主は殺し、また生かす


 血の魔人は名前の姿を認めると、「うげェッ」と顔を顰めた。とんでもなく失礼だ。失礼だけど、あまりに素直な反応に逆に怒る気も失せてくる。名前は笑いながら、血の魔人──パワーの肩に手を回した。

「パワーちゃんったら酷いなぁ」

「ワシに近づくなァ〜」

 引き剥がされ、名前は渋々距離を取る。どうやら彼女には苦手意識を持たれているらしい。彼女はマキマにも恐れを抱いている。
 だがそんなこと、名前には関係ない。名前は人間が好きだ。人格が悪魔であるとはいえ、他の魔人と比べるとパワーは理性的だ。悪魔に道理は通用しない。知性は人間に備わるもの。だから名前はパワーのことも好きだ。だからつい、絡んでしまう。

「高貴なるワシは多忙でのう〜、ウヌに付き合ってる暇はないのじゃ」

「多忙ってマキマさんに呼ばれてる件でしょ?私がキミを送り届けることになってるの。だから大人しく着いてきて、ね?」

 魔人は一人では行動できない。公安の人間の許可がなければ、外を出歩くこともままならないのだ。可哀想だが、人々の安全のためには必要なこと。
 そのため、マキマは名前に命じた。血の魔人、パワーを公安本部まで連れて行く。それが本日の仕事だ。パワーがいくら「ゲェエ〜」と呻いたところで名前は意に介さない。

「さ、行こっか」

 にっこり笑って、パワーを車に押し込む。マキマさんの命令は絶対だから、仕方ない。「だから許してね」と思ってもないことをパワーに呼び掛けて、名前は車を発進させた。





 公安のデビルハンターは二人組が基本だ。しかし民間よりも難しい案件に関わることを考えれば、それでも心許なく思える。
 だが決まりは決まり。デンジのバディはパワーに決まり、二人は早速パトロールに出た。幾ら不安が残ろうと、今さら口を挟む余地はない。二人を見送ったアキが「大丈夫なんですかね」と気にしようとも、だ。

「心配ないと思うよ。二人ならきっと私の期待に答えてくれるだろうから」

 懸念と憂鬱。アキの暗い声を笑い飛ばすように、マキマはあっさり頷く。
 悪魔になれる少年と、理性的なだけの魔人。そんな二人を、どうしてそこまで信用しているのか。悪魔に対して否定的なアキは当然ながら、名前もまた些かの疑問を抱かずにはいられない。

 ──マキマさんはいったい、何を『みて』いるのだろう?

 名前はマキマを見る。「どうかした?」と柔い微笑を浮かべるその人を。後光に縁取られた美しきものを。
 その瞳の前には、すべてが些事。疑問の言葉は氷解し、名前は「いえ、」と緩く首を振る。

「どうせなら私がデンジくんと組みたかったなぁ、と。人間が悪魔になるなんて興味深いし」 

「名前ちゃんには新人の教育を頼んだはずだよ。キミの力を使えば無用な人死には出さずに済む。……でしょう?」

 言葉は優しく、慈愛に満ち満ちている。けれど不思議な強制力があった。彼女に逆らってはいけない。逆らうことなど考えもつかない。むしろ期待されているんだとすら感じられて、名前は「はぁい」と素直に頷いた。

 ──それが、マキマさんの望みなら。

 柔らかな支配は心地がいい。難しいことはなるたけ考えたくない。必要なすべてのものは、主の口からのみ与えられる。
 ──しかし、だからといって羨む気持ちがゼロになるわけでもなく、

「あーあー、アキくんはいいなぁ〜、家で待っててくれる人がいて」

 今度は目標を歳上の後輩に向け、名前は口を尖らした。マキマはその様を見て笑っている。まとわりつかれたアキが「絡むな」と顰めっ面を作るのを見ても、微笑みを絶やさない。慈愛の聖母はただ見守るばかり。

「あんな不快なチンピラで良ければ、いつでも熨斗つけて差し上げますよ」

「じゃあ私も早川家に入れてよ、大人しくしてるからさ」

「これ以上の厄介ごとはごめんです」

「あはは、即答かぁ。一考の余地すらないとは悲しいね」

 そんなマキマを横目に交渉は決裂した。アキは頑なで、つけ入る隙はない。名前は大仰な溜め息を吐く。
 とはいえ最初から本気ではなかった。願いは真実だが、叶うはずもないと理解していた。悪魔になれる少年と、悪魔嫌いのデビルハンター。首輪としてはこれ以上ないほど適任だ。名前には最初から望みなどなかった。
 ──だから、すべては戯れ言。

「私も誰か引き取りたいなぁ。パワーちゃんとか天使くんとか……、最悪、岸辺隊長でも」

「師匠もお断りだと思いますよ」

 アキの言葉は素っ気ない。しかしそこにあるのは真実のみ。肩を落とす名前に、「残念だね」とマキマは声をかける。
 その響きは水のほとりの気配。鳩の瞳は純潔の証である。そして頬はざくろの片割れ、清々しい香りが漂う。麗しのひと、彼女は時計を見た。

