あなたの目の望むまま


 電工掲示板を見上げ、『さて何を観ようかしら』と考える時間が好きだ。無性にわくわくする。
 そんな楽しみを名前に教えてくれたのもマキマだ。彼女からは様々なことを教わった。映画を観ること。美しいものを美しいと思う心。人を愛おしいと思うことさえ、マキマから教わった。
 だから、彼女は特別。特別、胸を焦がす。

「あれ、アンタ……」

 背後から聞こえた声に、名前は振り返る。映画館の薄暗がりのなか。仄かな光の元、浮かび上がる青年の姿。
 どこかで嗅いだ気配がすると思ったら。「キミは……吉田くん、だっけ」薄い笑みを刷く青年、吉田ヒロフミ。彼を名前に紹介したのは公安特異一課所属、最強のデビルハンターと名高い岸辺だった。
 尤も、付き合いは仕事の都合上。偶然出くわしたために紹介を受けただけで、それ以上の関わりはない。岸辺もそれを望んでいるようだった。
 だから少し驚いた。彼が名前を覚えていただけでなく、わざわざ声をかけてきたことに。面倒ごとは嫌いそうだ、という印象だったが、考えを改めるべきだろうか。「どうも」とよそよそしい挨拶を交わしながら、名前は思考する。
 相手はデビルハンターとはいえ民間の人間だ。踏み込みすぎるのはよくない。公安の人間として、そして何より、自分のためにも。

「アンタみたいなのも映画を好むんだ」

 なのにヒロフミは距離をつめる。名前の隣に立ち、同じものを見る。電工掲示板。連なる上映作品の名前を眺め、「なに観るつもり?」と訊ねてくる。その目は深い深い夜のいろ。何を考えているのか、見当もつかない。

「まだ決めかねてるところ。でも気分が明るくなるようなのがいいかな」

 つかないけど、まぁ、いいか。
 考え直し、名前もまた作品リストに目を向ける。長い付き合いになる相手でもなし。そこまで警戒することもないだろう。
 名前は力を抜いて、笑う。単なる世間話と捉えれば何てことはない。

「なら人間椅子にしたら?」

「それ冗談?」

「わかるでしょ?」

「キミみたいなのが言うと、冗談に聞こえない」

 そう思えば、些末なやり取りも心地よく感じられる。ヒロフミは自然体で、長らくの友人のように接してきた。かといって図々しい感じはなく、適切な距離を保っている。感情を察するのが上手い。人をよく見ている男だ。
 「女の子相手なら普通、こういうの勧めるものでしょ」名前が指し示したのはとあるアメリカ映画。古い戯曲を題材にした恋愛もので、女性人気が高い。
 しかしそれを聞いた彼は目を瞬かせる。その様はいかにも『驚いた』とでも言わんばかり。

「なに、文句ある?」

「や、普通の女の子ってのがいったいどこにいるのかと思って」

「キミ、結構失礼だね」

 名前はムッとして唇を尖らせる。確かに私は普通の女の子じゃないけど、ちょっと夢を見るくらいいいじゃない。
 こうなったら絶対、普通の女の子らしい選択肢を選んでやる。名前は掲示板に目を凝らす。件の映画は以前に一度観ているから、それ以外の……女性向けの映画で。

「それならこれなんかどう?」

 悩んでいると、隣から手が伸びる。
 ヒロフミが選んだのは田舎町を舞台にしたイギリスの映画。十九世紀初頭を生きた中流階級の女性の、恋愛と結婚を描いた物語である。美しいが、思い込みが激しくお節介焼きの主人公と、そんな彼女を温かく見守る男性──これは間違いなく女性向けの映画だ。

「オースティンなら手堅いでしょ」

 そう言ってから、ヒロフミは口角を持ち上げる。「今度は合格?」名前は仕方なしに肩を竦める。「まぁね」最初に人間椅子を勧めた人間とは思えないくらい『まとも』な回答だ。だから当然合格。
 ……と言うべきところだけど、素直に認めるのは何だか癪だから、「悪くはないんじゃない」と言うにとどめる。
 すると、ヒロフミは名前の肩を抱いた。

