原作から数年後、メローネだけ生き残っていたら。
パッショーネを抜け、逃亡生活をしてる設定です。
遠く澄み渡る青空の向こう。浮かび上がる黒いシルエットを認め、名前は足を止める。
──あの飛行機は、どこへ向かうのだろうか。
「どうかしましたか、お母さん」
「……いいえ、なんでもないわ」
名前はにっこり笑って、首を振る。自身の手を引く子供──その姿をした、スタンド。ベイビィ・フェイスに笑いかけ、歩みを進める。
飛行機の影は、既に見えなくなっていた。
イタリア、カンパニア州ナポリを離れ、数年。名前が腰を落ち着けたのは、それより遥か北にある都市、ミラノだった。
とはいえ深い理由はない。ナポリにはいられなくなったから、それ以外ならどこだってよかった。ミラノを選んだのは他より仕事にありつけそうだったからだ。
だから時々、立ち止まりたくなる。時間に追い立てられるようにして生きるミラノの人波の中にいると、どうしようもない焦燥感に駆られた。自分がとてつもない間違いを犯しているのではないか、と。立ち止まって、振り返りたくなる。
そうしてみても、背後にあるのは排気ガスに煙る街並みだけなのだが。
「おかえり、名前」
街の中央からは離れた場所、マンションと呼ぶには部屋数の少ない建物の一室が今の名前のすべてだ。
すべて──そのひとつが、たった今出迎えてくれた青年、メローネである。彼と彼のスタンド、それだけが足元の心許ない今の名前にとって確かなものだった。
そんな彼に「ただいま」と応じ、上着を脱ぐ。その横をベイビィはすり抜け、居間へと駆けていった。
「おつかれ。コーヒー、飲むだろ?淹れるよ、座ってて」
「ありがとう。助かるわ」
メローネは「これくらい当然さ」と笑う。目許を隠していないと好青年そのものだ。
そんな彼は在宅でもできるデザインの仕事をしている。極力外には出ない。どこまで組織の目が届いているか、わからないから。
彼の後を追って居間へと向かいながら、名前は口を開く。
「外はもうすっかり陰気なものよ。朝方は晴れてたし、まだ冬の初めだっていうのに……今じゃあもう何もかも灰色で、少し怖いくらい」
「ははっ。それ、去年も言ってたな」
「そう……だった?」
「絶対言ってたぜ。みんな暗い顔でせかせかしてて、気が滅入るって」
それはつまり、進歩がないということではなかろうか。歩み続けているつもりで、本当はただ流されているだけでは?名前の脳裏に浮かんだのは、無表情に行き交う人の群れだった。
「はい、コーヒー」
沈みかけた思考を掬い上げたのはメローネだった。彼と、温かなコーヒーの匂い。白い湯気に当てられて、頬に熱が戻る。随分と体を冷やしていたようだ。
「……おいしい」
一口。飲んで、息をつく。ただそれだけで、体の強ばりが解けていく。
「おつかれさま」労りに満ちた声に、目を上げる。軋むソファ。背凭れに肘をついたメローネは、ひどく優しい顔で名前を覗き込んだ。
「そう見える?」
「ああ。ま、悩ましげなあんたも悪くないけど」
冗談めかしてから、メローネは「けど名前は笑ってる方がいいな」と笑う。嫌な感じのしない、爽やかなそれ。彼の背後に伸びたガラス窓からは、日差しが滲んでいる。
こんなに優しい人だったろうか、と名前は思う。こんな生活になる前は──もっと賑やかだった頃は、彼のことを変わった人間だと思っていた。常人とは異なる思考回路を持った、全く別の人種。そのように考えていた日々が、最早懐かしい。名前にとって、今のメローネは家族のようなものであり、唯一の繋がりでもあった。
「……私も、そういうあなたは好きよ」
……他に、いったい何を望むというのだろう。
「あのね、メローネ、」
知らず零れた言葉は、しかしメローネの「しまった!」という声にかき消された。
「昼メシ、作ってる途中だったんだ。もう少し待っててくれ」
「悪いな」そう言い置いて、メローネは立ち上がる。指先が、戯れのように名前の髪を掠める。
「……、」引き留めかけ、名前は目を伏せた。「うん、待ってるわ」その指先の冷たさを私は知っている。私の自由を遥かに凌駕する、それ。
名前は空白の横たわるソファを見つめた。それから、窓枠の中のくすんだ景色を。見つめ、思う。数日のうちに雪が降りそうだ、と。
「どこか痛むのですか?」
気づくと目の前にはベイビィ・フェイスが立っていた。気遣う、というより純粋な疑問の目。その藍錆色の体を抱き寄せ、名前は力なく首を振る。──この子が本当に、私の子供だったらよかった。
