己の如く汝の隣を愛すべし
空気の気持ちいい季節になった。早春。緑の繁る香りに、名前はゆったりと身を任せる。
病院は好きではないけれど、整えられた庭園にだけは一目置かざるをえない。ベンチに腰掛けて目を閉じると、爽やかな風が名前の頬を撫でていった。
「ぁ……」
その時、小さな声がした。ともすれば風に紛れて消えてしまいかねないほど、ささやかな声が。
その出どころを探して、首を巡らす。と、身を小さくした女の子と目が合った。
「コベニちゃん、」
軽く手をあげ、「やあ」と笑いかける。名前としては気さくな挨拶。けれどコベニはびくりと体を震わし、「こんにちは……」と曖昧な笑みを浮かべる。
小動物然としたコベニの様子。童顔なのも相まって、なんだか苛めているみたいだ。しかしそれは本意ではない。名前は人間が好きだ。だから、コベニとも親しくなりたいと思う。デビルハンターの、仲間として。
「どうしたの?どこか怪我でもした?」
問いかけながら、名前は素早く目を走らす。
コベニの小さな身体。戦いには不向きに見えるが、その実なかなかの才能があるらしい。不安げに視線をさ迷わせる姿からは想像もできない。でも姫野が言うのだからきっと本当のことなのだろう。
実際、今のコベニからは血の臭いはしなかったし、彼女自身「い、いえ……」と小さくかぶりを振った。
「その、私じゃなくて、えっと、」
「もしかして荒井くん?」
「はい……、契約の見返りに、って」
「あぁ、狐の悪魔をよんだんだ」
もう一人の新人の名前を出すと、コベニはこくりと頷く。
「悪魔を使った戦い方に慣れておこうって姫野先輩が……」
「それで治療中ってわけね」
狐の悪魔は代償に契約者の皮膚を望む。正直、理解しがたい趣味だ。名前は思う。どうせなら、もっと素敵なものを望めばいいのに。
ともかく、新米デビルハンターの荒井は皮膚の一部を奪われたせいで、治療を受けることになった。ここまでは名前でも理解できる。
でも、それだけならどうしてコベニはここにいるのだろう?怪我をしていないなら病院にまで来る必要はないし、付き添いとしてであれば荒井の側にいないのはおかしい。
まぁ、考えたところで埒が明くわけもなく。「コベニちゃんはどうしたの?」と名前は正直に疑問を露にした。
「少し、顔色が悪く見えるけど」
「それはそのぉ……気持ち悪く、なっちゃって」
外の空気を吸いに、とコベニはぎこちなく口角を持ち上げる。面白いことなんて何もないのに。なのに、コベニは引き攣った笑顔を作る。動物としての本能だとか習性みたいだ。痛々しく、哀れ。
「それならこっち来て休みなよ。突っ立ってるより座ってた方が楽じゃない?」
名前は自身の隣を指差した。二人がけのベンチには、まだ余裕がある。でも選ぶのはコベニだ。
だからコベニが「それじゃあ……」と顎を引いた時はホッとした。
怯えられてるんじゃないかとは思っていたけど、どうやらそれは杞憂であったらしい。ペットボトルを渡せば、コベニは中身を呷る。そこには何の警戒もない。
この小動物のようにいじらしい少女に嫌われていたら、自己嫌悪で死にたくなっていたかも。……なんて、冗談半分に思う。
「大丈夫?」
「はい、さっきよりは良くなりました……」
「よかった。これからも体調悪くなったらすぐ言うんだよ。こんな仕事だからね」
こんな仕事。と名前が言った途端に曇る、コベニの目。
彼女は進んで公安に入った人間じゃない。何でも、家計を助けるためだとか。庇護欲を掻き立てられるのは、そういう事情を知ってしまっているからかもしれない。
名前はコベニの頭を撫でた。「無理と無茶だけは禁物」血気盛んよりは、小心者なくらいがちょうどいい。優しい人ほど死んでいくのがデビルハンターの世界だ。素直に頷くコベニに、名前は満足する。悪魔なんて、いなければよかったのに。
「落ち着いたらお腹空いてきちゃいました……」
「あはは、そりゃあ健全な証拠だ。恥ずかしがることないよ」
