【注意】
ディエゴの執事がテレンスです。
ディエゴ・ブランドーの朝は早い。
連日連夜の社交に忙しい
「おはよう、ディエゴ」
目に飛び込むのは早朝の澄み渡る日差し。ディエゴは思わず目を細める。降り注ぐそれはどんな時でも彼女のしもべだ。
名前・名字。眩いほどの金の髪と、地中海を思わせる青色の瞳。美しいものしか知らない侯爵家の一人娘が、ディエゴを見つめて微笑んでいた。……前夜にあったことなどすっかり忘れた風で。ディエゴ・ブランドーの妻は、完璧な笑みを浮かべていた。
「……あぁ、おはよう。ジョルノも」
「はい、おはようございます、父上」
ディエゴは幾らかの迷いのあと、型通りの言葉を返した。妻に、それから息子に。しかし息子から向けられる物言いたげな視線には気づかないふりをした。──説明をしてほしいのはこっちだって同じだ。
彼女は何を考えているのだろうか?ディエゴは思考を巡らす。まさか本当に、昨晩のことは気にしていないとでも?
向かいに座る妻を見るが、表情からは何も読み取れない。美しく凪いだ海は掴み所がなく、底のしれなさがある。彼女の抜けるように白い膚は、石膏の像にも似ていた。
「今朝の
名前は優雅な手つきでナイフとフォークを動かす。真っ白なプレートの上にあるのはフライド・エッグ。話しながらでも、半熟の黄身で皿を汚すような真似はしない。
それは生まれながらの貴族しか持ち得ぬ気品。彼女にとってテーブルマナーなどは体に染みついたもの、特別意識するようなものではないのだということがよくわかる。
──尤も、このオレの妻としては当然の振る舞いだが。
「詳しいことはまだだ。話には聞いているが」
執事から差し出された新聞を受け取る。ニューヨーク・デイリー・タイムズ。しっかりとアイロンのかけられたそれを広げ、手早く記事の中身を拾い上げる。朝食をとりながらのこの行動は、ディエゴにとって毎朝の習慣だった。
「長かった不況には明るい兆しが見えてきましたけど、なかなか世間は落ち着きませんわね」
「新聞社が民衆を煽るのをやめない限り落ち着かないだろう。もしくは彼らが賢くなるまでは」
「規制が必要では?仰々しい見出しはともかくとしても、まったく事実とは異なる記事を載せるのはいかがなものかしら」
「それができたら苦労はしない。実際、
「いやですわね、拝金主義の世の中なんて」
名前は柳眉をひそめる。昨年就任したばかりの大統領には何やら思うところがあるらしい。行き過ぎた帝国主義は滅びを招くのではと危惧しているのだ。彼女は他の民族の生活も尊重すべきだと常々主張している。
とはいえお陰でこの国は目覚ましい発展を遂げている。近いうち、また戦争が起こるだろう。スペインの植民地などでは独立を求める動きが大きくなってきている。この機を逃す手はない。既にスペインとの戦いを想定した計画も立てられているというし、アメリカが介入するのは時間の問題といえた。
そう話すと、名前は重たい息を吐く。
「確かにスペインのやり方には目を覆いたくもなりますけど……」
そこまで言って、彼女は首を振った。朝食の席で、これ以上は言葉にもしたくない。そう、言外に語っていた。
名前は微笑を刷いて、「そういえば、本日のご予定は?」と訊ねる。これもいつものこと。物言いは他人行儀だが、柔らかに弧を描く瞳から嘘は見受けられない。
「特に大きな用件はないな。幾つか面会の約束はあるが、今晩は早く帰れそうだ」
「そう、それはいいことですわね」
だから余計にわからないのだ。
ディエゴは『君は?』と聞きかけて、やめた。これではまるで妻の予定を把握したがっているようではないか。わざわざ聞かずとも、後で執事や従者に調べさせれば済むこと。そう考え、ディエゴは相槌を打つにとどめた。沈黙したままの息子の視線がいやに気にかかる。
「……ジョルノは?」
「スタフォード家の訪問を受ける予定です、以前招待をしたので」
「聞いていないが」
「父上には不要かと。社交よりも他にするべき仕事があるのでしょう?」
水を向けるが、幼い息子は必要なことだけを語るにとどめた。
淡々とした、感情のこもらぬ声。いったい誰に似たのだろうか?名前は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。その横顔は白々と冷ややかだ。
