Dio√【原作沿い/1897.5】�Z


 馬車を降り、名前は辺りを見回す。薄暗い路地、馬糞やごみが隅へと掃き寄せられた歩道、そして通りに並ぶのは猥雑な印象の店。普段なら決して近づかない風景に、知らず胸を押さえる。緊張感から、吐き出す息すら強ばっていた。

「──名前さま、」

 それ以上に固い声は黒髪のレディースメイドが発したもの。彼女は名前の隣に立ち、物言いたげな目を向ける。
 相変わらずの無表情。けれどその瞳の奥には温かなものが隠されていると、名前は知っている。だからそうっと息を吐いて、微笑んだ。

「大丈夫よ」

 メイドとしては『行かないでほしい』というのが正直なところだろう。下町の、それも酒場なんて、貴族の娘が行くところじゃない。
 しかしそんな彼女の真っ当な説得を押し切ってまでやって来たのだ。目的地はもう目の前。太陽と月をモチーフにした意匠の看板。すべて執事のテレンスから聞き出した情報通り。
 この向こうに、ディエゴはいる。だからもう、引き返すわけにはいかなかった。

「誰にも気づかれるわけないわ、あなたの変装は完璧よ。そもそも侯爵家の娘がこんなところにいるなんて思わないでしょうし」

「そういう問題ではございません。それに万が一ということもあります」

 安心させたくて冗談めかしたのに、メイドはぴくりとも笑わない。どころか、「この程度、変装とも言えません」とまで言われる。

「下町の子供はもっと泥にまみれています」

「それなら、」

「ですがあなたにそのような格好はさせられませんから」

 これが限界だ、とメイドは首を振る。渋々というのを隠さない。
 名前は自分の体を見下ろした。体の線を覆うマント、深くまで下げたフード、そして紋章のない馬車。名前にとっては十分非日常的だが、これではまだ変装と呼ぶには浅いらしい。メイドの話を聞くに、髪をひっつめ、仮面を被るくらいはしないといけないようだ。

「ですから、どうかお気をつけて」

「もちろん」

「時間はあまり取れません。十分で丸め込んできてください」

「丸め……、いえ、わかったわ。時間になっても戻らなかったらあなたの判断に任せる」

 真面目な顔で言うのだから、冗談ではないのだろう。彼女にとって、いったいディエゴはどういう存在なのだろうか。
 レディースメイドの内心が気になったが、彼女の言う通り時間はかけられない。名前は頷き、改めてフードを目深に被り直した。

「……行ってきます」

 静かに頭を下げるメイドに背を向け、名前は歩き出す。早鐘を打つ心臓からはできるだけ意識を逸らして。





 煙草の煙と、アルコールの重たい匂い。広い店内は薄暗く、月明かりさえ差し込まない。おまけに身分による区分けもないと見える。会員制のナイトクラブしか知らない名前にとって、何もかもが物珍しいものだった。
 とはいえそれはロウワー・マンハッタンにあるようなバーよりは幾らか健全な荒っぽさなのだろう。移民でいっぱいのバーや居酒屋といったらそれはもう酷いものだ。熟成されていないウイスキーや殆ど水のビールなどを疲れきった労働者たちに飲ませているらしい。尤も、名前とて話に聞いたことがあるだけなのだが。
 だから、大丈夫。そう、今度は自分に言い聞かせる。大丈夫。誰も、私のことなんか気に止めちゃいない。名前は戸口の前で一度深呼吸をし、意を決して煙の立ち込める中を進んだ。
 室内を眺め渡し、居眠りする客の後ろを忍び足で抜け、カウンター席へ。向かうと、店主らしき男が名前を一瞥した。
 しかし名前に対する反応といえばそれくらいで、視線はすぐに外され、咎め立てを受けることはなかった。どうやら子供が酒場に潜り込むのは珍しくないらしい。名前は警戒を解き、カウンターの奥へと目をやる。

 ──いた、

 探し人を見つけるのは簡単なことだった。暗がりの中でも輝きを放つブロンド。ただそれだけで、名前にはわかった。
 息をつめ、歩み寄る。コートもクラヴァットもない、白いシャツを着ただけの無防備な姿。俯き加減の横顔からは微かな表情さえ読み取れない。
 それを、名前は不思議な気持ちで見つめる。この人は、本当にディエゴなのかしら?彼が自分の夫に違いないという確信を得ているにも関わらず、名前が感じるのは純粋な疑問だった。

 これほどに頼りない──弱々しく、痛ましい──目の前のこの人が、本当にディエゴ・ブランドーだというの?

 彼の元に辿り着くのにさほどの時間はかからなかった。けれど今の名前にはそれが永遠のようにも思われた。深い深い海を泳いでいくかのように、途方もない。
 名前は息苦しさを覚えた。頭の中を駆け巡る幾つもの台詞のせいで、今にも溺れてしまいそうだった。
 わたくし、色々なことを考えたのよ。名前は思う。あなたのことだけを考えていた。あの夜から、ずっと。
 なのにどうしてあなたはこんなところにいるの?どうしてわたしを待っていてはくれなかったの?どうして花束を買ってきたりなどしたの?どうして、どうして──

 あなたは何も言ってくれないの──?

