プロシュート√【ありえない話】
原作後。暗殺チームでプロシュートと夢主だけ生き残っていたら。
プロシュートは新パッショーネで働いています。
当初の予定では昼食を取ってからヴェネツィアを発つ予定だった。だが一本列車を早めれば、夜が来るより先にナポリに着くことができる。プロシュートがそれに気づいたのは朝食の席で、決断もまた同時に行われていた。
だからといって仕事に手を抜く質ではない。命じられた通りの働きをして、プロシュートは列車に乗った。予定と違うのは昼食を車内で済ませたことくらいだ。食事にはさほどの拘りはない。──名前とは違う。
──名前。
流れゆく車窓を眺めながらナポリにいるはずの彼女を思う。憂いがちな瞳や、控えめな微笑を。快活なのが印象的だった彼女も、仲間の多くが死んで以来、塞ぎ込むようになった。
名前にはオレしかいないのだ。プロシュートは何度目かの結論に至る。やはり帰宅を早めたのは正解だった。ナポリが近づくにつれ、鮮やかな青空に厚い雲がかかりだした。
定刻通り、列車はナポリ中央駅に到着した。人波の中を行くプロシュートの足取りに迷いはない。ボスへの報告は後にして家路を急いだ。
現在プロシュートと名前が暮らすのはトリブナーリ通りに面したアパートである。かつてアジトとしていたサン・ドメニコ・マッジョーレ教会の近くの家は売り払ってしまった。二人で住むには広すぎたからだ。名前は残念がっていたが、しかしプロシュートは正しいことをしたと思っている。名前だって今は納得しているはずだ。
少々感傷的すぎるきらいがある彼女には、手を引いてあげる強い男が必要だとプロシュートは常々思っている。そしてそれができるのは自分しかいないのだ、と。
『ええ、そうね。あなたがいてくれて本当によかった』
思い出の中の名前は穏やかな笑みを浮かべていた。彼女は自分の左手を握るプロシュートのそれを、もう片方の手で撫でた。優しく、愛情深く。名前の声は夏のティレニア海で、さざ波のように心地よく打ち寄せた。
思い出を振り返るうち、気づけばもう我が家は目の前だった。夕暮れの中、伸びる影。閉め切られたままの窓を見上げ、プロシュートは足を速める。
だがしかし、室内には重苦しい静寂が横たわっていた。ドアの開く音だけが空しく響く。それ以外は微かな息遣いさえない。プロシュートは眉根を寄せた。名前のクローゼットからは上着が一枚なくなっていた。
寝室を出たプロシュートが次にしたのはコーヒーを淹れることだった。いやに整頓されたキッチンに入り、カッフェティエーラを手に取る。
揺らめく炎。中蓋にコーヒーを入れたカッフェティエーラを火にかけながら、見るともなしにその様子を眺めやる。青ざめた炎を。裁きの火を、悪徳と頽廃の証を。
──悪徳だって?
プロシュートは己の思考に笑う。悪徳、そんなのは今さらの話。この仕事に一般の尺度は当てはまらない。正しさとは己の中にあるものだ。少なくとも、プロシュートはそう確信している。
やがて水は沸騰し、どろりとしたコーヒーが出来上がる。それをこの家には二つしかないコーヒーカップのうちのひとつに注ぎ、プロシュートは砂糖を入れた。一杯、二杯、三杯……、そして、四杯。入れすぎたと気づいた時には既に遅い。溶けきらなかった砂糖の丘を見下ろし、溜め息を吐く。
だがまぁ、これはこれでよいものだ。コーヒーと砂糖を混ぜ合わせながら思う。ぐるぐる、ぐるぐる。一定に、機械的に。手を動かしていると、平静が帰ってくる。
この行為には心を落ち着ける効果があるのだ、と言ったのは誰だったろう。恐らくそのうちの一人は名前だ。名前と、他の誰か。こんな下らない世間話を楽しむのはホルマジオか、メローネか……それともオレ自身だったか?
