われ憐みを好みて犠牲を好まず
あれから、どれくらいの時間が経ったろう。時計を見ても、針は少しも動いていない。確認するたびに募る疲労感。──限界は近かった。
それぞれに休息を取る中、しかしアキだけは変わらず探索を続けていた。リーダーとしての責任感ゆえか、それとも悪魔への憎しみゆえか。
根をつめすぎるのもよくないと思うのだが、彼は聞く耳を持たない。姫野が心配してもなしのつぶて。『やれやれ』と溜め息をつく彼女に代わり、名前は彼のあとを追った。
「アキくん、」
「お前も休んでていいぞ」
一瞥。それだけで、片づけてしまう。ともすれば冷淡ともとれる……、けれどそれは彼の心根の優しさから来るものだ。
それがわかっているから、名前は強く出られない。彼の優しさを無下にはできないし、『キミこそ休みなよ』と言ってもやっぱり無視されるだけ。簡単に予想がついて、代わりに名前は「平気だよ」と握りこぶしを作った。
「知ってるでしょ。私、体力はある方なの。だから今だってめちゃくちゃ元気なんだから」
「……そうか」
冗談めかすと、能面のようだった顔がふっと緩む。口許だけの仄かな笑み。それでもないよりはマシだ。少しくらい、気を抜いた方がいい。特に彼のように真面目な人間は。
「だからね、」名前は殊更明るく振る舞う。「アキくんを手伝ってあげようかなって」廊下をゆく彼。その冷たい腕に手をかけて、名前は笑う。これで、少しはアキくんの気が晴れるといい。
「助かります。俺だけじゃ何か見落としがあるかもしれませんから」
「オッケーオッケー、どーんと任せておくれよ」
とは言ったものの、調べられる場所には限りがある。森野ホテルの八階。それ以外に行くあてはないのだから。
しかし彼が諦めない以上はどこまでも付き合うつもりだ。
「もう一度階段を見てみましょう」
彼がそう言ったから、名前も素直に従う。
長い廊下、敷き詰められたカーペット。きれいな左右対称を生み出す、空間。響く靴音はなく、満ちるのは恐ろしいほどの静寂ばかり。鈍い色を放つ照明に、思わず目が眩む。
眼前に広がる光景に、何とはなしに連想するのは一本のホラー映画。二十年ほど前に作られたその作品もホテルが舞台だった。左右対称に組み立てられたホテル。偶然の、そして些細な一致が、今はどこかうそ寒い。
「おい、どうした?」
「や、改めて見ると、いかにも出てきそうなホテルだなぁ、と」
「出てきそう?」
「ほら、双子の幽霊とか、そういうの」
「……『ゴースト』が双子だって話は聞いたことないですけど」
怪訝に傾ぐ首。けれど名前にとってみればその反応こそが驚きだった。
早川アキといえば公安でも有名な仕事人間だ。彼の生き甲斐は悪魔を狩ることであり、デビルハンターであることが彼の支えでもある。彼の生とデビルハンターであることは切っても切り離せない。
それは名前とて重々承知していたが、この返事には不満を露。「何でそうすぐに悪魔と結びつけるのかなぁ」幽霊といったら幽霊だ。悪魔なんていう型にはまった生き物じゃない、本物の、超常現象。
その響きに胸が踊った経験が、まさか彼にはないとでも?
