銃の悪魔編IFアキ√U


 瞼を持ち上げる。と、途端、視界いっぱいに広がる目映い光。目を焼くほどの眩しさに、俺は暫し己を見失う。自分が何者で、何を思っていたか。そんなことさえ覚束ぬ中、軽やかな声が響いた。

「よかった、目が覚めたんだね」

 光が収束する。焦点が合う。安堵に頬を緩ます、顔を認める。
 眩しいと思ったのはその髪の色のためだった。金の髪に蒼の瞳。宗教画で見るような取り合わせ。鮮烈で、澄み切った、色。覚醒した俺が最初に見たのは、ひとりの女だった。
 彼女は、「私は、名前」そうだ、名前だ。「キミの、妹」──俺の、妹。どうして忘れていたのだろう?不思議に思うくらい、名前の言葉は腑に落ちた。

「さぁ、急いで出発しないとね」

 どうして、──どこに?疑問は浮かぶが、差し出された手を取った瞬間にすべてがどうでもよくなる。
 他に何か、しなければならないことがあったような気がするのに。
 なのに俺は、抗えない。名前、──俺の妹。彼女に促されるがまま、マンションを出る。

「私たちは悪い大人に追われてるんだ」

 車のエンジンをかけながら、名前は言う。慣れた手つき。当然だ、と思う傍ら、俺の妹は免許を持っていたのかという微かな驚きもある。俺は、妹のことさえよく知らないのだ。

「どうして、」

「……どうしてだろうね」

 そこで初めて名前は瞳を揺らした。何もかもを見通すみたいな目をしていたのに。なのに今は、途方に暮れているように見えた。
 俺は「そうか」と顎を引いた。何もわかっちゃいないくせ、物分かりのいいふりをした。俺には、『その先』を聞く勇気がない。
 俺は黙って流れていく外の景色を眺めた。よく知っているはずなのにどこか見慣れない、街並みを。
 無感動に眺めていくうち、次第に『これは夢なんじゃないか』とさえ思えた。俺は、心のどこかでこうなることを望んでいたんだろうか。何もかもを放り出して、大きなものから逃れることを。
 ──否、と否定したいのに、すぐにはできないのが答えだった。たぶんきっと、そういうことなのだろう。

「どこに行くんだ?」

 さっきから質問してばかりだ。俺は兄であるはずなのに、今は妹に手を引かれることしか叶わない。
 でも名前は笑わなかった。「どこがいい?」反対に、そう訊ね返す。俺が答えたなら、なんだって叶えてくれるんじゃないかって目。真っ直ぐで、温かな色の、それ。
 俺は少し悩んでから、「寒くないところ」とだけ答えた。理由は判然としない。ただ、雪はもうこりごりだと思った。雪なんて、手が冷たくなるだけで、いいことなんて何もない。

「南の島かぁ。いいね、そういうの」

「別に島じゃなくてもいい。雪かきとか、面倒なのは嫌だから」

 俺は、「名前は?」と聞く。懐かしい響き。思ってから、そんなはずはないと打ち消す。俺たちは、兄妹だ。ずっと一緒だった。懐かしむ暇も、ないくらい。

「名前は、どこに行きたい?」

 空を、飛行機が駆けていく。青空に消える影。その先を思うと、少しだけ胸が弾む。誰も知らない土地。誰にも支配されない場所。夢想に、心は軽くなる。不自由だなんて、思ったことはないはずなのに。

「私は、……」

 そこでふと、名前は言い淀む。何事か。言いかけた唇は中途半端。躊躇いで空気を揺らし、その後で名前は「本当は、どこでもよかったんだ」と笑った。

「アキくんがいてくれるなら、どこでもいいよ」

「…………」

 俺は、どう答えるべきだったのだろう。
 笑顔の裏に隠された翳り。それを察していながら、俺は何も言えなかった。肯定も否定も、俺は持ち得なかったし、名前もまた望んではいなかった。最初から、ずっと。──名前に、俺の言葉は届かない。
 走り続けると、やがて空港が見えてくる。まさか、名前は本気で俺の答えを叶えようとしているのか。「パスポートがない」と今更ながら呟くと、名前は笑った。「大丈夫だよ」何が、とは聞かなかった。名前の言葉には確信があって、絶対的とさえ思えた。

