人はパンだけで生きるのではない
悪魔の姿が目撃されたという森野ホテル。内部に突入した名前たちはしかし悪魔の策に嵌まり、八階に閉じ込められてしまった。
上にも下にも進めない、それはさながら檻といった様相。どこかでこの様子を伺う悪魔がいるとするなら、気分はまるで動物園の見せ物だ。腹立たしいことこの上ない。
「でもさぁ、おかしな話だよね」
ホテルの一室。眠りに就いたデンジ以外の一行は、二手に別れて部屋を検めることにした。名前は姫野、コベニと一緒だ。錯乱しかけていたコベニも、現実的な仕事を与えられたことで少しは平常心を取り戻したらしい。青ざめた顔は変わりないが、涙は止まっている。
そんな彼女と共に水や電気が変わらず使えることを確認し、名前は首を捻った。
「この空間だけ時間が止まっているっていうなら私たちは?お腹は空くし喉も渇く。私たちは絶えず進んでいるってわけだ。蛇口から水は出るけど、ホテル内にあった食料は無限じゃない。例えばそこの壁にかかった絵を外したらそのまんまだし……」
「つまりどういうこと?」
「いったい何の悪魔なんだろう、って思って。ずいぶん相手にとって都合がいいよね。能力の作用する対象が、都合よく限定されてる」
眉を寄せた姫野に答え、名前は冷蔵庫を閉める。もちろん、中にあった飲料の類いを回収するのは忘れない。これは貴重な資源だ。長期戦になることは既に覚悟していた。
「まぁちょっと、」姫野は悩ましげに目を細める。「普通のとは違うよね」つまりはやはり、銃の悪魔の肉片が絡んでいるということ。こんな小賢しい真似、そこらの悪魔にはできっこない。
しかし、何より気がかりなのは。
「そもそも、目的はなんだろう」
ことここに至るまで、悪魔からの接触がない。これは異常だ。悪魔は人間を喰らう。ただいたぶるだけじゃ腹は膨れないはず。なのに直接的な攻撃は一度もない。
──この悪魔はどうしてここまで悠長なことをやっているのだろう?
「私らにできるだけ苦しんで死んでほしいんじゃない?ほら、餓死って相当つらいもんでしょ」
「ひぃっ……」
餓死。姫野のその一言で、どれだけ豊かな想像をしたことか。名前から渡された荷を詰めていたコベニが、びくりと肩を震わした。
堪らず、といった様子で素早く辺りを窺う少女。あんまりにも哀れで、名前は彼女の頭を撫でた。「大丈夫だよ。ほら、」コベニの死角から取り出したもの。それを手に、名前は笑いかける。
「こんなものでも餓えは凌げるでしょ」
「これ……ビスケット……?」
「しかも子供用じゃん」
コベニには困惑を、姫野からは愉快だという目を向けられ、名前は口を尖らす。このお菓子のありがたさがわからないとは。
仕方ないから説明してあげよう。名前は二人しかいない聴衆に向け、「旧約聖書から名づけられた、とびきり素敵なお菓子だよ」と僅かに胸を張る。
が、しかし、姫野の反応ときたら冷めたもの。ひょいと肩を竦め、
「でも赤ちゃんが食べるやつでしょ?」
「……そんなこと言う姫野ちゃんには分けてあげないから」
すっかり拗ねて、名前はそっぽを向く。常々思っていたけど、姫野ちゃんには信仰心が足りないと思う。ある意味では強さなのかもしれないけど、もう少し頼ってくれてもいいのに。
そんな不満があるとはいえ、彼女は名前にとっても大切な友人だ。親愛なる隣人。
「うそうそ、ごめんって」
だからこんな軽い謝罪だって、「しょうがないなぁ」と受け入れてしまう。受け入れてしまうほかない。そういう風にできているのだから。……それが、名前の役割だから。
「わ、私は嬉しいです……いただきます……」
引き換え、コベニちゃんのなんと純粋なこと!
