狐は穴あり、空の鳥は塒あり


 うきうきで帰り支度をしていると、特異四課の先輩に声をかけられる。「あれ、名前さんご機嫌ですね」「伏さん、」人好きのする顔に、名前は笑顔を向けた。

「実はアキくんちにお呼ばれされてるんですよ」

「ああ、なるほど。名前さんは早川君がお気に入りですからね」

 得心がいった、と頷く先輩の目はいたく微笑ましげ。後輩の仲が良いのはよいことだ。……というより、年少の子供を見ているかのような、それ。
 そんなに子供っぽい反応だったかな、と名前は頬を押さえる。この数年で大人に近づいたつもりになっていたけど、まだまだ甘かったらしい。
 でもだって、嬉しいんだから仕方ないよね。名前は誰にともなく言い訳する。アキくん直々に招待を受けるなんて、滅多にないことだ。それも『頼みたいことがある』なんて!頼られるってなんて気持ちのいいことだろう、と名前は顔が緩むのを抑えられない。
 あのアキくんが『お願い』なんてするんだ。絶対、何がなんでも叶えてみせる。

「でも大丈夫なんですか?早川先輩の家って……いま、悪魔と魔人も住んでるんですよね」

 懸念を滲ませたのは本日のバディだ。今年配属されたばかりの、新米デビルハンター。だからこそ名前のことを心配するし、悪魔への恐れを隠そうともしない。
 優しい子だ。名前は「大丈夫だよ」と頭を撫でてやりながら、答える。こんな優しくて可愛い子に、デビルハンターは相応しくない。もっと普通の、平凡な人生を歩んでほしいと勝手ながら思う。

「パワーちゃんは変わってるけど魔人にしては理性的だし、デンジくんも素直でいい子だよ」

「理性があるといっても魔人でしょう?うちのを見てるととても安全とは……」

「まぁ、ビームくんはねぇ……」

 新米デビルハンターが知る唯一の魔人を思い浮かべ、名前は眉を下げる。
 知性の低い、サメの魔人。会話がままならないのというのはそれだけで恐怖を掻き立てるものだ。もうちょっとまともに意志疎通が図れたらいいんだけど、というのは叶わぬ願いだろうか。

「そんな不安そうな顔しないでよ。そう簡単に死ねるなら私はここにいないだろうし」

 笑い飛ばしても、先輩が「気にしすぎですよ」と宥めても、それでも後輩の顔色は優れない。「危なくなったらすぐ応援呼んでくださいね」と念押しして、それでようやく名前を解放してくれた。

「本当に、お気をつけて!」

 姿が見えなくなるまで手を振る後輩に、名前の胸は温かなもので満たされる。
 そうして名前は足取り軽く、公安デビルハンター本部を後にしたのだった。





 通い慣れたマンション、その一室の呼び鈴を鳴らす。ピンポーン。惚けた音がして、扉を開けたのはこの部屋の主。早川アキは、白い膚と透き通った黒髪が美しい青年──だったはず。
 なのに今、「助かった」と息つく彼には疲労が色濃く滲んでいる。目許を揉み解す仕草なんて、哀れで見ていられない。

「いったいどうしたの?久しぶり……ってほどでもないのに、なんかやつれてない?」

「……理由なら、すぐにわかりますよ」

 なんだか意味深な響きだ。「勿体ぶらないでよ」そう笑いながら、名前は内心嫌な予感がしていた。
 疲労困憊のアキ、電話口で聞いた『頼みたいことがある』という台詞の重さ。何とはなしによみがえるのは先刻聞いたばかりの後輩の声。『いま、悪魔と魔人も住んでるんですよね』……
 早川アキは、自分の感情を表に出さないタイプだ。そんな彼が珍しく他人を頼った。ということは、つまり──あぁ、なんとなく話が見えてきた。

「パワーのやつ、全然言うこと聞かなくて。お陰で……まぁ、ご覧の有り様です」

 リビングに入る。と、目に飛び込むのは対照的なふたり。「名前さん!」と目を輝かすデンジと、反対に「ゲェ」と嫌悪を露にするパワー。デンジはパワーを指差し、「こいつ、最悪っすよ!」と告発を行った。