「……深酒なさるなんて、感心しませんわね」

 なのに口から出るのは──あぁ!なんて可愛いげのない言葉だろう!

 持ち上げられた顔。驚愕に見開かれた目。その緑色の中に映り込む自分に、泣きたくなるほどの喜びを感じる。
 しかし喉を震わすのは突き放した物言いで、言ったそばから後悔する。好きだと──考えただけで目眩がしそう!──自覚してしまったからこそ、どんな態度を取っていいのかわからない。

「おまえ、どうして……」

 呆然とした様子からは普段の取り澄ましたところなど微塵も感じられない。
 青ざめてさえ見える頬が見て取れ、名前は出し抜けに『白熱灯だわ』と閃いた。二十年ほど前に発明された、白熱灯。ガラスの球体と、その中に植えられた金属の細い糸。あれは確か──そうだ、フィラメントと呼ばれるものだ。炭素フィラメント。冷ややかで、なのに触れた途端に壊れそうなほど頼りない。そんな印象を受けたのだ、とディエゴを見下ろして思う。

「……お礼を、言いたくて」

 そんなことを考えていたからか。名前の中にあったプライドのようなものがみるみるうちに萎んでいった。

「嬉しかったわ。それにとても驚かされた。あなたが花束をくれるなんて、夢にも思わなかったから」

 名前は微笑んだ。ごく自然に口許が綻んだ。忘れかけていたものを取り戻すことができたとさえ思った。
 しかしディエゴの方は対照的だった。彼はやにわに顔を歪め、かと思えば「フン、」と鼻を鳴らした。

「白々しいことだな、まったく。嬉しいなんてこれっぽちも思っちゃいないくせに」

 その唇に浮かぶのは、紛れもない嘲笑。言葉は断定の形を取り、抜き身のナイフの如き鋭さを持っていた。
 射抜かれ、名前は思わずたじろぐ。冷や水を浴びせられた気分だ。しかし寸でで踏み留まり、強い意思を込めてディエゴを見つめ返した。

「どうしてそう思うの?そんな皮肉を言うためにこんなところまで来るほど、わたくし、暇じゃないわ」

「なら夜会になんか行かなきゃいい」

「どういうこと?話が見えないわ」

 わけがわからなくて、混乱する。ディエゴが何か良からぬ勘違いをしているのだというのは察しがついたが、それ以上を考える余裕がない。一息で冷やされた心臓が縮み上がり、思考の邪魔をしていた。
 そんな名前を、ディエゴは鼻で笑う。「わからない?へえ?」……うそつき。言外に責め立てられ、名前は息を呑む。

「確かにな、ちょっとくらい無知な方がバカな男をたらしこむのに都合がいいってわけか」

 吐き捨てるディエゴの顔には、相変わらずの薄笑いが貼りつけられている。気圧された名前は二の句が継げない。それをいいことに、ディエゴは言葉を続ける。

「どうせ今晩だってお楽しみだったんだろ。若いツバメを手玉に取って。とんだ悪女だな」

「そんな……そんな言い方ってないわ。ただの夜会よ。あなただってご存知でしょう?」

 あまりに直接的な言葉に、さすがの名前も気色ばむ。
 夜会の出席者には確かに大学を出たばかりの青年もいた。けれどだからといって間違いが起こるはずもない。自分が多くの人間と情を交わせるほど器用な質でないのは重々承知しているし、そもそも婚姻とは神聖な誓いだ。破ることなど考えたこともない。
 なのにディエゴはまるで夜会そのものがふしだらな集いであるような言い方をした。夕方から始まったパーティが舞踏会になることなく終わったこと、紳士たちの多くがナイトクラブに流れたこと、それらを言葉を尽くして伝えても、ディエゴはまるで聞く耳を持たない。

「知ってたら行かせなかったさ」

 そう言って、肩を竦める。
 でも彼の足はカウンターの下で小刻みに揺れていた。これは苛立っている証だ。悠然と構えた風であるけれど、腹の底が煮立っているのは明白だった。

 ──でもこんな屈辱を受ける謂れはないわ。

 理不尽な怒りを向けられ、名前は眦をつり上げる。

「そんなこと今まで一言も言わなかったじゃない!だいたいどうして……まるで嫉妬でもしているみたいだわ!」

 限界だった。けれど口にしてから、悲しみが込み上げた。
 どうしてこんなことを言われなくちゃいけないのかしら。名前は思う。どうしてこんなことをわざわざ否定しなくちゃいけないの?こんな、当たり前のことを──まさか、彼は本気で私が裏切るとでも思っているの?
 だったらこんなに悲しいことはない、と名前は唇を噛む。力を入れていないと涙の膜が壊れてしまいそうだった。今までの六年間が、途端に空虚なものへと変わっていくようにさえ思われた。
 肩で息をする名前を、しかしディエゴが目にすることはなかった。彼はスツールに座ったまま、頬杖をつき、半分ほど中身の残ったグラスを睨み据えていた。
 沈黙が落ちた。いや、正確に言うなら、そんな錯覚をした。酒場には変わらず喧騒が渦巻いていたけれど、少なくとも名前は張りつめた沈黙が幕のように降ろされたのを感じていた。

