side:Dio


【注意】
ディエゴの従者がヴァニラです。





 自動車とはなんと素晴らしい発明だろう。ディエゴは後部座席からニューヨークの街並みを眺めて思う。
 何よりいいのは御者のご機嫌を伺う必要がないという点だ。自動車なら誰だって運転できる。量産化さえできれば、いずれ馬車にとって代わる存在になろう。今はまだ馬車の方が多いし、貴族の娯楽に過ぎない自動車だが、投資するには十分な資格がある。開発についてはドイツに遅れを取っているが……このアメリカでなら取り戻すことも可能だ。
 その点でいえば、祖国英国(イングランド)よりは、よほど未来がある。英国は昨年ようやく赤旗法などというバカげた法律が廃止されたところだ。英国人は前時代的でセンスが悪い。尤も、アメリカの粗野なやり口を褒める気にもならないが。

「……そういえば、新しいペンが必要だったな」

 道の先、高々と聳え立つ建物を目にとめ、ディエゴはひとりごちる。たったいま思い出したかのように。然り気無さを装って呟くと、ハンドルを握る従者、ヴァニラ・アイスの視線が動く。

「百貨店にお立ち寄りに?ちょうどこの先にありますが」

「そうだな、そうしよう」

 ディエゴはなるたけゆっくり答える。あんまり食いぎみだとさすがのヴァニラ・アイスも訝しむだろう。だからディエゴは余裕ぶって再び大通りに目を向ける。
 ニューヨークの街は相変わらず騒がしい。その中でも百貨店は特別な存在だ。着飾った女性たちがガラス扉の中に次々と吸い込まれていく。無論身なりのいい紳士たちも多いが、割合としては女性に軍配が上がるだろう。
 そういえば、とディエゴは記憶をさらう。そういえば、オレだってそんなに経験のある方じゃない。子供の頃は百貨店の存在すら知らなかったし、長じてからは必要なものはすべて使用人たちが用意してくれていた。目の前の百貨店にだって、名前に誘われて立ち寄ったきりだ。
 ──名前。意識の片隅で、青ざめた瞳が心臓を貫く。考えないようにしていたのに思い出すのは白く冴え渡る容貌ばかり。そんな自分にも苛立ちが募る。
 別に彼女が何を考えようと、オレには関係のないことだ。この契約は簡単に解消できるものじゃない。だから気にする必要もない。まして、妻の機嫌を取ろうなどと。……そんなこと、どうしてオレがやってやらなくちゃあいけないんだ?
 ディエゴがイライラと爪を噛むと、車が止まった。気づけば目の前には一面のショーウインドウ。目的地に着いたのだ。ヴァニラ・アイスがドアを開ける。

「ディエゴさま?」

「あぁ。いや、なんでもない」

 ディエゴは手を振り、車から降りる。だがヴァニラ・アイスの硬質な瞳はわずかに細められる。
 忠実なるしもべでさえこんな顔をするのだ。人を食った笑顔の似合う執事などがこの場にいなくて本当によかった。彼に娯楽を提供するのはごめん被りたい。
 その点、ヴァニラ・アイスは気のきく従者である。ディエゴの態度に疑問を抱きながらも、主人が話さない限り触れてこない。表情を変えることなく、頭を下げる。

「いってらっしゃいませ」

 ……まったく、テレンスにも見習わせたいところだ。





 ニューヨークいち大きな百貨店はさすがの品揃えと言えた。
 華やかな婦人服を纏うマネキン。ガラスの瓶に閉じ込められた香水。数えきれないほどの商品にはすべて正札が貼られている。どこもかしこもきらびやかで、目に眩しい空間だった。
 だがディエゴが手ぶらで馬車に戻ったのは、そんなことが理由なのではない。