時計を見やれば、いい時間だと知らされる。太陽はてっぺんに近い。空腹を感じるのも当然の頃合いだ。
名前はバッグを漁る。確か、今朝コンビニで買ったばかりのお菓子があったはず。個包装だからと食べるのは一個だけにしておいたもの。天啓。それはきっと、この瞬間のためだった。
名前は目当てのものを探り当て、「チョコ食べる?」とコベニに差し出した。
ひとつ、ふたつ、みっつ。コベニの両手に転がすと、彼女は「ありがとうございます」と破顔した。
「えへへ……こんなに沢山のチョコ、一度に食べたことないです。いつもは兄弟で分け合ってたから……」
──ちょっとした驚きだ。こんな風に笑うコベニちゃん、初めて見た。
へにゃりと下がる眉。弓なりの双眸。「おいひい!」と紅潮する頬。いつものぎこちなさはない、ごく自然な表情。
……その方が、ずっと「かわいい!」
「へぁ……っ」
「チョコくらいいくらでも買ってあげるよぅ〜!も〜!もっと先輩にねだっていいんだからね!」
「ふぁっ、ふぁいっ!」
口許をもごもごさせながら、コベニは首を上下させる。妹がいたら、こんな感じだったろうか。名前はぼんやりと思う。そういう夢想をするのが、この仕事をする上でのせめてもの慰めだ。
「名前さんは何してたんですか?」
「あぁ、うん、コベニちゃんと似たようなもんだよ。私も今日のバディが怪我してね、付き添うって言ったんだけど断られちゃった。このくらいひとりで平気だって、」
だからといって『はいそうですか』と置き去りにできるはずもなく。暇潰しにと読書に精を出していた。……が、その難解さに小休止を挟んだところ、コベニと出くわしたのだ。
そう説明し、投げ出していた本をコベニに見せる。「『永久運動の夢』──」呟き、眉を寄せる彼女。
「難しそう……」
義務教育を終えた彼女ですらこう言うのだ。名前は少し、安心する。
理解が及ばないのは自分の頭が特別不出来なためかと自信を喪失しかけていた。でも、コベニの反応が普通なのだ。考え直し、名前は「だよね」と口許を緩めた。
「ほら、永久機関ってあるでしょ?この間テレビでやっててね……それを見たデンジくんに質問されたんだけど、上手く答えられなくて。それで勉強中なの」
デンジとパワーのマイブームは、ノーベル賞が獲れるような発明をすることらしい。一攫千金、人類掌握。目的はそれぞれだが、夢があるのはいいことだ。
でも名前には知識がない。ないから、友人に相談することにした。最近できたばかりの、愉快な友人に。聞いてみれば、意外と彼は親身になってくれた。お陰でこの『永久運動の夢』なる本と出会えたが、今度は名前の理解力が問題になった。
「私、エッシャーの絵でくらいしか知らないです……。それに永久機関ってそんなの絶対不可能ですよ」
コベニは「熱力学の法則が、」と続けたが、それ以上の説明は不要だった。名前が頭を押さえたからだ。
「ダメ、頭痛がする」
軟弱な脳みそには難易度の高すぎる話。耐性がないために、名前の体は拒否反応を示していた。
「コベニちゃんは頭いいんだねぇ」
「い、いえ……これくらいは……、えっと、高校でちょっと触れたことがあるだけで……」
「なるほどね」名前は軽い口調で相槌を打ちながら、思いを馳せた。私が高校生だったら、コベニちゃんの言うことも理解できたのかな。ごく普通の、子供だったなら。
名前は自分の見た目がその肩書きに相応しいことを知っている。──その夢が、決して叶うことのない代物だというのも。
「コベニちゃんってデビルハンターより司書とか学芸員とかの方が似合いそうだね」
「でも、デビルハンターの方がお給料いいから……」
「んー……じゃあさ、さっさとお金貯めて、安全なとこに転職しようよ。それか大学に進むとかさ。とりあえずお兄さんが進学できるだけのお金があればいいんだよね?」
「は、はい……」
お節介だとは理解しつつ、でも言わずにはいれなかった。コベニにはまだ選択肢がある。家族が理由だからといって、その自由が脅かされるのはよろしくない。勝手ながら、そう思ってしまった。