「……アキくんは、振り向かないでね」

 不意に、名前が囁く。どういうことだ。そう思うが、すぐに気づく。ミラー越しに、不穏な影。黒いスーツの男が、黒光りするものを俺たちに向ける。アメリカ製の、オートマチック・ピストル。

「銃、」

「だから見ちゃダメだってば」

 耳を擘く発砲音。でも名前は動じない。「飛行機、間に合うといいんだけど」そんなことばかり気にして、先を急ぐ。どうやら銃弾はすべて外れたらしい。

「もう、それだけはやめてほしかったのになぁ」

 名前は口を尖らす。拳銃は嫌いだ。珍しく名前と意見が一致した。見るのも厭なくらい、忌々しい。例え許可されたって持ち歩いたりするものか。
 ──許可?いったい誰に?俺には、拳銃なんて必要ない。
 明滅する光。入り交じる記憶。浮かんでは消えていく、思い。──あぁ、頭が酷く痛む。

「……やり返すなよ」

「あはは、しないよ。アキくんの、悲しむようなことは」

 名前は「心配しないで」と口角を上げる。「キミの気掛かりは、私が何とかしてみせる」それは今追ってきている男たちのことだけではないような気がした。俺はいったい、何を守りたいと思っていたのだろう。
 ただ、そのひとつが今となりにいる少女であるということだけは確かだった。

「どんなに遠く離れたって、こっちのことはわかるんだ。信仰を持つすべての人が私の眼になってくれるから。だから、何かあったらすぐわかる。アキくんの守りたいもの、ぜんぶ私が護るから」

「……何の話だ」

「アキくんの話だよ」

 名前は運転しているだけだ。その手に武器はない。銃なんてもってのほか。なのにどこからか発射された弾丸が、後方の車を射抜いた。空気の抜けたタイヤは潰れ、追っ手はやがて見えなくなる。

「『復讐と報復とは、わたしのもの』だよ」

「……聖書か」

「そう。だからアキくんは気にすることないんだよ。キミの願いは私が果たす。……それくらいしか、できないけど」

 名前は、何を言っているのだろう。同じ言語を使っているはずなのに、どこか遠い。彼女が何を言っているのか理解できない。俺を通して、違う誰かに語りかけているみたいだ。
 でも、その響きに痛々しさを感じる。……かわいそうに。何故だか、そう思う。かわいそうに。かわいそうな、名前。俺の妹、……俺は、彼女の兄だ。

「俺は、」

「……うん、」

「……いや、」

 俺は、前を向いた。青い空。名前は車を停める。空港、その駐車場。遮るもののない天井からは光が降り注いでいた。
 束の間の夏は過ぎ去り、新たな季節がやって来た。思念の秋。落日の、和やかな光。灼けつく夏は、きっと俺には眩しすぎた。
 言うべき言葉は他にあったのかもしれない。でも今の俺には「ありがとう」という以外に何も思いつかなかった。ありがとう。──名前が、俺のことを考えてくれているのは確かだ。
 しかしそれを告げると、名前は目を見張った。驚き。それから、……それから、これはいったいどのような感情だろうか。名前は泣き出す寸前のようにくしゃりと顔を歪めた。

「ごめんね、アキくん」

「……あぁ、」

「ごめん、ごめんなさい……」

 俺は、赦すとは言わなかった。赦すとも、赦さないとも、俺には言えなかった。審判は、俺の手にはない。
 俺は肩を震わす名前をただ抱き締めた。俺よりずっと小さな体を。抱き締めて、こんなに頼りないものだったのかと今さら思い知る。大人びた顔をしていても、まだ子供なのだ。
 実感すると、胸に温かなものが生まれた。同時に、俺が守らなくては、とも。