「じゃあチケット買いに行こうか。字幕しかないから座席は後ろの方がいいかな」

「待って、キミもこれを観るつもり?」

「そうだけど?」

 なんだかおかしな流れだ。当然のような顔をしたヒロフミが小首を傾げるものだから、自分の方が変なことを言っているような気持ちになる。でも、そんな話は聞いていない。
 名前は目を白黒させながら、「どうして?」と単純な問いをぶつける。どうして、何故、こんなことになったのだろう。さっきから調子が狂いっぱなしだ。

「一人で観るより二人で観た方がいいでしょ。知らない人間に隣座られるよりか、よっぽど」

「映画は一人でも観れるし、私はそこまで他人のことは気にならないけど。ていうか私のことは気にせず、キミは自分が好きなの観なよ」

 名前としては正論を言っているつもりである。だがしかし、ヒロフミにそれは通じない。「まぁまぁ」の一言に流され、気づけば名前は受付の前。

「はい、チケット」

「あぁ、ありがと……」

 ヒロフミからチケットを受け取って、反射的にお礼を言う。そうしてから、名前は慌てて財布を開けた。
 施しは好きだ。好きだけれど、それはあくまで自分が与える側である場合に限る。
 ヒロフミには「いいのに」と一度断られたが、名前はその手に無理やりお金を握らせた。

「奢られるのは性に合わないの。そもそもキミ、学生でしょ。社会人が学生に奢られるなんて格好つかないよ」

「はは、普通の大人みたいなこと言ってる」

「そこは立派な大人と言ってほしいな」

「言うほど歳、変わんないでしょ」

 ホワイエを歩きながら、名前は改めて隣を歩く青年を見た。
 映画館の薄暗がりのなか。仄かな光の元、浮かび上がる青年の顔。目許を隠すほどの長さの黒髪。その合間から覗くのは磨き抜かれた黒曜石。白い膚が際立って見える。どこか冷たげな印象と、裏腹に気安い空気。
 そんな彼をためつすがめつ眺めやり、名前は彼の輪郭に存外の幼さが残っていることを知った。

「あれ、キミっていくつだっけ?」

「高校生だよ、知らなかった?」

 てっきり、大学生くらいかと思っていた。
 「最近の高校生は大人びてるんだね」尤も、他の一般的な学生のことなんてなんにも知らないけど。でも高校生といったらもっと素直で、可愛らしいものではないのだろうか?
 名前は十六歳だと言ったデンジの顔を思い浮かべた。彼のわかりやすい反応と、目の前の青年の口角だけ上げた微笑を比べ、『人間というのは不思議なものだ』と実感した。複雑で、個性的で、意思がある。でもだからこそ、神の愛を受けるに相応しい。

「そう言うアンタだって見た目よかずっと年寄りくさいぜ」

「……キミ、かなり失礼だね」

 一度ならず二度までも。しかも今度は『年寄り』ときた。さすがにこれは聞き捨てならない。名前は薄い笑みを作るヒロフミの頬をつねった。
 もちろん軽くだ。軽く、頬が伸びる程度。だと言うのに、彼は大袈裟に痛がってみせる。「酷いなぁ」なんて、こっちのセリフだ。

「冗談だって、冗談」

「キミの冗談はわかりにくいし面白くない」

「はは、手厳しいね」

 笑うヒロフミに対し、名前は膨れっ面。しかし内心ではそこまでの怒りは感じていない。腹の立つことを言われた、そう感じてはいるが、それ以上の感情が湧かないのだ。むしろ口論に近いやり取りは軽快で、気持ちがいいとすら思えた。
 ──とはいえ、それを正直に告げるつもりはない。言ったら最後、どこまでからかわれることか。嫌な予感があったから、名前は唇を固く引き結んだ。