「いいえ。私はとても幸せだわ」
抱き締めた体は無機質で、冷たかった。それはメローネの指先と同じように。
にんにくとトマト、それからバジルを混ぜただけのパスタ。それでも以前よりはだいぶ進歩したものだ、とメローネは思う。前は自分で料理することなんかなかった。たぶん、永遠よりももっと刹那的なものを求めていたのだろう。これが歳を取る、ということなのかもしれない。
「それでね、彼、シチリアの食材を海外に売り込みたいって言うの。だから私、日本との橋渡しをしようかと思って。あっちじゃそういうのって結構人気あるから」
パルメザンチーズを振りかけて、名前は言う。新聞社で知り合ったというシチリア人の話だ。オレンジやライムのジャム。煎ったアーモンドに干したイチジク。それから、サボテンの実。
「なんだか懐かしくなっちゃった。ほら、昔……食べさせてもらったことがあるでしょう?」
名前は『誰に』とは言わなかった。メローネも聞かなかった。
「ああ、覚えてるよ」実際、忘れられるはずもない。メローネには数年前のことが色鮮やかに思い出すことができた。サボテンの実。瑞々しい味や表皮の様々な色、そしてその棘の痛みに至るまで。
「私じゃあんなに綺麗に剥けないからすっかり疎遠になってたけど、甘酸っぱくて美味しかったわ」
「よかったね」そう答える声が、どこか遠い。
フォークでパスタを巻きつけながら、重なるのは器用にナイフを扱う無骨な手。メローネのよりずっと大きく、頼りがいのあるそれが、サボテンの棘に刺されることはない。流れる手捌きは、見惚れるのも当然と言えた。
「ねぇ、名前」
「なに?」
「もっと遠くに行こうか。ここじゃなく、もっと別のどこかへ」
提案すると、名前は少し眉根を寄せた。
「どこへ?」真っ直ぐに突き刺さる視線。澄んだガラス玉が薄曇りの世界にくっきりと浮かぶ。「ミラノの他なんて、もっと仕事が見つからないわ」名前は現実的だ。刹那的な悦楽よりも穏やかな安寧を願う。そういう性格だから、きっと彼女は──
「そうだな、その通りだ」
今さらそんなの、わかっていたはずだ。そう、メローネは内心で自嘲する。
名前がオレに向けるのは同情や憐憫、愛着であって、かつての『彼』に抱いていた感情とはまったく異なるものだ。それを理解した上で、彼女を選んだ。逃避行のように慣れ親しんだ街を離れて、組織の目があるから一人では生きていけないと同情を誘った。ベイビィ・フェイスを実の子のように扱うのだって、愛情深い彼女に離れがたいと思わせるためだ。
これまでを振り返りながら、メローネは自身のスタンドを見やる。子供の形をした、人形の目。それはメローネを見て、それから名前に視線を移した。
「ですが今朝、飛行機を見つめていました。お母さんは国に帰りたいのではないですか?」
「え?えぇ、そうね……」
名前は考え込む仕草をする。一秒、一分。名前の答えを待つ。その時間は、一種の拷問とも言えた。
やがて名前は「確かに帰りたくはなるけど」と微笑んで、ベイビィ・フェイスの口許を拭った。
「あなたたちも一緒じゃなきゃ、きっと寂しいだけだわ」
それは理想通りの答えだった。
なのに、心は満たされなかった。──伏せられた名前の目が、どこか悲しげであるのに気づいていたから。
名前はきっと、普通の家族が欲しいんだ。ごく普通の両親と、その二人の血を引いた子供。そういう当たり前の、温かな家庭が名前の望みなんだろう。メローネは考え、それから『ごめんね』と心のうちで呟く。──ごめんね、名前。悪いけど、その願いは叶えてあげられない。
出産で命の危険を伴うのも、子供が産まれて彼女の自由が奪われるのも嫌だ。けれど何より嫌なのは、彼女が母親になることだ。オレが好きなのは今の名前であって、母親というまったく別の生き物に生まれ変わった彼女ではない。母親なんていうおぞましいものに、名前を奪われたくはなかった。
「嬉しいな、そう言ってもらえるなんて」
空々しい声が、室内に響く。それを取り巻くのは灰色の街。風の音は、怪物の唸りにも似ていた。この街もじきに雪という牢獄に閉ざされるのだろう。
牢獄。──それは、なんと甘美な響きだろう!満たされない心が、慰められる気がした。
「嬉しいよ、名前」
そう繰り返し、メローネは笑った。暗く澱んだ空さえも、今は愛おしく思うことができた。