銃の悪魔編IFアキ√V


 ──人は普通、どういう時に幸福を感じるのだろう。

 青白い薄明が部屋に一筋差し込む頃、私は目を覚ます。
 夢と現のあわい。ひやりとしたシーツの感触。波間の向こうに見えるのは、安らかな眠りに守られたひと。仄かなる光に縁取られた輪郭、黎明の広がりゆく顔に触れる時、私は途方もない幸福を感じる。その頬の柔らかさ、肌の温かさ、健やかなる寝息、それらすべてが愛おしい。

「ん……」

 しかしそのひとときは、ほんのささやかなもの。じきに彼は眉を寄せ、むずがるような声を洩らす。覚醒は近い。ゆっくりと持ち上がる瞼を、その奥に隠れていた尊い光を、私は見つめ、笑みかける。

「おはよう、アキくん」

「ああ……」

 応じる声はどこかおぼろ。アキくんはぼんやりとした表情で目を擦る。それでも「おはよう」としっかり返してくれるのは育ちのよさゆえか。そういうところが好きだと、私は思う。

「……おい」

「んー?」

「いつまでこうしてるつもりだ」

 アキくんが隣にいる。同じベッドで眠って、目を覚まして、言葉を交わしてくれる。それがたまらなく嬉しくて、幸せで。離れがたくて、寝そべったままアキくんの頬をつついていると、さすがの彼も顔を顰める。

「いい加減やめてくれ」

「つれないなぁ」

 まぁ、そんなアキくんが好きなんだけど。
 惚れた弱味というやつで、冷たくあしらわれてもまったく気にならない。彼にとってはいい迷惑だろうけど。
 「触り心地のいい肌をしてるのが悪いんだよ」そう言うと、アキくんは「どんな言い訳だ」と呆れる。金色の陽が昇るのと引き換えに、微睡みは連れ去られてしまった。彼の目にはもう、先刻まであった眠りの気配は残っていない。窓の向こうからは雲雀の飛び立つ音が聞こえてくる。

「あーあ、眠ってる時はあんなに可愛かったのに」

 ほんのりとした光が長い睫毛や鼻筋、輪郭に宿るのを見るのが好きだ。そしてそれをじっくり眺めるには眠っている時以外他にない。だから私はいつも夜明けと共に目を覚ます。当たり前のように隣にある幸福を噛み締めながら、夜の終わりを迎えるのだ。
 しかしアキくんには理解してもらえない。彼は言う。

「人の顔なんか見て、何が楽しいんだか」

 と。
 ……かわいそうに。アキくんは美的感覚が麻痺しているのかもしれない。麻痺しているから、「同じようなもんだろ、名前も」なんておかしなことを言い出すのだろう。
 その証拠に、「ちなみにどこらへんが似てると思うの?」と聞いてみると、少し悩んだあとでこう返してきた。

「……目と鼻と口が、」

「うん、そのへんのパーツがついてるのは知ってるよ」

 まさかそんな古典的な回答をいただくとは思ってもみなかった。尤も、彼の口が甘い言葉を吐くところも想像できないが。
 それでもほんの少しの期待はあったのだろう。「つまんないの」そう呟いた声は、思いがけず拗ねたもの。私はベッドから起き上がり、ローブを羽織った。子供じみた反応だ。幸せだと思っているのに、どんどん欲張りになる。これこそ悪魔の業というものだろうか。

「なに怒ってるんだ?」

「別に怒ってないよ」

「……そうか、腹が減ってるんだな」

「……キミは私を何だと思ってるのかな」

 アキくんは勝手に納得して、立ち上がる。肩に流したままの黒髪が眩しい。
 彼は手早く着替えを終えると、慣れた所作でエプロンを結んだ。いつからか、食事を用意するのはアキくんの仕事になっていた。記憶はないはずなのに、不思議。私はアキくんの後に続いてキッチンに向かう。

「今日のご飯は何かな」

「なんだ、やっぱり腹空かせてたんじゃないか」

「違うよ。エプロン姿のアキくんを見ると自然とお腹が鳴っちゃうの」

 私がお腹を押さえると、アキくんは「パブロフの犬か」とちいさく笑う。
 まぁ、異論はない。「その通りですワン」お手、おかわり、伏せ、なんでもござれ。犬の真似は得意だ。何せかつては忠犬とも呼ばれていたのだから。

