元怨霊の犬耳審神者と燭台切

 じりじりと焼きつく太陽を睨んで、名前は髪を掻きあげた。

「煩わしい太陽ねぇ……」

 苛々苛々。荒んでるなぁと近侍である燭台切光忠は遠い目をした。今、彼の主君の機嫌は斜めを通り越している。それは他の刀剣にも伝わっていて、政府への報告書を作成する名前の母屋には燭台切しかいない。触らぬ神になんとやら。自分から災難に巻き込まれにいく変わり者は、現在の本丸には一人もいなかった。

「こっちは親切にも無関係な未来の諸君のために頑張ってあげてるっていうのに……。ねぇ光忠、そうは思わない?」

 何が『そう』なのか。わざわざ聞き返して、主人の気を損ねるような愚かな真似を燭台切はしない。近侍になってどれほどの時間が経ったろうか。お陰で彼は名前が何を考えているのか分かるようになってしまった。

「もう少し過ごしやすくしてくれてもいいんじゃないかと僕も思うよ」

 燭台切がそう答えると、名前は頭にある犬耳をピクリと動かした。
 名前――その名を与えられた彼女はかつて傾国の美姫と呼ばれ、のちに怨霊となった女性である。特殊な能力を持つ者たちの手により、彼女も燭台切たち刀剣のように体を与えられた。だが彼らとは違い、彼女の実体化には実験的意味合いが込められていたらしい。刀剣の付喪神以外にも神を降ろせるのか、という実験。結果、人間であった頃の姿と怨霊となった後の姿が混じり合い、人の体に犬耳と尾がついた不可思議な肉体を得ることとなった。
 そんな名前の耳や尾が口ほどにものを言うことを燭台切は理解していた。だから、彼は揺れる尾を見て微笑んだ。

「少し休憩にしたらどう?」

 パサリ、と名前の尾が畳を叩く。「そうね」と仕方なさそうに筆を置くと、背後に控えていた燭台切の膝の上に倒れ込む。

「光忠の膝は固いわ」

 自分から飛び込んでおいて、この言い様。しかし名前が燭台切の膝から退くことはなかった。むしろもぞもぞと頭を動かし、居心地のよい場所を探そうとしている。女性にしては幼いその仕草。逸話からは想像しがたいが、それが彼女の本性であった。

「少し眠るかい?」

「ううん、このまま……」

 甘やかな声。とろりと閉じた瞼。頬に落ちた黒髪を、燭台切が払う。一瞬触れた肌は驚くほど柔らかい。

「別に疲れたってわけじゃないのよ」

「知ってるよ、君は強い女性だからね」

 言い訳がましい台詞に嘘だろうとは言わない。燭台切はただ、主の求める言葉のみを口にした。

「そうよ、私は強いんだから」

 名前の睫毛が震え、紅い唇が戦慄く。

「なんてこと、ないんだから」

 色が抜けるほど強く握り締められた彼女の掌。それに、燭台切はそっと手を添える。手袋越しに伝わる体温。先ほどとは異なる意味で、名前の耳が揺れた。
 泣き出しそうな声音は、昼過ぎに行われた演練での出来事を嫌が応にも思い起こさせる。怨霊として名高い名前。彼女の存在は、同業にも広まっていた。その広まりようと彼らの名前を見る目に、作為的なものを感じずにはおれない。恐らく時の政府によるものだろうと燭台切は思う。人とも刀剣とも異なる力を有する者への監視。彼女の部隊が行う演練には、そのような意味合いもあるのだろう。どうやら、常に本丸を見張っている狐だけでは不安らしい。
 かわいそうに。その様はひどく哀れを誘った。燭台切の胸に湧くのは庇護欲。その心の赴くまま、彼は口を開いた。
「それでも少し休んだ方がいい。今日は十分に働いたよ。政府も文句を言うまい」
 そう囁く燭台切の瞳が慈愛に満ちていることを名前は知らないし、彼もまた知られるつもりはなかった。主と刀。連れ添った時間は長くはないが、そういった面で似ていることをお互い理解していた。
 「そうかしら」と名前はうっすらと瞳を覗かせる。人ならざる、蠱惑的な紫水晶の眼。それを燭台切はそっと覆い隠した。

「そうさ。だから少し眠るといい」

「ん……」

 燭台切の手の中を睫毛が擽る。その感触から彼女が言葉通り目を閉じたことが分かった。
 燭台切はほぅっと息を吐いた。日はまだ高いところにあるのが簾越しからも分かる。しいんと静まり返った室内。すべてが主人の安眠を守ろうと息を潜めているよう。
 ――夕食はどうしようか。遠征に出ている部隊が帰ってくるのはいつ頃になるのか。そんなことをぼんやりと考えていた燭台切に、「ねぇ、」と名前は声をかける。その瞼を下ろしたまま。

「ん?」

 優しく。優しく。問う燭台切の下で、名前は小さく鼻を鳴らした。

「どこにも、行っちゃダメよ」

 その声は、啜り泣いているようだった。燭台切は思わずその端整な造りの顔を近づける。その気配を察してか、名前は逃げるように顔を背けた。ふっ、と燭台切の口角が持ち上がる。

「どこにも行く気はないよ、僕の主は君一人だ」

「そう……」

 そう。それだけ。名前はそう言って口をつぐんでしまった。暫くして、規則正しい寝息が聞こえてくる。今度こそ本当に彼女は眠りに就いたらしい。
 けれど燭台切は気づいていた。彼に問う名前の声が震えていたことを。燭台切の答えに返した声が安堵の色をしていたことを。
 虚勢を張ることしか知らなかった名前の変化に、移っていく季節に、燭台切は喜びと同時にどこか切なさを感じた。





ーーーーーーーーーーーーー
これも2年くらい前に書いたものだと思います。
主人公のモデルは玉梓です。