「クソは流さねぇし、風呂も入んねぇしよぉ!」

「そんな些細なことでギャアギャアと……人間は本当に愚かな生き物じゃ」

 訳知り顔で頷くパワーに、アキとデンジの眉がつり上がる。

「一週間も風呂に入らないのは些細なことじゃない」

「だからクセえって言ってんだよ!」

「……これは全面的に二人が正しいね」

 というか、まともなことを言うデンジくんにびっくりだ。そんなことを思いながら、名前はデンジとパワーの二人を見比べる。パワーと並ぶと、相対的にではあるが、常識人のように映るデンジ。元より世間ずれしてはいるが、根は優しいのだろう。
 デンジくんがこの家に来てくれてよかった、と名前は思う。きっとアキくんひとりじゃ、パワーちゃんは手におえなかった。

「二日や三日ならまだしも一週間はダメだよ、パワーちゃん。ほら、髪の毛べたついてるし」

「そーだそーだ!」

「うるさいのう……。ワシは人間の指図は受けん!」

 デンジが援護してくれるが、一度目の説得はむなしく消えた。パワーは頑なだ。アキは溜め息を吐いて、傍観の姿勢に入っている。もはや諦めムード。最悪、雨が降ったら外に蹴り出せばいいと考えている。それは彼が新聞の天気予報欄を見つめていることからも明らかだった。
 そこで、名前は小さく息を吸った。

「でも驚いたな、パワーちゃんにも結構人間っぽいところあるんだね」

「ハァ?」

「ほら、人間って結構めんどくさがりだからさ。よく見かけるよ、今のパワーちゃんみたいな子。パワーちゃん、庶民的な人間になったんだね」

「ハァアア?」

 名前はあえて今のパワーを肯定することにした。それも彼女の嫌う人間を引き合いに出して。彼らとパワーが似ていると、それは歓迎すべきことだと拍手すると、パワーは酷い顰めっ面をした。

「愚かな人間とワシが同じなわけなかろう。だってワシ、風呂めちゃくちゃ好きじゃからな!」

「そうなの?えらいえらい。それならさ、めんどくさがりの私のために一緒にお風呂連れてってよ」

「エェ〜……」

「そういえば、近くに美味しいケーキ屋さんあるの知ってる?ちょうど私、一緒に着いてきてくれる子探してるんだけど」

「まぁ入ってやってもいいが?」

 パワーちゃんは変わってるけど単純だ。扱いやすくて、だから名前には可愛く思える。しかしその変わり身の早さに、デンジは「コワ〜」と体を引いた。

「じゃあ私たち、お風呂いただいてくるね。私の着替えは……アキくん、残ってたっけ?」

「アンタが前に忘れてったのがあると思う。なかったら俺のを貸すから」

 気にするな、とアキは言う。今の彼にとって重要なのはパワーが風呂に入ることだ。自分のシャツを名前に奪われようがどうということはない。平然とした顔で、だからこそ名前は気兼ねなく彼に頼ることができる。
 アキくんが好きなのは、マキマさんだ。そして私が好きなのも、マキマさん。だから私たちは今の関係を保っていられる。特別を作らないようにする彼と、特別になんかなりたくない私にとって、このくらいの距離感が一番ちょうどいい。

 ──姫野ちゃんには、酷な話だけど。

 しかしこの会話に表情を変える者がいた。──デンジだ。

「ナニソレ?どーいうことだよ、先輩よぉ〜」

「絡むな。別に大したことじゃない」

「そうそう、姫野ちゃんのも……ええっと、他の女の子の私物もここには置いてあるからね」

 思春期の少年の想像力はたくましい。「ハァア!?」と大きな声を出して、デンジはアキを指差す。
 その指の震えは妬みのためか、それとも怒りが原因だろうか。ともかくデンジは「ズルい!」と喚いた。けれどアキは「喧しい」の一言でそれを封じてしまう。

「おうおうおうおう、早くケーキ屋に行くぞ」

「行くのはお風呂場だよ、パワーちゃん」

 早速記憶を捏造し始めるパワーの手を引いて、名前は廊下を進む。デンジくんのことはよろしく、でもパワーちゃんのことは任せて。そんな目配せに、アキが頷き返すのを認めてから。