Dio√【原作沿い/1897.5】�Y


名有りのオリキャラが出てきます。





「──心ここにあらず、といった風ね」

 降ってわいた声に、名前は肩を揺らす。
 大きな窓から差し込む光。高い天井は開放的で、全体的に明るい印象の部屋だ。繊細な刺繍の施された絨毯、白と金で纏められた調度品。すべてが女性らしい装いである。
 名前はその中にある長椅子のひとつに座っていた。声をかけてきたのはテーブルを挟んで、向かいにいる女性。──いや、彼女のことはまだ少女といってもいい。英国風に言うなら、『社交界に出て二年目の令嬢』といったところか。
 そんな彼女は既に刺繍針を置いていた。薄紅の頬に、好奇心を隠しきれない目。この部屋の主であり、刺繍の会に誘った張本人の注目は、名前へと向けられていた。

「ごめんなさい、アリアンナ。いいお天気だから、つい」

 名前は笑って、止まっていた手を再び動かす。
 刺繍針が紡ぐのは薔薇の形。──でもどうして青い糸なんて選んでしまったのかしら?
 赤でもピンクでもよかった。オレンジも紫も、望めばどんな色だって。
 なのに名前が手に取ったのは、深い深い、青。これではいくつ花をつけてもどこか寂しげだ。寂しくて、痛々しい。だから名前は努めて無心であろうとした。

「……あなたって案外嘘が下手なのねぇ」

 アリアンナと呼ばれた少女は『やれやれ』と溜め息を吐く。歳上の友人相手に、大人びた表情。彼女の関心はすっかり刺繍から遠退いている。
 少女はにんまりと笑い、名前の前に人差し指を立てた。

「当てて差し上げましょうか、あなたの悩み。……ずばり、恋でしょう?」

「……まさか」

「いやだわ、隠さなくっても平気よ?わたし、こう見えて口は固いの。絶対誰にも話さないわ」

 金の巻き毛が揺れる。上品に結われたそれがきらきらと輝きを放つ。眩く、朗らかに。少女はまだあどけなく、溌剌とした若さがあった。

「それがまったくの見当違いだった場合はどうなるのかしら?」

 名前は彼女の後ろに見える木々に目をやる。しなやかに伸びる若葉。瑞々しい新緑が、目にしみる。

「見当違いじゃあないわ!わたしにはわかるもの!『あぁ!朝が来たならきっとあなたは私を愛したことも後悔して、去って行ってしまうに違いない!』……そう、あなたの目が言っているわ」

 興奮に弾む声、紅潮した膚。芝居がかった調子で、少女は手を差し伸べる。朝が来たならきっとあなたは──そう言った少女の目は、まるで本当に愛する者を失わんとしているかのようだった。

「……それ、ワーグナーの『ローエングリン』でしょう?メトロポリタン歌劇場に行ったのね?それもつい最近」

 名前は一瞬の沈黙のあとに笑った。
 愛する人の秘密を知りたがったがために、その人を永遠に失うこととなった、哀れな女。最初にした誓いを破らなければよかったのに。──最初から、多くを望まなければよかったのに。

『夫婦となったからには、私はあなたのために苦しんでもいいはずです』

『あなたのためなら、私は死んだって構わないわ』

『でも歓びの国から来たあなたは、もう帰りたいと思っているのでしょう』

『あぁ!朝が来たなら、きっとあなたは私を愛したことも後悔して、私の元から去って行ってしまうに違いない!』

 ──かつて聞いた台詞が、今また鮮やかによみがえる。

 その通りだわ、と名前は自嘲する。わたくしも、訊ねずにはいられなかった。それが破滅に繋がっているという予感はあったのに、それでもなお真実を求めてしまった。
 ──聞かずにいたなら、幸福がわたくしの元から去ることもなかったろうに。