「お気に召すものはございませんでしたか」

「……そんなところだ」

 答えると、ヴァニラ・アイスは僅かに眉根を寄せる。

「ディエゴさまのご要望が叶わないなど、あってはならないことです」

 真剣な顔で言ってくれるが、当のディエゴは気もそぞろ。「ああ」と曖昧に相槌を打ち、走り出す馬車の車窓を眺めやる。
 整備された石畳。居並ぶガス灯はやがて電気に取って代わられるのだろう。そんなことを思う傍ら、頭の片隅では相変わらず薄氷が張っている。
 ショーウインドーの向こうは宝物庫だった。そこには世界のあらゆるものが集められているようだった。
 でもそれは過大評価だったらしい。あらゆるものが名前には相応しくなかった。あの冷えきった青色には。どんなものだってその氷を溶かすことはできないように思われた。彼女は侯爵家の娘であり、何かを欲しいと望むことはほとんど見たことがない。

「他の店を回られますか?」

「そうだな……」

 思案の声は自分が思う以上に気のない調子だった。だが実際、まったく見当がつかないのだ。他のどんな百貨店に立ち寄ったって、それこそ世界を巡ったって、彼女の望むものは存在しているのだろうか?

 そもそも、今さら──今さら、彼女が何を望むというのだろう?

 冴え冴えとした瞳を思い出し、心臓がひりつく。
 冷徹な眼差し。その奥底は見えず、何を思うのか定かではない。例えるなら──そう、それはさながらティツィアーノのサロメ。彼女がヨハネの首に向ける無感動な瞳を想起させた。

「……新しいペンがご入用だったのでは、」

 遠慮がちな声に、ディエゴは顔を上げる。後部座席へと向けられたのは困惑の滲む目。そういえばそんな設定だったな、とディエゴは思う。ペンの一本で慌てるほど粗末な暮らしはしていない。

「どうでもいいだろう、そんなことは」

「……失礼いたしました」

 ヴァニラ・アイスは大人しく前を向く。彼にとってはディエゴが法だ。理不尽などと思うはずもない。
 ディエゴはまた大通りに視線を戻す。すべてのものが遠く、色彩に乏しい。
 そんな中で目に留まるのは大きな花籠を持った女たち。

『謝る時には花の一輪でもあった方が効果的ですよ』

「──花、か」

 呟いたのは無意識のうち。訳知り顔のテレンスに、今は不思議と苛立ちを感じない。
 彼の言う通りにしてやってもいいかもしれない。女の機嫌取りのため、などと考えるからいけないのだ。何もかも己の利益のため。これは彼女の持つ財産や資格、血統のためである。

「車を止めてくれ」

 そうと決まれば話は単純。花なんてどこの生まれでもさしたる違いはないだろう。ならば今ここで買ってしまえばいい。そうすれば少しは肩の荷も下りる。こんな些末なことで煩っている時間はない。
 しかしヴァニラ・アイスは「なりません」と固い声。

「なぜだ?お前に花の違いがわかるのか?」

「いえ、ですが花を買うならここより相応しい場所がございます」

「相応しい場所?」

「はい。この先にある劇場近くの広場に、名の知られた花売りがいるとテレンスから」

 花売りに上も下もあるものか。
 ディエゴは内心でそう思うが、ヴァニラ・アイスに続きを促す。この生真面目な従者の言うことなら耳を貸さないでもない。

「なんでもそこの花を贈ると想いが通じるらしいです」

 ヴァニラ・アイスの表情は変わらない。夢見がちな乙女のようなことを言いながらも、彼の声は淡々としている。
 お陰で彼の言葉を呑み込むのに時間がかかった。花を贈ると想いが通じる。下らない噂が己にどんな作用を齎すのか、理解が追いつかない。どうしてヴァニラ・アイスがそんなことを言ったのか、──どうしてテレンスがそんなことを吹き込んだのか。
 暫しの沈黙のあと、ディエゴの脳裏に浮かぶのは、テレンスの人を食ったような笑顔だった。

「……別に、そんな効能を必要としてるわけじゃあないが」

「そうでしたか。それは失礼を」

 いったい何を勘違いしているのか。……いや、テレンスに関してはただ面白がっているだけだろう。彼の冗談を、真面目なヴァニラ・アイスが真に受けてしまった。そんなところだろう。
 推測し、ディエゴは苦々しく舌を打つ。
 とはいえ、あまり強く否定するのも格好がつかない。それはそれで気になっていると高らかに宣言しているようなものだ。
 だからディエゴは悠然と足を組み直し、落ち着いた声で答える。