「そろそろ時間だ」

 マキマは多忙な身の上。東京にいる方が珍しい。今日この後も予定が詰まっている。スーツ姿の似合う彼女は名前に目を向ける。名前は頷いた。──仰せのままに。運転手に命じられるのは本望だ。
 名前は得意気な顔でアキを見やる。けれどそんな些細なことで機嫌を損ねる彼ではない。彼は立派な大人だ。大人は感情を面に出さないもの。アキは静かに「お気をつけて」と頭を下げる。そしてそのまま別れた。
 それが、少しだけ寂しい。いっそ世界中が無垢なる子供でできていたら、どんなに素敵だったろう。

「さっきの話の続きになるけど、」

 階段を下りながら、マキマは言う。

「今年の新人はどうかな?殆どの子とはもう一通り組んでみたでしょ?」

 響く靴底。落ちていく錯覚。或いは浮遊感。真昼の瞳はすべてを見透かす。問いかける。名前は、乾いた口を開く。

「今年も相変わらずみんな素直でいい子たちばかりですよ」

 ──デビルハンターになどならなければよかったのに、と思うほど。

 その言葉を押し込めて、名前は口角を上げる。
 暫しの沈黙。足音だけが反響する。その後に、マキマは「それならよかった」と答えた。それならよかった。……でも、本当に?マキマさんが求めているのは、きっともっと現実的なものだ。そう思ったけれど、名前は何も言わなかった。
 春になると新しいデビルハンターが何人もやって来る。彼らは悪魔を殺す力を求めるが、命のやり取りの経験がある者の方が少ない。だから実戦に入る前に特訓を行う。指導者の筆頭は、アキに師匠と呼ばれる岸辺だ。そして名前も、能力の便利さゆえに新人たちと関わる機会が多かった。
 ──だから、この時期は憂鬱な気持ちになる。

「期待してるよ、キミにも、みんなにも」

「はい、マキマさん」

 そうこうするうちに駐車場に着く。名前は後部座席のドアを開け、マキマを促した。

「ありがとう」

 微笑みは百合の花。横切る首筋の線すらも神秘。その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及ぶ。彼女の他に神はいない。彼女の言葉にこそ生かされるのだ、と名前は思う。
 その傍ら、座席に乗り込もうとしていたマキマが、ふと動きを止めた。

「名前ちゃん、昨日のおやすみはどこに行ってたの?」

「昨日、ですか?」

「そう」

 深まる微笑。瞳は底知れぬ、深淵。主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。どうしてそんな言葉が今胸によみがえるのか。奇妙な──奇妙としか言い様のない感覚だった。美しいその人が、どこか遠い。
 名前は「映画を観に行ってましたけど……」と戸惑いも露に答える。どうしてそんなことを聞くのだろう。そんな、些末ごと。
 「うん、」マキマは鼻を鳴らす。「ちょっとね、」言いながら、彼女がしたのは首を伸ばすこと。僅かな距離すら詰めて、名前の首筋に鼻先を近づける。戯れのように、しかしそれにしては冷めた目で。

「あんまり知らない匂いがしたから、気になっただけ」

「え、臭いますか?」

 上目で見つめられ、名前はたじろぐ。なんだかすごく、いけないことをした気分だ。責められる謂れはないが、何かあっただろうか、と記憶を浚う。映画館。ポップコーンの匂い。薄暗い照明。浮かび上がる、青白い肌の青年。

「私も吉田くんも香水なんかはつけてないはずですけど……」

「吉田……あぁ、民間の」

 ──仲良かったなんて知らなかったな。

 射抜かれた。ように思うのは、光の加減だろうか。大きな目に呑まれそう。微笑みは変わらず美しいのに、少し冷たく映る。

「いえ、偶然映画館で会って……。流れで一緒に映画を観ましたけど、まだ友だちってほどじゃ、」

 どうしてこんな、言い訳じみたセリフを並べ立てているんだろう?
 でもそれが功を奏したのか、マキマは「そうなんだ」と目許を緩めた。 

「それなら誘ってくれればよかったのに。映画……私も観たいのあったから」

「そんな、お忙しいマキマさんに面倒はかけられませんよ」

「面倒なんかじゃないよ」

 「だから次は私も呼んでね」と続けて、マキマは座席に戻る。どうやら満足したらしい。彼女の目は窓へ。遠く馳せられた目を気にかけつつ、名前は運転席に座る。
 よほど映画が観たかったのだろうか?考え、しかし得心がいかない。マキマさんは孤高のひとだ。一人では映画館にも行けないといったタイプではない。……そう思っていたけれど、もしかして違ったのか。
 名前はバックミラー越しにマキマを見る。頬杖をついた彼女、絵画のような美しさ。ゆえに心情は推し量れず、名前は黙したまま、エンジンを入れた。
 なんとなく、しこりのようなものが胸に残る。しかし問いただすことはできない。マキマさんの中では完結した問題。そしてマキマさんの命令は絶対だから、仕方ない。
 名前は落ち着かない心のまま、車を走らせた。