聞き続けよ、だが悟るな
病院はあんまり好きじゃない。一面に張り巡らされた、無機質な白。それは蒼ざめた馬を想起させる。ヨハネ黙示録第六章第八節。纏わりつく死の気配に、名前は眉根を寄せた。
病院に関してはいい記憶というものがまるでない。生と死を司る場所。にも関わらず、名前を待ち受けるのはいつだって悲しみだった。蒼ざめた膚、凍りついた身体、生気を失った顔……そんなものばかりが瞼の裏によみがえって、気が滅入ることしかない。
──そう、思い込んでいた。
「なんだぁ、ソレ?今からパーティーでもすんのかァ?」
病室のひとつ。事前に聞かされていた部屋を開けると、その先にいたのは満身創痍の少年……ではなく、健康そのもののデンジであった。
名前が聞いた話では右腕を悪魔に吹き飛ばされた、とのことだったが、どうやら傷は無事に塞がったらしい。彼の顔に痛みの気配はない。どころか、その目が追いかけるのは名前の左腕。そこにかかったカゴ盛りのフルーツを熱心に見つめていた。思った以上の食いつきぶり。名前はホッとして、笑った。
「違うよ、これはデンジくんへのお見舞い。入院中にはこういうのを差し入れるのが定番なんだってさ」
「へぇ〜え。そんなんチラシでしか見たことなかったぜ」
「私も公安に来なきゃ買えなかっただろうなぁ」
名前はベッドの横に置かれた椅子に腰かける。ベッドから身を起こすデンジ。窓から差し込む薄日がその様を照らし出す。病院着の隙間からは鎖骨が浮き出ていた。
血色はいいが、痩せぎすの印象を受ける。十六歳の少年。それにしては未発達な体。そして心。「だからアイツもリンゴ持ってきたのかぁ」納得、とデンジは頷くが、本当のところを理解しているとは思えない。
早川アキは悪魔嫌いとして有名だ。そんな彼が、悪魔になれる少年のためにわざわざリンゴを剥いてやった。絆されてきている証拠だろう。
「……アキくんは、優しいからね」
名前は口許を緩める。デンジとアキ。正反対の二人だけれど、だからこそ噛み合うところがあるのかもしれない。しかしデンジは「そうかねぇ」と興味なさげだ。成長には時間がかかるから仕方ない。
「じゃあリンゴ以外にしよう。ブドウは好き?それとももうお腹はいっぱいかな」
「いや、食う」
即答。しかも質問への答えはない。「好き嫌いとかないの?」人間ならあるはずだ。好きなもの、嫌いなもの。多くの人に共通するものから、珍しいものまで。
しかしデンジは「食えりゃあいいだろ」の一言。興味は既に皿に盛られたばかりのブドウへ。彼はいったいどんな生活をしていたのか、想像しただけで悲しくなる。
「あぁ、こらこら、おしぼり使わなきゃ」
「ん〜、いらねぇ」
「べたべたして気持ち悪いでしょ」
「汁だって捨てるにゃあもったいねぇだろ」
「汁って……、せめて果汁と言いなさい」
確かにそこに違いはないけど、ね。「なんだか不味い感じがするでしょーが」名前が呆れてみせても、デンジは首を傾げるだけ。ブドウの一房、粒を切り離すことなく、かぶりつく。
「うめーけどなぁ」
まぁ、感じ方は人それぞれである。
「皮まで食べなくてもいいのに」
「ちょい苦いけど全然いけるぜ。ゴミ捨て場で漁った時ンのよりずっとあめーし」
「そうかなぁ?」
「試してみれば?」
「うーん……」
一粒、分けてもらって、咀嚼してみる。でもやっぱり最後に皮が残って、舌に絡みつく。その感触が気持ち悪くて、名前は「ウソつき」と顔を顰めた。
「ウソじゃねぇーし」
「デンジくんのバカ舌」
「あぁ?」
「うそうそ、デンジくんは偉いよ。たくさん食べて、大きくなりな」
名前は笑って、デンジの頭を撫でる。ボサボサの、手入れとは無縁の髪。でも初めて会った時よりは少し肉がついたように思う。いい傾向だ。
アキくんならきっと、デンジくんにも人間らしい生活を与えてくれる。人間らしい生活。人間らしい感性。照れ臭そうに鼻の下を擦るデンジを見下ろし、名前は考える。
……もしかして、マキマさんはそこまで見越していたのだろうか。
「でもどうせならポチタにも食わせてやりたかったなァ」
「ポチタ……って、デンジくんのワンちゃんだっけ」
そうだ、と頷いたデンジは視線を落とす。その先にあるのは自身の心臓。皮膚の内側から伸びる紐は、生き物の尻尾のように垂れ下がっている。
「でも今はデンジくんの心臓になってるんでしょ?ならデンジくんの食べたものもポチタくんにまで流れてるんじゃない?」
「そういうモン?」
「そういうもんだよ、たぶん」
名前が言った言葉にはなんの確証もない。けれど素直なデンジは「そっかぁ〜」と目を細める。名前も、そうであったらいいと思う。
会ったこともない、チェンソーの悪魔。デンジくんがこんなに大切に想うなら、一度くらい会ってみたかった。
「写真とか残ってないの?」
「ねぇなぁ〜。けど俺ぁよぉく覚えてるからな、必要ねぇ」
「でも私には見えないじゃない。……そうだ。ね、ちょっと描いてみてよ。ほら、ノート、貸したげるからさ」
「お〜いいぜ。やることねぇ時はよく地面に描いてたからな。結構自信あるんだ」
ペンと手帳を貸せば、デンジの手は迷いなく動く。
白紙のページ、産み出される曲線。名前が見つめる先で、命が吹き込まれる。やがて大きく円らな瞳と目が合った。
「ど〜よ、自信作」
言葉通り。デンジは自信たっぷりの笑顔でVサイン。そんな彼が描き出した記憶は特別うまい……わけではないが、特徴はしっかり捉えられていた。
「うん、」名前は受け取った絵をなぞり、微笑む。「すごく、いい絵だ」デンジの記憶の中でポチタは愛らしい笑顔を浮かべている。これは、深い愛情がなければ描けない代物だ。
名前は手帳を胸ポケットに仕舞った。温かな気持ちが、シャツ越しにも伝わってくる。
「ねぇ、デンジくん」
「ん〜?」
「もしも、もしも私が──」
──悪魔だとしたら、キミはどうする?
言いかけて、名前は首を振る。
「ううん、なんでもない」
聞いたとして、どうするのだろう。デンジくんはきっと、『悪魔でも気にしない』と言ってくれる。彼に悪魔への憎しみはない。そんな彼に慰めを求めたところで、いったい何になる?名前は内心で自嘲した。
人間は同じ思考を持つ生き物じゃない。デンジくんがそうだからといって、他の誰もが同じ考えを持つわけじゃない。……そんなのは、最初からわかっていたはずだ。
「アキくんとも、仲良くしてあげてね」
「お〜、考えとくぜ」
「えらいえらい」
名前はデンジの頭を再度撫でた後で、彼の口許を拭ってやった。おしぼりを使って、手を、指をきれいにしていく。
「うん、これでよし。男前に元通りだ」名前が笑うと、最初こそ「もったいねぇ」と言っていたデンジも大人しくなる。褒められて悪い気はしない、といった顔だ。素直でかわいい。ずっと純粋なままでいてほしい、と名前は思う。