鳳仙と元託宣者


 椿曰く。
 名前は人を"みる"のだそうだ。人を観て、視る。名前にできるのはあくまでそこまで。そこから先ーー名前を託宣者たらしめたのは"人"の方だ。

「だからね、篝のとは違うんだよ」

 椿は言う。「神憑り"的"であっても、そこに神はいない」あるのは"人"。大衆の妄想。それが名前を"人"でなくした。

「俺には違いがわからん」

 椿から聞いた話を思い起こしながら、腕を組む。鳳仙からしたら名前のも十分"託宣"に近い。彼女の言うことは不思議と当たるのだ。それも椿は名前の目ーーその観察眼による導きだと言うが。事情を、つまり名前の育った環境を知らぬ者にとっては"神"にいと近き者に映ったろう。今は亡き宗教団体での騒動を回顧する。名前を託宣者として崇める者たち。そのなれの果て。積み重なった死体の上に、名前の生はある。

「むぅ……」

 ……のだけれど、腹這いになって唸っている姿からはそんな過去は見えてこない。そこらへんにいる女の童と大差ない。異なるのは体の齢だけで。
 体と心。その解離。こういうところも篝と似ている。似ているが、やはり違うのだと椿は言っていた。時の止まった篝と緩やかな時の名前。

「そのうちにぐんと大きくなるだろうさ」

 なんの心配もないと椿はからから笑った。「いまに先生よりずうっと大人になるよ」女の成長は早いからねぇ、なんて、鳳仙をからかうのも忘れない。
 その椿はなにやら当たり屋ーーではなく、当て屋の仕事があるだかで朝から出掛けていた。

「先生んとこがいいってごねるもんだからさ」

 ひとりは嫌なのだと名前は泣く。いや、泣いてはいないが、顔がそう言っている。長らくひとりで囚われていた、そこから突然日の下に連れ出されたものだから据わりが悪いのだろう。

「せんせい……」

 鳳仙は元来子どもという生き物が苦手だ。ついでに"女"というのも大の苦手だ。恐ろしいーーヒトを喰らうモノ。鳳仙には魑魅魍魎と同じに映った。
 けれど泣きそうな顔の名前を見ると、着物の裾を小さく握ってくる様を見ると、ーーどうもいけない。
 結局鳳仙は了承した。それを見て椿がまた笑ったのは言うまでもない。

「うぅん……」

 その名前は相も変わらず唸っている。一体何を悩んでいるのやら。

「どうしたんだ?」

 聞くと、名前はパッと顔を上げた。潤んだ目。名前くらいの齢なら色を感じさせる表情だが、鳳仙には泣きべそをかいた子供にしか見えない。

「いぬ、かけない……」

「犬?」

 名前の下、広げられた紙の上。そこには黒い塊が蠢いていた。「……犬?」どこらへんが犬なのか。もしやぴょんと飛び出た二つの山が耳なのか。だがしかし輪郭だけ辿っても犬らしさがない。どころか、生き物かさえ怪しい。
 首を傾げる鳳仙に、名前の顔が歪む。「うぅ……」今にも泣き出しそうな、そんな顔。
 鳳仙は慌てた。彼女を泣かしたとなれば、椿や菖蒲が鳳仙を責め立てるに違いない。そもそも名前に泣かれるのは鳳仙としても本意でない。というか、ばつが悪い。

「あっ、ああ〜、そうだな、犬、犬だよな、うん、犬だ」

 取り繕っても遅い。名前は観る者。隠し事など彼女の前にはないに等しい。「いぬ、ちがう……」うぅっとさらに肩を落とす。墨で汚れた指の腹が、くしゃりと紙を潰した。

「あー……」

 どうしようか。考えても、鳳仙にはわからない。いつだって最善から踏み外してきたようなものだ。子どもの扱いも女の扱いも鳳仙にわかるはずもない。
 でも。

「……描くか?一緒に」

「ーーうん!」

 名前の笑う顔は、好ましい。
 子どもだからか。女じゃないからか。名前の手を握っても悪寒も吐き気も襲ってこない。ただ、肌の柔さだけが鳳仙に伝わる。
 鳳仙は名前の手に自分のそれを添えた。そうして二人でひとつの犬を描いた。名前の指は墨で黒々と濡れそぼっている。けれど名前は笑っていた。

「せんせい、」

「ん?」

「ありがとう!」

 名前は笑う。無邪気に。大人でも子どもでも男でも女でもないところで。鳳仙には眩しすぎるくらいに。まっすぐに笑う。

「せんせいは、せんせい、なのね」

 二人で描いた犬は歪だった。顔は丸々と太っているし足は駆けるには心許ない。なのに、名前は笑う。こんなことで。絵師とは名ばかりで。日々に埋没していく鳳仙を。その絵をいとおしいと、清らかな眼で語る。

「せんせいの絵、すきよ」

 名前は言う。春画の垂れ下がる暗い部屋で。鳳仙の手を掬い上げる。

「やわらかくて、あたたかくて、生きてる、感じがするの」

「……評判はからっきしだけどな」

 名前の実直さを受け止めるには鳳仙は曲がりすぎていた。つい、自虐的な笑みを浮かべてしまう。そういう性なのだ。仕方がない。
 だが名前はそれすら飛び越える。飛び越えて、鳳仙を抱き締める。

「なら、ひとりじめ。せんせいの絵、わたしだけのもの」

 名前は笑った。悪いことを企む顔。悪戯を思いついた子どものそれ。けれど子どもではない。子どもよりもずっと聡い。大人よりもずっと広い。そこに神を見いだしたのも無理からぬことだーー思考の片隅で鳳仙は思う。
 それでも彼女は神じゃない。人だ。ただの、娘だ。
 鳳仙は息を吸った。

「いいや、俺は絵師だからな」

 堕ちていくのは容易い。それを誰かのせいにするのは気楽なものだ。逃避は心地がいい。
 でも名前に押しつけるのは鳳仙の理屈に合わない。だから切り捨てた。はね除けた。

「……そう」

 名前は目を細めた。鳳仙を振り仰ぐ目には一体何が映っているのだろう。鳳仙は名前ではないからわからない。わからないが、それでいい。

「せんせいなら、そう言うってしってたよ」

 名前が笑うのなら、それがいいのだーー。

「名前のもひとつの性さ」

 椿が長屋に帰ってきたとき、名前は疲れて眠ってしまっていた。その頬の膨らみをつつきながら、椿は言う。

「人を観て。人を視て。それを繰り返してきたんだ。簡単には変われないだろうよ」

 人の望む言葉を与える。それが長らく名前の役目であった。

「まっ、先生なら手出しはしないだろうと思ってたけどね」

「なんだそれは」

「先生にそんな度胸はないだろう?」

 したり顔で言われると反論したくなる。が、事実は事実だ。
 鳳仙はぐっと言葉を飲み込んだ。

「……だから、この子は先生がお気に入りなんだろうね」

「椿のことも、だろ」

「そりゃあ私だからねぇ」

 羨ましいかい、とニヤニヤ笑う椿。まさか、と鳳仙は咄嗟に言い返したのだが。
 正直なところ、こうして慕われるのは悪くなかった。






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椿や先生との出逢い編も書きたいんですけどそうすると中編レベルになりそうなので今回は割愛。
簡単に言えば宗教団体の教祖さまに祭り上げられてた主人公です。あがほとけ編みたいな。