「そうなの!特に三幕の二重唱は素晴らしかったわ。それにあの結末も……あんなにも愛し合っているのに離れなければならないなんて!」

「そうね」

 名前は相槌を打って、針を置く。
 少し、疲れた。太陽がいやに眩しいせいだろうか。続く晴れ間に、体はまだ慣れないでいる。

「でも残念。生憎ですけど、わたくし、素敵な騎士さまの夢を見たことはないの」

 名前は肩を竦めて、コーヒーカップを手に取る。香りは深く、酸味も強い。昔飲んだことのあるコーヒーとは全然違う。
 無意識のうちに比較して、名前は僅かに目を伏せた。
 友人の淹れてくれた濃厚な味わいのコーヒー。びっくりするほど苦くて、その色は殆ど黒といってもいいくらいだった。なのにまた飲みたいと思う、そんな変わった味をしていた。
 数えるほどの記憶なのに、不思議と恋しく思うのはどうしてだろう?
 ごめんなさい、と名前は繰り返し懺悔する。かつては親しかった友へ、そして、今ではもう遠くへ旅立ってしまったひとへ。繰り返し、許しを乞う。

 ──ごめんなさい、きっと、あなたたちの方が正しかった。

「あら、あなたの騎士さまはもう迎えに来てくれたんじゃあないの?」

「ご期待に沿えなくて申し訳ないのだけれど、永遠は約束してくれなかったわ」

「なぁんだ、やっぱり噂ってあてにならないのね」

 途端に少女は興味を失い、ソファに凭れかかる。

「すごい大恋愛だわって、とっても感動したのに。ほら、あなたたちをモデルにしたっていう舞台があったじゃない?」

 少女の言葉に、名前は苦笑するしかない。現実なんてそんなものだ。少なくとも、名前の感じた永遠は幻だった。

「でもだからって悪いことばかりでもないと思うの。理解していれば、期待が裏切られたと悲しむことも、痛いほど焦がれることもないのだから」

 名前は静かにカップをソーサーに戻す。
 結婚とはすなわち契約の一種だ。どういうものか最初から理解していればなんの問題もない。
 そして理解した今、深く思い悩む必要もなくなった。会えない夜を寂しく思うことも、思いが離れたのではと不安になることも、触れ合えない距離にもどかしくなることも、温もりを抱き締めてなお渇きを感じることも、すべて。すべて、意味のないことだったのだ。

「でもわたしはやっぱり永遠を約束してほしいわ」

「あなたなら大丈夫よ。あなたが愛した人なら、きっと同じようにあなたを愛してくれるでしょう」

 名前は『彼』をよき理解者であり協力者であると感じた。『彼』もまた同じだろう。かつての『彼』は名前を共犯者と呼んだ。
 だから、大丈夫。そう、名前は言い聞かせる。
 あの頃と同じように、今のディエゴとも適切な距離を保つよう心がければいい。そうすればきっとよりよい関係が築けるはずだ。愛してほしいと──愛したいと──、望みさえしなければ。以前感じた幻すらも、彼なら夢見させてくれるだろう。
 名前が微笑みかけると、少女もまた「そうだといいけど」とはにかんだ。
 素直で明るくて、愛らしい令嬢。彼女のようなひとだったら、彼も少しはほだされてくれただろうか?
 心の隅にちらりと浮かんだ疑問は、見なかったことにした。

「ところで刺繍はもういいの?」

「ああ、すっかり忘れてたわ。ダメね、わたしったらすぐお話に夢中になっちゃうの」

「駄目なんかじゃないわ。素敵なことよ、お話上手なのって。わたくしからすれば羨ましいくらい」

「ありがとう。そうやって褒めてくれるから、わたし、名前のこと大好きよ」

 少女はにこりと笑って、「あなたはさすがね」と言う。何を言っているのかと思えば、少女の視線は名前の手元にある。正確には、先程まで縫っていた薔薇の刺繍を。緑の葉をつけた青色の薔薇。周りには蝶も舞っている。

「これならお針子にもなれそう……っていうのは失礼になるのかしら」

「いいえ、嬉しいわ。それにわたくし、昔はお針子になることも考えたの。働くなら仕立て屋がいいわ、って」

 皮肉ではない、純粋な称賛に、名前は思わず目を細める。
 昔は──七年ほど前には、そんなことも考えた。もしも、『彼』がレースに勝てなかったら。その時は、──わたくしが働いたっていい。『彼』がその人生を賭けると言うなら、わたくしもこの命を賭けに出そう。例え『彼』が栄光を手にできなかったとしても、『彼』との結婚を認めてもらえなかったとしても。それでも『彼』に何かを遺してやりたい。そう、本気で思った。