プロシュートは振り返ってみるが、うまく思い出せなかった。名前の笑顔も、それに応じる者の顔も。えらく昔のことのように思われて、顔を顰める。それほど時間は経っていないはずなのに、おかしなことだ。
記憶を辿るのを諦め、コーヒーをかき混ぜる手を止める。いつの間にか白の点描は黒色にすっかり取り込まれていた。いつの日にか見た、屈託のない笑顔も一緒に。
「……あら?もう帰っていたの?」
自分の思いつきに違和感を抱いていると、ドアの開く音がした。自分以外の、誰かの気配。ずいぶん久方ぶりに感じるが、時計を見れば帰宅してから一時間ほどしか経っていない。もう長いことひとりでいた気がするのだが。
顔を上げると、「おかえりなさい」と微笑む名前がいた。
「早く帰ってくるなら言ってくれればよかったのに」
言いながら、彼女は冷蔵庫を開ける。その手には買い物袋がひとつ。生活感溢れる姿に、プロシュートは知らず安堵の息をつく。自分のいないこの一ヶ月あまり、名前はきっと同じような日々を繰り返していたのだろう。必要最低限の外出と、この平穏と安寧に満ちた箱庭での暮らし。それが名前にとっての幸福なのだ。
「少しでも早く帰りたくてな」
「けどお陰で私、驚かされたわ。鍵をかけたはずなのに開いているんだもの。一瞬ヒヤッとしちゃった」
名前は少し怒った顔をプロシュートに向けた。少し、怒ったような、いや、或いは──。
……或いは?
その先を考えかけて、プロシュートは内心首を振る。それ以外の何があるというのか。名前の物言いは冗談めかしたものだった。だから、それ以上、深く考える必要はない。
「わるかった。……寂しい思いをさせたな」
片手で抱き寄せ、もう片方の手で名前の頬を撫でる。白く、すべらかな膚。純粋で、無垢な証に、心は凪いでいく。
「仕事だもの、仕方がないわ」向けられる紫水晶の瞳に濁りはない。透き通ったそれは、真っ直ぐに親愛の情を伝えてくれる。
「ジョルノにはもう報告した?彼、あなたのことすごく気にかけてくれているのよ」
しかし続く言葉に、何故だか奇妙な感覚を覚えた。背筋の冷たくなるような──そんな軽い衝撃。見つめ返すが、名前は「どうしたの?」と小首を傾げる。彼女にはこの感覚がわからないのだ。途方もない、違和感が。
「……いや、ボスへの報告はまだだ。急ぎの案件でもなかったしな」
「そうなの?ならいいのかしら……」
名前は考え深げに顎に手をやる。プロシュートがわざわざ『ボス』と言い直したのには気づかない。気づいていない。名前は、何も知らない。
──ほんとうに?
「……ここ一ヶ月、話をしたか?」
「誰と?……あぁ、ボスのこと?」
「……そうだ」
胸の辺りにある名前の顔。隆起する喉、紅い唇。その動きを、じっと見つめる。怪訝に迷うのも、呼吸のためにわななくのも、『ボス』という語を表すのも。ささやかな唇の動きすらも見逃さない。だから一瞬、ほんの一瞬だ、『ボス』と呼ぶ前に、名前は何か違う言葉を言いかけた。何か違う──Gで始まる類いの、言葉を。
名前は眉を下げる。困った風に笑う。「そりゃあ話くらいはするでしょう」何をバカなと言いたげに、名前はプロシュートの腕を叩く。「彼は私のボスでもあるんですからね」当然の回答だ。名前の唇はいつだって正論を振りかざす。
いつだって、いつもそうだ。プロシュートが仕事をやめるようにと言った時も素直には受け入れなかった。危険だと説き伏せても納得しなかった。『前線に出なくたってできることはあるでしょう?』彼女はそう言って、組織の新しいボスも同意を示した。そうなってはもう拒む台詞も思いつかない。だから仕方なく彼女の要望を聞き入れた。
実際、彼女の言うことは正しかった。ボスも彼女を評価している。『彼女にとって、これが幸いとなればよいのですが』そういえば、どうしてあの時ボスは含みのある物言いをしたのだろう。思えば、あの年若いボスはやたらと名前のことを気にかけていた。旧知の仲というわけでもないはずなのに、二人の間には何となく同種の空気というものが感じられた。
「どうしたの、プロシュート」
「いや……」
「きっと疲れているのね、休んだ方がいいわ」
だからたぶん、今回も名前が正しい。プロシュートはぼんやりとした頭で思う。名前が名前を呼びかけて、ボスと言い直したなどと、そんなことを考える方がおかしいのだ。そんな、くだらない、意味のない──こと。
「ほらほら、いつまでも立っていたんじゃ落ち着かないでしょ。こっちに座って」
「あぁ、そうだな」
名前に手を引かれ、ソファに座らされる。二人がけの長椅子に。
そういえば、これを買うと決めたのもプロシュートだった。家中の家具はすべてそうだ。そもそも名前は最初、一人で住むための物件を探していた。