名前はにっこり笑って、「他にも色々あるよ」と彼女の鞄──元々はどこかの宿泊客の物だろうが──に、荷物を増やしていく。
パン、ウエハース、チョコレート……信仰に所縁のある食べ物たち。それらを押しつけられ、コベニは「え、え……?」と目を白黒させる。
「四次元ポケットか」
「まぁね、そんな感じ」
姫野のツッコミは殆ど当たっている。名前なら、魚やら葡萄酒やらで満たすことも可能だ。
けれどそれらは今必要なものではないだろう。そう考えたから、携帯食に相応しいものだけを選んだ。
──尤も、コベニちゃんが望むなら幾らでも用意ができるけど。
その言葉は呑み込んで、名前はコベニにペットボトルを渡す。
「ちょっと休憩にしよっか」
相変わらず、八階は静まり返っている。悪魔の匂いもない。異常なまでの、安寧。しかし気を張り続けるのは疲労を招くだけだ。
頷いたコベニをベッドに座らせ、名前も隣に腰を落ち着ける。
こんな時でなかったら、思う存分ゆっくり休んだのに。思い出すのは、健やかな寝息を立てるデンジの顔。眠るのもいいけど、読書もしたい。映画を観るのもいい。時間を気にせず、好きなことを好きなだけ。──あぁ、なんだか余計に悪魔が憎らしくなってきた。
「さっきの話だけど、」名前は窓辺で煙草をふかす姫野に水を向ける。
「ん?」
首を巡らす可能の後ろ、普通なら青空が広がるはずの場所には、ホテルの別室が広がっていた。
不可思議な空間。俯瞰して見たなら、現在の八階はいったいどのような構造をしているのだろうか?
『下手したら宇宙が膨張するのでは』と考えながら、名前は口を開く。
「悪魔がなに考えてるかって話。だって私たちが餓えるのを待つ間、悪魔だってここを離れられないでしょ?その間餓えてるのは向こうだって一緒。けどそうまでして私たちを殺したい?……私たちに、拘る理由があるの?」
それが引っ掛かって仕方ない。その答えを導き出すことが、ひいては活路を開くきっかけになるのではなかろうか。
そんな名前の問いに。姫野は紫煙をくゆらせ、苦笑する。
「悪魔に恨まれる覚えなんて……ありすぎるなぁ」
「そりゃデビルハンターなら誰だってそうでしょ」
第一、悪魔が徒党を組むことなどそうそうない。今生きているデビルハンターは、出会う悪魔を残らず殺してきたから生き延びている。だから、恨みを持つ相手もいないはず。
それに、このホテルを漂う空気からは憎悪を感じ取れない。どちらかというと観察者の目だ。どこからか様子を窺われている感覚。これが不快極まりないのだ。名前は眉根を寄せる。
「でもこの悪魔は私たちを選んだ。殺すでもなく、ただ閉じ込めて」
「私たちを餌に……するなら時間を止める必要はないね。それじゃ外の人間は誰も異常を察知できないもん」
「異常だと思わなきゃ、応援はやってこない……餌としての意味がない」
しん、と落ちる静寂。コベニは会話に加わらず、ビスケットを頬張っている。そこだけ切り取ったならなんと長閑な光景だったろう。
「……わっかんないなぁ〜!」
暫くして。沈黙に耐えかねたように、姫野は両手を挙げる。降参のしるし。「頭を使うのは得意じゃないんだ」嘯いて、「そういうのはアキくんに任せよう」と笑う。
彼の話をする時の彼女は、本当に楽しそうだ。無理をしていない、というのか。変人を気取っているけれど、本当の彼女はわりと普通の人間だと名前は知っている。『姫野はまともだ』と師匠も言っていた。
だから、名前は少し心配になる。この異常事態。誰に何が起きるかわからない中──もしものことがあったら、彼女はどうするのだろう。
「……そうならないように、私も頑張らないとね」
ひとりごち、名前は二人に見えないところで拳を握った。