「だがまぁ、いいかもしれないな。女はそういうの好きだろうし」

 しかしこれ以上の勘違いもごめんだ。

「いいか、こいつは仕方なくだからな」

 念を押すと、ヴァニラ・アイスは頷く。それを見届けて、ようやくディエゴは背凭れに身を預けることができた。





 帰宅したディエゴを迎えたのは、執事の意味ありげな眼差しだった。

「……言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ?」

「いいえ、まさか」

 執事は『とんでもない』と首を振る。が、その表情に焦りの色はない。所作も物言いも丁寧すぎて、かえって演技過剰に映る。慇懃無礼とはまさにこのこと。この言葉はテレンスのためにあるようだ。

「どうだかな」

 ディエゴは鼻を鳴らす。信じられるはずもない。けれど、だからといって追及もしない。面倒はごめんだ。面倒なことも、無駄なことも。

 嫌いだ、と思っているのに──どうしてオレは花束なんぞを大事に持ってきたんだ?

 考えないよう努めていた現実が右手だけでなく思考や臓腑にまで負荷をかけてくる。重石をくくりつけられた気分だ。
 『何もかもわかってます』といった風のテレンスにも腹が立つ。その子供に向けるみたいな生暖かい目はいったいどういうつもりだ?
 そう詰りたいのを堪え、ディエゴは唇を噛む。こんなことにかかずらっている余裕はない。この右手を自由にしてやるのが先決だ。
 思い直し、ディエゴは咳払いをした。

「名前は?まだ帰っていないのか?」

 とっくに日は暮れ、屋敷の中は電気がつけられている。しかし妻の姿が見えない。いるのは執事や従者、使用人だけ。
 ディエゴは第一に『図書室だろうか』と思った。そうでないなら自室で休んでいるか、趣味の刺繍をしているのかもしれない。
 ディエゴは今朝交わした言葉を思い返す。確か、昼にはスタフォード家を訪問すると彼女は言っていた。ジョルノも一緒だ。だから心配はない。相手に不満はあるが、それだけ。それだけで、他に予定があるなどとは聞いていない。
 しかしテレンスは「はい」と首肯する。相変わらずの落ち着き払った声で、淡々と。今晩は夜会に出ていること、その主催者が社交界で浮き名を流している夫人であることを告げた。

「……そうか」

 ──だから、どうした。

 別に名前がどこで何してようと彼女の勝手だ。オレの邪魔にさえならなければそれでいい。むしろ社交であるなら歓迎こそすれ、非難する筋合いなどないはずだ。それは巡り巡ってこのオレの益となる。
 ──そう、頭では理解しているのに。

「ディエゴさま?」

「……捨てておけ」

 花束をテレンスに押しつける。これで両手は自由だ。ディエゴは口角を持ち上げる。
 やっと解放された。それにしても、まったく!こんなもの、最初から用意などしなければよかった。徒労に終わったのは納得いかないが、しかし面倒ごとがなくなったのはいいことだ。
 オレはオレで好きにやるし、名前も名前で好きに生きていけばいい。ご夫人から青年貴族を紹介してもらおうと、彼らと束の間の火遊びを楽しもうと、オレの関知するところじゃあない。障害にさえならなければ、構うことはない。
 なのに体は一向に楽にならなかった。むしろ心臓への痛みさえ感じて、ディエゴは知らず眉を顰める。
 疲れでも出たのだろうか。胸に手をやるが、それ以外の異変は見受けられない。ただ、針で刺されたような微かな痛みだけが残っている。

「ディエゴさま、どちらに」

「パブに行くだけだ。別にいいだろう」

 物言いたげなテレンスを制し、ディエゴは踵を返す。
 染みついた花の匂いが鬱陶しい。先程までは気にならなかった、甘い香り。ディエゴは足早に馬車へと乗り込む。
 嫌なことを忘れるには酒が一番効果的だ。それをディエゴはよく知っていた。