「……したら悪いって言うのか?」

 それを破ったのは、ともすると聞き逃しかねないほど小さな呟き。唸り声にも似たそれを拾いあぐね、名前は「え、」と声を洩らす。
 その反応が気に食わなかったのか。

「────ッ」

 ディエゴは弾かれたように顔を上げた。顔を上げ、鋭い眼差しをそのままに、名前の手首を掴む。
 身構えていなかった名前に抗う術はない。強い力で引かれ、重心が傾く。あっと声を上げる暇すらない。できたのは、目を瞑るという反射的な行動のみ。次に訪れる衝撃に備え、名前は身を固くした。

「ぃ……っ」

 けれど、痛みはほんの一瞬。鈍い音を立てたのは前歯だけ。

 ……前歯だけ?

「わかっていないようだから教えてやる!おまえの夫はこのオレだッ!ジョニィ・ジョースターでも他の貴族どもでもない、このDioだッ!」

 今の今まで封じられていた唇を押さえ、よろめく名前をよそに。満足げに笑うディエゴは自分を親指で指し示した。
 だがそんな宣言をされずとも名前は理解している。つい先ほど自分の腕を乱暴に引いたのも、一片の甘さすらない口づけを与えたのも、他ならぬ目の前の彼であることを。すべて理解していたからこそ、呆気にとられ、名前は呆然とディエゴを見た。

「おい、感想のひとつもないのか?」

「……なんだかすっごく疲れたわ」

 ディエゴが眉を寄せるのもどうだっていい。理解の追いつかないことが立て続けに起きて、頭がくらくらした。
 名前は溜め息をつき、ディエゴの隣の席に腰を下ろす。そうするとテーブルに置かれたグラスがきらりと光るのが見えた。

「ねぇ、一口いいかしら」

「は?」

「いいわよね、それくらい」

 返事を待たず、ディエゴのグラスを奪い去る。飲みかけの赤ワイン。質が言いとは言いがたいそれを、少しだけ口に含む。
 少しだけ、──でもこれで、言い訳がひとつできた。時としてアルコールは人に勇気を与えてくれる。こんな時には、特に。
 火照り始めた頬を気のせいにして、名前は「言っておきますけど、」と強い口調でディエゴに向き直る。

「あなたに指摘されなくたって私は理解しているわ。だってあなたを選んだのは私自身ですもの。あなたの妻はこの私、他のどんな貴族でも資産家の娘でもない」

 ほんの少量でも、アルコールの魔法は本当だった。口火を切るとあっという間。緊張感で強ばっていたのが嘘みたいに舌はよく回る。
 でもきっと冷静になったらそれでおしまい。もう二度と素直になれない気がして、名前はディエゴの手を取る。先刻までとは反対に、力なく投げ出されたままの手。それを握り、虚をつかれた風のディエゴを無視して、また口を開く。見開かれた緑色の目を、今度こそしっかり見つめて。

「私は『ディエゴ・ブランドー』に賭けると決めたの。私の愛するひと、幼馴染みの彼と、──それから、あなた。1891年1月以降のあなたに。私の人生を賭けるって、とっくの昔に決めていたのよ」

 確かに今目の前にいるのは私の知っているディエゴじゃない。私が愛したいと最初に願った彼は、もうどこにもいない。
 拭いようのない悲しみを感じながら、けれど名前は微笑んだ。
 『ディエゴ・ブランドー』は嘘のつける男だ。自分の目的のためなら手段を選ばない。情けなく涙することもできるし、命を奪うことだって無感動に行える。だから、彼が嘘をついていないという保証はない。嘘をつかれていても、きっとわからないだろう。
 でもそれでいいんだわ、と名前は思う。騙されて、また傷つくことがあるかもしれない。もう嫌だと逃げ出したくなる日が来るかもしれない。
 けれど自分の選択に責任を持つと決めた。後悔するつもりはない。したとしても、立ち直ってみせる。だから平気だ。──ディエゴと離れることになるより、ずっといい。
 名前は笑みを深め、立ち上がる。

「さぁ、帰りましょう。私の賭けに乗ってくれるなら、この手を取って」

 お願いだから、とは言えなかった。ほんのちょっとの良心と、プライドのために。
 手を差し出す名前に、ディエゴは目を瞬かせる。そして驚きが過ぎ去ると、長い息を吐き出した。やれやれ、と。

「仕方ないな、そこまで言うなら賭けに乗ってやらないこともない」

 どこまでも偉そうな物言いに、その足を踏んでやりたい気持ちになる。……ほんの少しだけ。
 でもそれ以上に喜びがあって──本当、悔しいことに!──名前はディエゴの手を握る力を強めた。せめてもの抵抗だ。
 なのにディエゴはにやにやと笑うばかりで、名前は内心溜め息を吐く。

 ──これでも好きな気持ちは変わらないのだから、もうお手上げとしか言いようがない。