのあなたも、そういうことだったのでしょうね」

 ディエゴは苦い顔で舌打ちした。でもそれだけだった。それだけ。否定の言葉はない。またしても。またしても、だ。

 ──いっそ、すべて嘘だと言ってくれたらよかったのに。

 名前は笑顔の下で思う。手紙なんて知らない。そう言われたら、わたくしにはどうすることもできなかった。
 なのにどうして肝心なところで嘘をついてくれないのだろう?彼はこの人工的な幸福を続けたくはなかったのだろうか?それとも、それとも、それを望んでいたのは、──わたしだけ?

「会いに行ったの、かつて私が永遠を誓った人に。その人のお墓に、行ってきたのよ」

 言っているうち、胸が締めつけられる。
 墓、──墓なんて。
 そんなもの見たくなかった。認めたくはなかった。でも、知らないままではいれなかった。何も知らないフリをして、『彼』を忘れたくなかった。記憶が薄れていくのには、耐えられなかったのだ。

「ジョニィが教えてくれたわ、すべて、何もかも。彼がトリニティ教会に眠っていることも、そのひとつ」

 手紙を出したとして、確実に届く保証はない。だから名前は無礼を承知でジョニィからの手紙に書かれていた住所に向かった。
 ジョニィは最初とても驚いていた。驚いて、そしてすぐに名前を抱き締めた。とても温かな手だった。
 彼は名前からの返事がないので諦めていたと言った。きっと何を言っても無駄なんだろうって。

『君たちの結婚は新聞で知っていたからね』

 そう言ったあと、ジョニィは何事かを言いかけた。でもその先は知らない。どんな慰めも名前は必要としていなかったし、ジョニィもまた多くのことを諒解していた。
 彼は必要なことだけを語り、名前をトリニティ教会まで送った。かつてはレースの終着点だった場所。そして今、まったく別のものが終わりを迎えようとしていた。

「墓標には確かにディエゴ・ブランドーの名が刻まれてた。亡くなったのは1891年1月……スティール・ボール・ランの最中のことよ」

 同姓同名の別人だと思うこともできた。実際、その可能性だってあったろう。それを理由にしたってよかった。そうできたなら、どんなに楽だったろう。
 でも名前に否定することはできなかった。墓石に触れ、その名前をなぞっただけで自然と涙が溢れた。途方もない悲しみと、それから同じだけの安堵が体を襲った。

 あの日、あの時。──私の抱いた違和感は間違ってなかった。姿かたちが同じでも私にはわかった。私が愛したのは、たったひとりだった。

「もう一度聞くわ。わたくしに本当のあなたのことを教えて。今わたくしの前にいる、あなたのことを」

 名前は目の前のひとを見つめた。
 この数年、ずっと傍にいたひと。なのに今ではもうすっかり他人のよう。彼が何を考えているのかわからなかった。
 その無表情の下で、少しは惜しんでくれているかしら?名前はどこか遠くで思う。終焉を、悲しんでくれたらいい。私の心の、ほんのひと欠片ほどでも。

「……君が、どんな答えを望んでいるかは知らないが」

 ディエゴの低い声が部屋に響く。冷たく、よそよそしい部屋の中を。かつては心地いいとすら思った声に、今の名前は身構える。
 蝋燭の火が揺れている。光と影が彫像のような肌の上を踊る。瞳の奥で、一際大きな炎が弾ける。

「嘘は言っちゃいないはずだぜ。オレが言ったのは記憶がないことだけ。忘れたと解釈したのは、名前、君の方だ」

 でもそんなことで凍りついた表情は溶けないし、差し込む光が上がる口角に温かみを与えることもなかった。

「……よく、わかりましたわ」

 名前が口にしたのはいつかと同じ言葉だった。違うのは、その時よりもずっと自然に笑顔を作れたことくらい。名前は微笑んで、一礼した。

「ありがとう、お話ししてくれて。……お陰で素敵な夢を見ることができましたわ」

「おい、待て」

 踵を返すと、背中に追いかける声がかかる。「名前、」振り返ると、どこか困惑したような顔がある。これも、演技なのだろうか。
 わからない。わからないけれど、考えるのはもう疲れた。期待するのも、失望するのも。もう、おしまいにしたい。

「おやすみなさい、ディエゴ。あなたも、どうかご無理はなさらぬよう」

 大丈夫、今さら、取り乱しはしない。声音は落ち着いたまま、言葉は平坦に紡がれた。
 それでよかったのだと思う。これ以上惨めな思いはしたくない。これから先も共に生きていかなければならないなら、お互いにうまく折り合いをつけていくべきだ。そう、頭では理解している。

「…………っ、」

 でも自室に戻ると勝手に涙が出た。拭っても拭っても、全然追いつかない。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも傷が痛むのか。或いはそのすべてが理由だったのかもしれない。多くのものが名前の中に溢れ、そして多くのことが失われていった。
 名前は声を殺して泣いた。泣いて、泣き疲れて、朝を迎えた。昨日までと同じ朝を、昨日までと同じ笑顔で迎えた。それが今の名前にできるすべてであった。