愛は律法の全きなり
小さな映画館を出て、近くの喫茶店に入る。そこでようやく人心地。目に優しい春の日差しに癒されて、先刻まで浴びていた鮮血の赤色も遠ざかっていく。
名前は冷えたグラスの中身を呷ってから、「意外と悪くなかったね」と連れの青年に笑みを向けた。
「『ドイツチェーンソー大量虐殺』……タイトル聞いた時は、それなら『悪魔のいけにえ』観た方がいいと思ったけど。……うん、これほど個性的なのはなかなかないよ」
本日観たのは、B級……どころか、Z級とすら呼ばれる新作映画。一人の女性が事件に巻き込まれ一軒のモーテルに辿り着くのだが、実はそこには凶悪な殺人鬼一家が住んでいた──という、あらすじだけ聞けば、過去の名作の真似としか思えないもの。せっかく舞台を十年ほど前のドイツにしたのだから、もっとその辺りを活かせばよかったのに。
……なんて不満がどうでもよくなるくらいに、ツッコミどころの多すぎる映画だった。でなきゃZ級とまでは言われない。脚本から演出、演技に至るまで、すべてが『個性的』──ようするに、お粗末な作りだったのだ。
しかしそれならそれで別の楽しみ方があるというもの。頓狂な言動を繰り返す登場人物やら、陳腐な作りの小道具やら。そんなのに込み上げる笑いを殺すのに必死だった。
そう、名前が言うと。
「個性的っていうかイカレてるよね」
目の前の青年──吉田ヒロフミはばっさりと切り捨てる。せっかく言葉を濁したのに。イカレてる、などと──言いたくなる気持ちは、しかしわからないでもない。
それでも「まぁだからこそ面白かったんだけど」という感想を持つのだから、彼とは似た者同士ということなのだろう。ヒロフミは薄い笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「ドイツってこんなに病んでるわけ?それか製作側がみんな一発キメちゃってるか。じゃなきゃあんな狂気は生まれないよ」
「製作陣のことはわからないけど。ストーリーの破綻ぶりもわざとなのかってくらいぶっ飛んでたのは同意。でもあんな変人しかいなかったら国として成り立たないから、変わってるのはスタッフだけだと思いたいね」
間違いなく『迷作』だ。それも例えば『ジェイコブス・ラダー』のような、計算された狂気ではない。純粋な、それ。なかなかに鮮烈な経験だった。名前は笑う。
「でも誘ってくれてよかった。きっと私ひとりじゃ観ることもなかっただろうから」
映画。というと、思い浮かぶのはいつもマキマだった。彼女の少し冷たげな、しかし美しい横顔。『だから次は私も呼んでね』──以前聞いた言葉が、喉元で引っ掛かる。それはまるで小骨のように。
でもだからってこんな映画に彼女を誘えるだろうか?名前は思考し、瞬時に『否』と導き出す。マキマさんはきっと、楽しめない。無感動な目でエンドロールを迎えるのが関の山。
だからこれは、仕方のないこと。そう、誰にともなく言い訳する。
「アンタなら楽しんでくれると思ったよ」
「だからっていつもこういうのはやめてよね。さすがに疲れちゃう」
「じゃあ次は何にする?」
さりげなく、流れるように。ヒロフミは次の約束を取りつけようとする。初めて映画館で出くわした時と同じ。彼も、同じ趣味の友人ができて嬉しいのだろうか。
──彼、も。そう考えた時点で、ヒロフミを友人として認めているということになる。
そのことに気づき、名前は微妙な気持ちになる。いいのだろうか、──本当に?彼は、民間人だ。民間人の、デビルハンター。近くて遠い、関係。彼を巻き込みたくはない。
「うーん、」名前は喫茶店のメニュー表を開く。サンドイッチ、オムライス、ハンバーグ……うん、ハンバーグは止めておこう。血生臭い映画のあとには胃もたれしてしまいそうだ。
「……『あこがれ美しく燃え』は?」
「あぁ、不純異性交遊の」
「……ちょっと、言い方」
「だって教師と生徒じゃん。不純だし、最初から終わりが見えてる」
「冷めてるなぁ」
まぁ確かにね、その通りなんだけど。「それ言ったら、殆どのものが一言で片づけられちゃうよ」映画は脚本だけじゃ決まらない。どんな内容だって、演出ひとつで大きく変わるものだ。そういった意味で、名前は映画というものが好きだった。
ヒロフミは「そうだね」と頷いて、「じゃあ次回はそれにしよう」と決定を下した。
『終わりが見えてる』と言ったのに。たぶんきっと、彼の好む映画ではないだろうに。なのに彼は、名前に付き合うのをやめない。
──どうしてだろう?