ディエゴは「そうか」と頷く。そうか、スタフォード家か。たしか鉄道で財をなした家系だ。現当主は飄々とした男で、あまり印象はよくない。その妻も娘もかしましい質の女だった覚えがある。そういえば、あの家の末の子供はジョルノと同じ年頃の男児だった。
ということは名前も訪問者の歓待をするのだろう。だがその後は?まさか今日一日を費やすはずもない。彼女のことだから他にも予定を入れているだろう。教会での慈善活動か、オペラ鑑賞か、ご夫人方との晩餐会、夜会……社交活動なら幾らでも思いつく。
「名前、」
「はい」
名前を呼ぶと、彼女は素直に応じる。蒼い瞳が、ディエゴを射抜く。
光の加減のせいだろうか。白いと思った膚が青ざめてさえ見える。詰まった襟元から僅かに覗く首は折れそうに細い。
だがそこから先はわからない。筒型のドレスは空の色。ディエゴはレイリー散乱という言葉を思い出す。空が蒼いのはそれだけ遠くにあるからだ。空もドレスも、──名前の瞳も。それは触れることも近づくことも拒んでいた。
「……いや、なんでもない」
彼女は、美しかった。いや、そんなことは最初から知っていた。けれどいま改めて突きつけられたのだ。彼女はひとりでも生きていけるほど、強い。
ディエゴは話を切り上げた。名前は追及しない。静かに納得し、運ばれてきた果物を切り分ける。その横顔にはなんの感慨もなかった。ただそこにいるだけ、役割を全うしているだけなのだと無言の横顔が語っていた。
ディエゴは視線を落とした。
大きな用件はないとはいえ、今日も一日予定が詰まっている。妻ひとりにかかずらう余裕はない。
第一彼女の方が何も言わないのだ。これまで通りの関係を続けられるのなら、これ以上何を望む?名前・名字との繋がりは打算であり、利害が一致したからに過ぎない。そしてそれは今のままでも十分に果たせることだった。今の、氷のような女でも。
新聞を脇へどける。と、またしても息子からの視線を感じた。だが顔を上げるとこれ見よがしに溜め息をつかれ、そうしたことを後悔した。──まったく!言いたいことがあるならはっきり言えばいいものを!
しかしディエゴがしたのは眉根を寄せることだけ。その発言が自分に返ってくる可能性を考えれば、むやみに詰問するのは躊躇われた。
「日に日に顔色が悪くなっているのでは?」
届いたばかりの手紙を差し出しながら、執事のテレンスは指摘する。「大丈夫ですか?」と。
だがその声音に滲むのは主人を心配する思いではない。言うなれば……そう、面白がるような。瞳の奥が子供じみた揶揄いに光るのを認めて、ディエゴは年若い執事を睨んだ。
いつからこんなデカイ口を叩けるようになったのか。こっちは雇い主で、執事のひとり、別に解雇してやったって構わないのだ。確かに歳のわりに使える男だが、……それにしたって限度というものがある。
「このオレが何を気に病んでるって?そもそもお前には関係のないことだ」
「ありますよ。私たちはいわば鏡、あなたには威厳を保っていただかなくては」
「……わかってる」
そこは普通主人の身を案じるところではなかろうか。
だが言い返す気も失せ、ディエゴは乱暴に手紙を受け取る。どうせ下らない招待状がほとんどだ。公的なものと私的なもの。既に従者の手によって分別は済まされている。ディエゴは書斎机に向かい、手紙の差出人だけを斜め読みしていった。
「何があったかは存じ上げませんが、いい加減謝ってはいかがです?もう二週間になりますよ」
しかしテレンスはこの話を続けるつもりらしい。なんの躊躇いもなく、非難の語を己の主人へと投げつける。何度も言うがテレンスは執事であり、普通なら主人に逆らう立場にはないはずだ。
「どうしてオレが謝らなくちゃあいけないんだ?テレンス、お前は何も知らないだろうに」
「ええ、ですが見当はつきます。あなたの悪巧みが奥さまにバレた、それ以外にあの方がお怒りになることがありますか?」
「知った風な口をきくじゃあないか」
嫌みったらしく口角を上げるが、テレンスときたらどこ吹く風。にこりと作り物の笑みを浮かべ、「友人のことですから」と宣う始末。
「……友人?」ディエゴは手紙を置き、目の前に立つ男を見やる。黒のフロックコートに蝶ネクタイ。神経質そうな風貌の男が、「ええ」と小さく顎を引く。
「奥さまはそう呼んでくださいました。親愛なる友、と」
「お前は執事だろう」
「仕事から離れている間は自由でしょう?」
ディエゴはイライラと人差し指で机を小突く。忙しなく、何度も。だがその間もテレンスは笑みを絶やさない。よくもまぁ、いけしゃあしゃあと!