『みんなと離れるのは寂しいけどね』名前はそう言って、がらんどうのアジトに目をやった。今ではもう空白ばかりの部屋を。それを見て、プロシュートは彼女と共に住む家を手配した。すべて名前が寂しいと言ったからだ。すべて、名前のためなのだ。
「なんだか顔色が悪いわね。いつも白いけど、今はちょっと青ざめて見える」
気遣わしげな囁きが膚を撫でる。名前の手が伸びて、プロシュートの目許をなぞる。
細い手だ、と思う。腕も、足も、──首も。何もかも、男の手でなら簡単に手折ることができる、女の体。そう考え、脳裏を幾つかの棺桶が過る。教会の鐘の音。寒々しい墓石。忌々しいそれらが、臓腑を冷ややかに舐める。
「お前は、」
「ん?」
「お前は、なんともなかったのか」
その聞き方では、まるで、何かあってほしかったみたいじゃないか。
「……そうね。やっぱり少し、寂しかったかも」
名前はプロシュートの手を取る。「あなたがいてくれて、本当によかった」噛み締めるように、言い含めるように。紡がれた言葉は、果たして何度目の慰めだろう。わからない、もう、思い出せない。けれどプロシュートはその言葉に、何度目かの安らぎを見出だした。
「そういえば、あなたお昼はちゃんと食べたの?この時間に帰ってこれるってことは向こうで時間取れなかったんじゃない?」
「心配性だな、ちゃんと……何かしらは口にした」
「何かしらって……軽食でも作りましょうか?」
曖昧に答えると、名前は席を立とうとする。
「待て」
その手を掴んだ。先ほど折れそうに細いと思った手首を。掴んで、──また、恐ろしく思う。
人は、簡単に死ぬものだ。
「ここにいろ、オレのそばに」
命じると、名前は瞳を揺らす。悲しげに、──痛ましげに。「わかったわ」と頷き、座り直すその体を、プロシュートは抱き締めた。掌全体に、温もりを感じた。人肌を、鼓動を、二人きりの、小さな箱庭を。
まるで懇願するようじゃないか。落ち着きを取り戻した頭でプロシュートは思う。命じたはずなのに、それは乞うる色をしていた。これでは名前にオレが必要なのではなく、オレ自身が名前を必要としているみたいだ。オレだけが、名前を──
「いいの、いいのよ、プロシュート」
嫌な考えは、名前の声によってかき消される。名前の、穏やかな海に似た柔らかな声が、プロシュートを包み込む。
その子守唄に、プロシュートは瞼を下ろした。もう何も、恐れるものはないのだ。箱庭には、平穏と安寧だけが存在している。それ以外のものは、必要なかった。
強ばりのほどけていく体を抱き締め直し、名前は息をつく。
「ごめんなさい……」
それは、誰に対しての謝罪だろう。プロシュートへ?それとも心を配ってくれたボスへ?
どちらに対してもだ、と名前は思う。とりわけ、この二人に対しては申し訳なく思う。もっと早くに気づけていたら──彼が心に負った傷も、癒えていたかもしれないのに。
仲間が皆亡くなって、それでもプロシュートは泣かなかった。悲しむどころか、名前のことばかり気遣った。そういう人なのだ。優しくて愛情深いのに、それを悟られまいとする不器用なひと。名前だって彼の性質は理解していたのに、なのに彼が名前の生活に口を出すようになるまで気づけなかった。過干渉になるほど、喪失の痛みが彼に深い傷を残していることに。
だが仲間の誰もいない今、彼の変化に気づく者はいなかった。──新しく組織のボスの座に収まった少年を除いては。
ジョルノ・ジョバァーナはその聡明すぎる双眸を名前に向けた。
『少し、距離を置いてみては?』
提案は、すぐに実行された。ジョルノはプロシュートにヴェネツィアでの仕事を与え、私には自由な時間が齎された。
──でも、ダメだった。どんなに遠く離れていたって、彼は私を気にかけ続けた。
名前は力の抜けたプロシュートの体をソファに寝かせた。あまり良い睡眠が取れていなかったのだろう。規則正しい寝息を洩らす顔を、名前はすぐ近くで眺める。
「きっと、私じゃなければこうはならなかったのでしょうね」
他の誰でもよかった。他の誰だって、きっとこんな風に彼を追い詰めることはなかった。彼がこうなったのは、生き残ったのが私一人だったからだ。危なっかしくて頼りない──庇護すべき、『女』。そうじゃなかったら、どんなによかったろう。
自嘲に、しかし答えはない。プロシュートは眠っている。身動ぎひとつせず、こんこんと眠り続けている。
だから名前も安心して、彼の体温に触れることができた。胸に頭を乗せ、鼓動に耳を傾けることも。
頼るのも、弱音を吐くのも、彼が眠っている時にしかできない。そうでなければ、きっと彼は心配してしまう。今の彼にそんな負担はかけられない。庇護すべき『女』であってはいけない。だから私は、──彼を好きになってはならないのだ。