「私が言ってるのは『シャイニング』のことだよ。あのキューブリックの撮った、傑作の話!」
近く新作映画の公開も控えているということもあっての連想。熱弁する名前だが、しかしアキの反応といえば淡白なもの。「ああ、」と顎を引き、「そんなのもあったな」と言うにとどめる。
「……かわいくないなぁ、もう」
──あの映画を観て、その感想で終わるのが信じられない。
名前は無性にヒロフミが恋しくなる。共通の趣味を持つ友人。彼との語らいが、ひどく懐かしい。『現金に体を張れ』の哀愁漂うラストシーンがいかに美しかったか、という点で、彼とは意見が一致していた。
今ごろ彼はどうしているだろうか。高校生だと言っていたから、授業の真っ最中か。それとも休み時間だろうか。彼が同年代の輪に入って和気藹々としているところなど、想像もつかないけど。
……なんてことを考えて、はた、と思い至る。
そういえば、外界はどうなっているのだろう?このホテルの外は?時間が止まっているのでは、とアキくんは推理したけど、本当のところは?もしも時間がごく当たり前に流れていたとしたら、悪魔の討伐が遅れれば遅れるほど、世間からは取り残されるというわけ、で……?
「たいへんだ!」
「今まで大変じゃなかったことがあったか?」
「そうだけど、そうじゃなくて!」
冷めた声と、対照的に名前は慌てふためく。いや、確かに本当に今さらのことだけども!と。
でも今までは別に気にならなかったのだ。世間から取り残されようと、名前にとっての世界は『公安のデビルハンター』の中で完結していたのだから。
けれど今は違う。名前には大事な『約束』がある。今週末には、新作映画を観に行くという大切な『約束』が。彼と『あこがれ美しく燃え』を観に行くため、なんとしてもここから脱出しなくてはならない。
「よし!美しき友情のため、この悪魔には死んでもらおう!」
「なんだかわからないが、やる気になったなら何よりだ」
話をしているうちに、件の階段にまで辿り着く。異常の始まった地点。七階と九階へ繋がるはずの空間は相変わらずの円環。
そんなことはもうわかりきっていたから、壁や床になんらかの手がかりが残っていないか目を凝らす。アキはアキで壁を叩いてみたり、耳を澄ませてみたりしているが、なかなか成果は上がらない。
やがて沈黙の中、吐き出される重い息。「みんなの様子は、」彼にとっての気がかりはやはり己の身でなく、他の者のことらしい。アキくんらしいな、と名前は内心で笑う。そういう人じゃなきゃ、手を貸したいとは思わなかったろう。
「デンジくんならまだお休み中。パワーちゃんもベッドにはいるけど寝てはいないみたい。コベニちゃんと荒井くんは姫野ちゃんに見ててもらってるよ」
「……だが、そう長くはもたないだろうな」
それは後半、新人二人に向けての苦慮だ。いや、姫野とてどこまで持ちこたえられるかはわからない。人間は、悪魔とは違う。悪魔とは違って、繊細な生き物なのだ。
「……いざとなったら、」
だから、守らなくてはならない、と思う。
「みんなをここから出すだけなら、私でもできると思う。だから、どうしようもなくなったら、その時は」
抑えた声は、静寂の中でよく響く。名前なりの決意の現れ。早川アキという人間が『デビルハンターであること』で確立されているというなら、名前にとってのそれは『一人でも多くの人間を守ること』だ。仲間の命を繋ぐ、それはとても幸せなことだと思う。
けれどアキは「それじゃダメだ」と首を振る。それじゃあ意味がない、と。
「俺たちの任務は悪魔を駆除することだ。逃げ帰ることじゃない」
「でもみんなしてここで無為に時間を使うこともないよ」
彼の言う通り、名前のふるえる力にも限界がある。幾つかの奇跡は起こせるが、姿を隠したままの悪魔それ自体を倒すまではできない。かといって、他にどんな手があるだろう?
そんな名前の反論にも、アキは表情を変えない。「いずれにせよ、悪魔に背を向けるのだけはごめんだ」頑固者。そう、名前が挟むより早く、彼は言葉を続ける。
「少なくとも俺はここに残る。……あんたをひとりにはしない」
「……そ」
アキくんのすけこまし。そんな揶揄いも、喉元で溶けていく。
女心のわからない朴念仁のくせして、時々すごい殺し文句を言うから、調子が狂う。なんだってこう、さらっとかっこいいことが言えるのか。本人としては言った自覚もないのか、照れもしないのが少し、腹立たしい。