「仕立て屋か家庭教師か……そういうのも悪くはないと思うわ、こういう時代だもの」

「あなたでもそんなことを考えるのね」

 少女は意外そうに目を瞬かせる。
 が、すぐに「あぁ、でも」と手を叩く。その顔に浮かぶのは悪戯っぽい笑み。ひとり納得した後で、少女は無邪気に笑う。

「それってやっぱり恋をしていたってことではないの?」

「……どういう意味?話が見えないわ」

「だって、働くことを考えたのって、彼が労働者階級だったからなんでしょう?ならやっぱりあなたは恋をしているんだわ。気づいていないだけで、今も恋をしているのよ。こう言えばあなたにもわかるかしら?」

 少女の言葉に、名前はちいさく息を呑む。
 窓の向こうには青空が広がっていた。薔薇の花は紅く、蔦の色は緑がかった黒。
 しかし何より際立つのは喜びに芽吹く緑だった。鮮やかな緑。生き生きとした、生命の色。大気の中に澄み渡り、かそけき音を立てている。

 けれど、あぁ、──それよりもずっと美しい緑をわたくしは知っている!

 その確信を得た瞬間、名前は泣きたくなるほどの切なさと愛おしさを感じた。幸福なのに悲しくて、泣きたいほどに愛おしい。
 名前は瞳にわき出る涙を抑えて、ほほえんだ。

「……そうね。きっとわたくし、恋をしているのだわ」

 『ディエゴ・ブランドー』に恋をしている。──きっと、昔も今も、変わらずに。





 屋敷に戻ると、自然溜め息が零れる。そんなつもりはなくとも気を張っていたのだろうか。

「頭が痛むのですか?」

 黒髪のメイドが名前のケープを脱がせながら問う。更衣室(ドレッシング・ルーム)の中、揺れる暖炉の火。浮かび上がるメイドの目はひどく気遣わしげである。
 名前は笑って、「少しだけよ」と答える。本当に、少しだけ。いたいのは、心のほうだ。

「医者を呼びましょう。無理をなさる必要はありません」

「心配性ね、エリザベスは」

 揶揄うように名前を呼ぶと、眼差しが鋭くなる。美人は怒ると怖いのだ。美しく心優しいレディースメイドに、名前の心は温まる。

「ありがとう。でも、いいわ。お医者さまにもきっと治せないもの」

 名前はイブニング・ドレスを脱ぐ。ドレスを、己を縛るコルセットを。
 あとに残るのはペチコート、それからシュミーズ。さらりとした布地は軽く、身を守る鎧を失った今は心許なくもある。
 けれどこれが本当のわたくしなのだわ、と名前は鏡の中を覗き込む。金の髪に蒼色の瞳。緑色の似合わない顔を見つめて、名前は囁く。

「そうね、恋の病といったところかしら」

「恋、ですか?」

「『らしくない』って?」

 振り返ると、着替えを手にしたメイドは困惑していた。はっきりとは露にしないが、たぶんきっとそう。珍しく瞳を揺らし、メイドは口ごもる。

「いいえ、ですが……あまりおすすめはできません。きっとあの方は気分を害されるでしょうから」

「ディエゴが?」

 どうしてディエゴが気分を害するというのだろう?名前は首を傾げ、会話が噛み合っていないことに気がつく。彼女は、勘違いをしているのだ。名前が夫のことを語っているのに対し、彼女は不特定多数の青年を想定していた。
 貴族のご夫人が戯れに若い愛人を作るのはよくあることらしい。夫人用の寝室には愛人を招き入れるための秘密の裏階段があるという話だ。だからメイドも咄嗟にそちらを想像した。
 困惑するのも当然だ。諒解し、名前は頷く。