「甘いのとしょっぱいの、どっち?」

「甘いの!」

「それならジャム用意しておいてくれ」

 私は素直に返事をし、それからコーヒーを淹れる用意をした。適材適所というより、消去法だ。私は料理をしているアキくんを眺めるのも好きだから、マキネッタを火にかけながら、横顔を盗み見る。
 一度は失われたアキくんの片腕。しかし今、彼の肩から伸びた左腕はボウルをしっかりと支えている。信仰の悪魔によって新たに生み出されたそれは、今日も違和感なく動いているらしい。……本当に、よかった。

「アキくん、髪、伸びたねぇ」

 徐々に勢いを増していく陽が室内を満たし始める。アキくんの青みがかった黒髪とて例外ではない。天使の輪ができたそれは、いつの間にやら肩より先にまで達していた。

「ん、……あぁ、そうだな」

「切らないの?」

「切ってほしいのか?」

 アキくんは私をちらりと見る。じゅうっと、ワッフルのたねが小気味のいい音を立てる、その横。繊細な手さばきとは反対に、アキくんときたら自身のことには興味なさげ。私が肯定したらバッサリいってしまいそう。
 ……それはなんだか、納得がいかない。私は「……わかんないや」と首を振る。アキくんにはもっと、ワガママになってもらいたい。それが、私のワガママ。

「どっちでも格好いいと思うよ、アキくんは」

 結局、こんなことしか言えない私。いや、本心ではあるけど。出会ったばかりの頃みたいな短髪のアキくんに会いたくないと言ったら嘘になるけど!
 そんなことで悩む私、そして黙々とワッフルを焼くアキくん。コーヒーの香ばしい匂いが私たちを取り巻く。文句のつけようがないくらい、素晴らしい朝。甘い日差し、木立のさざめき、小鳥の囀り。
 「……お前も、」アキくんはぽつりと呟く。私はアキくんを見る。アキくんの、悩ましい瞳を。
 私はアキくんの願いを叶えたい。私の願いを叶えてくれたアキくんに、せめてもの恩返しがしたい。アキくんには、不安も悲しみも感じてほしくない。
 なのに、悩ましい目をしたアキくんは続きを口にしてくれない。「いや、」と打ち消し、片手で私の髪に触れた。

「お前は鬱陶しくないのか?」

 髪、とアキくんは言う。私の髪を、毛先を弄ぶ。なんだか変な感じだ。擽ったいような気さえして、私は首を竦める。

「うーん、ちょっと切ろうかなぁ」

「……切ってやろうか」

「アキくんが?」

 確かにアキくんは器用だけど。でもまさか自分から言い出すなんて。私が頼んだら面倒だって言いそうなのに、どういう風の吹き回しだろう?
 私がまじまじ見つめると、アキくんはふいと視線を逸らした。逃げていく指先が、少し寂しい。

「……その方が安上がりだろ」

「ちょっと〜!女の子の髪は大切に扱ってよね」

 アキくんは短い方が好きなんだろうか。私としてはアキくんの望みはできるだけ叶えてあげたいんだけど……でもこれはちょっとばかし悩ましいところ。
 「うーん」私はコーヒーを注ぎながら考える。私の髪。私の身体。人間に似せて作られただけの、悪魔の肉体。そこに成長の余地はない。身長も、爪も、……髪の長さも。

「アキくんが髪の短い女の子が好きなら切ろうかな」

「いや、そこまでは言ってない」

「え〜、ほんとかなぁ?」

 私たちはテーブルにつく。
 私の前にはフルーツの乗ったワッフル。アキくんのものにはベーコンと目玉焼きが乗っている。そこにサラダとスープをつけて完成。私は朝食なんてなんでもいいんだけど、アキくんが煩いのだ。長生きできないぞ、なんてあのアキくんが言うんだから、おかしい。……おかしくて、言われた時には泣きそうになった。私はアキくんにこそ長生きしてほしい。

「アキくんの本日のご予定は?」

「まずは蛇口の修理だな。ほら、六号室の」

「そうだったね、ありがと。それなら私は庭の掃除もしようかなぁ」

 日差しは深まり、このモーテルも新しい一日を迎えようとしていた。この部屋を出たら私たちはモーテルの雇われマネージャーだ。やることはいくらでもある。
 でもアキくんとならなんだって楽しい。何てことない日常が輝いて見える。
 私は「今日も一日頑張ろうね」と笑う。するとアキくんも微笑して、「ああ」と頷いてくれる。そういうことに私は幸福を感じるのだ。