考えてみても、答えは出ない。彼の物静かな目は多くを語らず、微笑むばかり。メニューを見て、「俺はハンバーグにしようかな」などと理解できないことを言う。
「よく食べられるね、あんなの観たあとで。私なんか今日は絶対ウインナーは食べられないよ」
「だってアレは作り物だろ?明らか人形だったし。いつも見てるものに比べれば、なんてことない」
彼は、民間人だ。悪魔でも魔人でもない、普通の、高校生。けれどデビルハンターでもある。どうしてそんな道を選んだのだろう。純粋な興味とは違う、疑問が湧いた。どうせなら、悪魔とは縁遠い生活をすればいいのに。
そうであってほしい、と名前は思う。思いながら、「私は繊細なの」と口を尖らす。
人間としては変わり者でも、彼は『善き隣人』だ。愛着というには近づきすぎた。目を逸らしようもないほど、名前は彼に好感を抱いている。幸福を、願うくらいには。
「繊細、ねぇ」
「なに、そんなとこにまで文句言うつもり?」
「だって繊細な人間はスプラッター映画なんて観たら卒倒しちゃうもんだと思ってたからさ」
「キミねぇ……」
会話が途切れたタイミングで店員を呼び、注文を終える。厨房へと去っていく後ろ姿。学生だろうか。可愛らしい少女だった、と名前はぼんやりと思う。学校に行って、時々バイトをして、休日には友達と遊ぶ。そんな生活に、どうしたって憧れるのを止められない。
「……名前ってさ」
「うん?」
「女の子が好きなの?」
カラン、と氷の溶ける音がした。
「どうしてそう思ったの?」
春の陽の、穏やかな光線。店内には幾人かの客がいたが、それでもなお静けさがあった。
名前は目の前の青年を見た。吉田ヒロフミ。大人びた顔の、高校生。彼が何を考えているかはわからない。わからないけれど、静謐な瞳は美しいと思った。夜の闇よりも深い、黒。
彼は薄い唇を持ち上げた。
「何となく。昔、公安のデビルハンターにそういう人がいたって聞いたのを思い出してさ」
「ふーん……」
嘘だ、と直感する。けれど、理由がわからない。こんなことで、どうして?どうしてそんな、張りつけたみたいな笑みを浮かべるのだろう?
「別に、特別女の子が好きってわけじゃないよ。人間ならみんな好き」
──マキマさんだけが特別。特別、焦がれずにはいられない。
……なんて内心は隠して、名前は言う。「もちろん、キミのことも」そんな冗談を言えるのは、彼の眼が相変わらずの静けさを保っているせいだ。ここにほんの少しでも熱があったら、きっと躊躇っていた。
恐らくは好奇心だろう。名前はそう判断し、その一言で片づけた。
でも彼は、「へぇ?」と片眉だけを上げた。
「なんだか不満そうだね」
「そりゃあね」
頬杖をつく、彼。さらりと流れ落ちる黒髪。目許を覆う、影。その合間から覗く目に、恐ろしいほど吸い込まれそう。
「まぁ、いいよ。その方が燃えるし」
「……なんだか、嫌な予感がするんだけど」
「名前は気にしなくていいよ。俺は俺で好きにさせてもらうから」
なんだか意味深な響き、笑みだ。名前は背筋が冷えるのを感じた。例えるなら、殺人鬼に見つかった人間の……ような。
「なんでもいいけどさ。危ないことはやめてよ、吉田くん。キミが言ったんだから……映画は二人で観た方がいいって」
今ではもう、上映後の語らいがなければ物足りなく感じてしまう体になった。すべては彼──吉田ヒロフミの影響だ。
彼を喪ったら、どうしたらいいかわからない。だから、責任を取って貰わなくては困る。
そう、言うと。
「……へぇ」
先刻と同じ、けれどまったく異なる響きを持った、音。日差しのヴェールの元、彼は目を細める。ひどくたのしげに──無邪気な子供のように。「嬉しいな」などと言うものだから、思わず目を逸らしてしまう。
──そんな反応は、卑怯だ。
「……キミくらいしか、こんな映画に付き合ってくれる人はいないからね」
名前は意味もなくグラスの縁をなぞる。さっきよりも温くなったはずの水。なのに触れたグラスは記憶よりも冷たくて、びっくりする。それが自分の指先に灯った熱のためであるなんて、信じがたいことだった。