「……まぁ、そうね。プライドの高い人だもの」

 妻がそんなことをしたなら、彼は絶対に許さない。殺すことだって厭わないだろう。
 そこまで考えて、しかしどうしてか怯えは感じなかった。むしろ納得したし、それでこそディエゴ・ブランドーだと思う。
 けれどメイドは何故か余計に眉を下げた。「いえ、そうではなく……」そこまで言って、口を噤む。
 否定したいのに、それすら容易ではない。そんな具合であったから、名前は笑う。申し訳ないけれど、その懊悩は無意味だ。

「でもその心配はないわ。だってわたくしが恋をしているのは彼なんですもの」

 言葉にすると、不思議と心が軽くなる。そこには清々しささえあって、爽やかな風が吹くのを感じた。
 わたしは、ディエゴが好き。一度口にすると、もうダメだった。わたしは、ディエゴが好き。何度だって声に出したい。──わたしは、ディエゴに恋をしている。
 騙されていたのだとしても、利用されているだけなのだとしても、それでもいいと思ってしまう。勝手に期待して、勝手に失望して、もういやだと泣いたばかりなのに、それでもなお焦がれてしまう。理屈じゃないのだ。どうして彼じゃなきゃいけなかったのかはわからない。でも彼じゃなきゃいけないのだと思う。何度考えたって、彼の手を取る以外の未来が想像できなかった。

「……ならばやはり、お渡ししなくてはなりませんね」

 黒髪のメイドは呟き、ひとを呼んだ。

「それはいったい……」

 どういう意味なの?と名前が問うより早く、別のメイドが部屋に入ってくる。
 途端、名前の鼻孔を擽るのは瑞々しい緑の香り。それはメイドから漂ってくるもので、彼女の手にはクレマチスの花束が抱かれていた。
 そしてそれを受け取り、レディースメイドは「先刻、ディエゴさまが」と説明する。ディエゴが、この花束を買ってきたのだ、と。

「彼が……?」

「はい。ですが名前さまの不在を知るやいなや、捨てるようにと命じられました。しかし花に罪はありませんから。一応、保管を」

 レディースメイドは、「あなたが喜ばれないようでしたら、命じられた通りに処分するつもりでした」と淡々と語る。が、しかし、名前にはもうクレマチスの花しか見えていない。
 一面の、白。ぼんやりとした面持ちで、名前は差し出された花束を手にする。抱き締めると、微かに香る甘やかさ。少し元気がないように見えるけれど、水をやれば持ち直すだろうか。……そうであってほしい、と心から思う。

「……こういうところは、変わらないのね」

 瞳に浮かぶ涙を、今度は抑えきれなかった。一粒、涙が花弁に吸い込まれる。
 子供の頃にも『彼』からは花を贈られたことがあった。白のクレマチス。その花の一輪を、『彼』は名前の髪に挿した。
 でもその思い出を知るのは名前以外の他にない。『彼』はもうこの世にはいないし、こんなことを日記に残すはずもない。今のディエゴが知る術などあるわけがないのだ。
 なのに、どうして。どうして同じ花なんて選んだのだろう?どうしてまったくの他人ではいてくれないのだろう?『彼』との共通点を見つけるたび、優しさを見せるたび、期待せずにはいられない。多くを望んでもいいのだろうかと思ってしまう。──好きでいてもいいのか、と。

「でも花束なんて。そんなの買うところ、想像できないわ」

「ずいぶん熟考なさったようですよ。執事や従僕まで巻き込んで」

「そう、……そうなの」

 名前は花束を抱き締め、両目をきつく瞑った。

「花は寝室へ。飾っておいて、特別、きれいにね」

 そして次に顔を上げた時、その心にはもう躊躇いはなかった。

「彼はいまどちらに?」

「パブに行く、と仰っていたそうです」

「なら迎えに行くわ。支度をお願い」

 言ってから、名前はふと口許を緩める。

「両親の仲違いなんて、子どもに悪影響だものね」

 名前はもう一度鏡の前に立つ。
 金の髪に蒼の瞳。相変わらず、緑色は似合いそうにない。でもだからって焦がれることに罪はないだろう。
 名前は鏡の中の自分に笑いかける。初めて会うみたいな気持ちだ。紅を差さずとも赤い頬にはいくら見つめても慣れそうにない。そんな羞じらいを抑え、名前は彼を想う自分を認めた。