「ご安心ください。私どもは己の分を弁えております。名前さまとは時おり裁縫を教え合う仲というだけですから」
「そのわりには随分親しげじゃないか」
名前で呼んでいいなどという許可を出したつもりはないし、許すつもりも永久にない。
ディエゴは頬が引き攣るのを抑え、テレンスに笑顔を向ける。──このオレですら、『この世界』に来るまでは会話を交わすこともままならなかったというのに!
ディエゴの知る限り、名前・名字とは社交界の頂点に君臨する、孤独な一輪の薔薇であった。だから『この世界』に来て、驚いた。あの氷のようなと評される侯爵令嬢が、深い愛情の感じられる手で抱きついてきたのだ。
『あちらの世界』の名前・名字はいつもつまらなそうな顔をしていた。ディエゴが愛を囁いても、冷ややかに受け流すだけ。ネアポリスの王族と婚約をしたと聞いてからはディエゴも関心をなくしていた。
だからその後のことは知らない。海の向こうで平民と駆け落ち紛いの事件を起こしたという噂はあったが、その頃のディエゴはスティール・ボール・ランに照準を合わせていた。
──そんな彼女がこのオレの手に落ちてきたのだ。他の者に奪われてなるものかと思うのはごく自然な成り行きではないか?
そう考え、ディエゴは己を正当化させる。
「そこまで肩入れしているなら、お前に彼女の監視を任せたのは失敗だったな」
「嘘は申しませんよ。だいたい監視はもういいと指示なさったのはディエゴさまでは?」
「……お前は口答えしかできないのか?」
「これは失礼を」
恭しく下げられた頭に舌を打つ。
だがテレンスの言うことは尤もだ。自分に落ち度があったとすれば、彼女への監視を緩めてしまったこと、その一点に尽きる。
だからこの怒りも苛立ちも、しごくまっとうなものだ。ディエゴは思う。名前はこのオレの妻であり、そんな彼女がジョニィ・ジョースターと密会していた──それだけで、彼女には十二分に非があるといえよう。
責任の所在を妻へ向ければ、ささくれだった気持ちも少しは落ち着く。ディエゴは改めて目の前の手紙に意識を向けた。
紋章入りの封蝋。妻の生家から送られてきた文には、領地についての報告が淡々と綴られている。送り主は現侯爵、つまりは名前の父親からのものだ。
礼儀正しく、丁寧で、だからこそ冷え冷えとした文面。ただの文字の連なりだというのに、近寄りがたい雰囲気がある。上流階級特有の、自信と誇りに溢れた文字。美しく流麗で、遠くに隔たったもの。
名前はそんな男の娘なのだ。だからあの氷のような顔の女こそが真実なのかもしれない。無邪気で純粋、そして愛情深い妻。そう思わされたけれど、すべては幻だった。それは女が自分の体を着飾るのと同じこと。ディエゴは彼女の冴え冴えとした瞳を思い出す。寒々しい、冬の色を。
侯爵は最後に『いつ帰国するつもりなのか』という問いを投げかけていた。
──いや。問い、というより催促か。早く帰ってこいというのが文章からも伝わってくる。
無論それはディエゴに対してではない。侯爵はジョルノを跡継ぎにしたいのだ。だから手元に置きたがる。
──そして、恐らくは名前も。
「……花束が、よろしいかと」
不意に口を開いたのはテレンスである。彼は直立不動を保ったまま、ディエゴを見つめていた。無意識のうちに手紙を握り潰していたディエゴを。
「なんの話だ?」
「女性への贈り物です。謝る時には花の一輪でもあった方が効果的ですよ」
ディエゴはなんでもない顔でくしゃりと潰れた手紙を伸ばす。そうしてから差出人の面を裏にして、文箱へ。
別に急いで返事をする義務はない。だからいいだろう、と誰にともなく言い訳をして、ペンを置く。今は侯爵へのうまい返しが思いつかなかった。
「またその話か。悪いがオレはそこまで情熱的な男じゃないんでね」
教え諭すような物言いを鼻で笑い、ディエゴは席を立つ。
花、──花なんて。どうしてこのオレがそこまで気を遣ってやらなくちゃあいけないんだ?
そう内心では否定しているのに、テレンスの言葉は頭の片隅に引っ掛かり続けた。